赤い肖像
ある夜の酒場にひとりの客が訪れる。
酒場の看板を見ると〈椿亭〉―――ビッグ・ベンの鐘が午前3時を告げた。
霧の町と言われた街だが、それは19世紀の産業革命による石炭の煤が原因のスモッグが原因で、現在は温暖化もあり霧の発生は減っている。ようするに、霧の街というロマンチックな二つ名の正体は、史上初で、最大の大気汚染が原因だったのだ。それでも今日は、寒さのためか、テムズ川沿いに久々にミルクのように濃い霧が発生した。ロンドンスモッグとは違い、服が煤で汚れない水蒸気の霧だ。
「は~~い、マスターぁ!お元気してたぁ?」
一見して堅気には見えない服装と派手な化粧の女性が入ってきた。
残っていた客がハッとこちらを見て口をあんぐりと開けるくらい、美貌の女だ。
自信にあふれ、人を魅了するオーラをはなっている。
彼女はジェマイマ。場末のダンサーには似つかわしくない美貌と、自信にあふれ、人を惹きつける魅力があった。
「おぉぉ、ジェマイマか……しばらくぶりだな。お前の姿が見えなくて、ルーファスが嘆いていたぜ」
「よしてよ、あんな貧乏人……あたしはお金持ちの気前のいいパパさんとドーバー海峡を越えてヨーロッパ旅行よ」
「そりゃ豪勢な話だな……まるで、映画の『王子と踊り子』みたいな話だな……」
「えぇ?あたしって、マリリンに見える?やっぱりハリウッドに行って女優になろうかしら?」
「よせよせ……上には上がいるさ……それより、旅行は楽しかったか?」
「楽しかったわよお……ほらほら、最近さあ……ロンドンに不気味な殺人魔が出没して、劇場の深夜営業も自粛しちゃって、おまんまの食い上げだったじゃない!家に閉じこもってちゃ辛気臭いから、馴染みの上客にヨーロッパ旅行を誘われていたから行ってきたの……あっちは湿っぽい霧がなくて、太陽が燦々と輝いてたわ」
マスターはカウンター席に座ったジェマイマに、彼女の好きな、血のように真っ赤なワインと自家製のソーセージを振る舞い、グラスを磨きながら旅行話を聞いていた。
「んふぅ~~美味しい、美味しい❤」
〈椿亭〉の主人は、口をへの字にした頑固な男だ。大柄でこわそうにみえるが、人当たりは良い。もう閉店の時間で、マスター以外には客席に二人しかいない。
「ほう……で、どこへ行ってたんだい……」
「フランス、オランダ、ドイツ、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴラスビア、イタリアなどなど……各地の名所を一通り見てきたわ」
「二日前に帰ってきたら、気が抜けたのか、どっと疲れが出ちゃって、ずっと寝ていたわ……」
「それはそれは……」
カウンターの隅にいた先客が帰って、話題が途切れ、店に音楽だけが流れる。
ふと、壁に視線を向け、一幅の絵を見上げた。
縦1メートル、横60センチの油絵で、山羊の角と下半身を持つ牧羊神パーンが笛を吹いて、羊飼いの少年たちと踊っている絵だ。牧神は真っ赤な表皮をしていて、人物も草原も背景も夕日に当たったように真っ赤な絵だ。右下のサインはルーファスと署名されている。
「そうだ、あの真っ赤っかが大好きな画家先生……ルーファスに絵のモデルを頼まれてたのよね……下書きの途中で、一ヶ月も連絡なしで姿を消しちゃったのよね……カレ、怒っているかしら?ふふふ……」
ルーファスという男は酒場の裏の貸家に住んでいる画家だ。貸家の持ち主は椿亭の主人で、その縁で牧神の絵を飾っているのだろう。亡くなった両親の遺産を切り崩して、画業で生計をたてている男だ。独特の画風で、情熱的な真っ赤な色彩の絵を描いていた。
アンリ・マテイスの赤い部屋、日本の赤富士の浮世絵、ニューマンの赤い光、などなど、鮮烈な赤に取り憑かれた絵を描いた画家は多いが、それは画題の一つとしてだ。彼は常軌を逸したように赤い絵ばかり描いていて、まだ有名ではないが、赤の画家として識者に知られていた。
彼はダンサーのジェマイマのファンで、熱心に絵のモデルを頼んでいた……
噂をすれば影というが、そこへ踊る牧神の絵の作者・ルーファスが酒を飲みに来て、
「ジェマイマ!どこへ行っていたんだ……心配していたんだ……殺人魔に殺されたかと思ったよ……」
「ごめんなさ~~い、画家先生!劇場の上客のオジサマに強引に誘われて、ヨーロッパ旅行に行ってたのよぉ……挙句の果てに、彼って、東ヨーロッパの元貴族で、名士で資産家だから、地元で一緒に暮らそうって誘惑されちゃって……その気になって、一週間ほど暮らしてみたけど、飽きちゃってねえ……逃げ出してきちゃったあ……やっぱり、あたしはヨーロッパの片田舎より、ロンドンの下町が性に合うのよねえ……」
「そうかそうか……災難だったなあ……心配していたよ……殺人魔の手にかかったんじゃないかと思ってね……」
マスターが「やれやれ、この小悪魔め」と言った表情をするが、黙ってグラスを磨く。
「そうそう……ロンドンを震撼させた殺人魔はどうなったの?」
殺人魔の事件は、まず、テムズ川にあがった水死体が発端だった。しかも事故ではなく、首を斬りつけられ、傷痕のある死体だったのだ……
ロンドン警視庁は他の遺留品を探して川ざらいをするうちに、ほかにも死体が二つ見つかった……
ロンドン市内は騒然となった。かつて19世紀に恐怖のをまき散らした殺人魔の再来と噂した――
その殺人魔とは、通称・切り裂きジャック――――
1888年8月末から約二ヶ月間の間に、ロンドンのイースト・エンド、ホワイトチャペルで売春婦五人のバラバラ死体が見つかった……
しかも、被害者はメスのような刃物で咽喉を斬られ、臓器の一部が持ち去られていた……
現在になっても犯人は不明のままだ……
そして今回発見された死体は三人とも女性で、コールガール、家出少女、女性ホームレスだった……
首を斬られたのは最初に見つかったコールガールのみで、残り二人は打撲の痕があったので、事故の可能性もあり、同一犯人による連続殺人とは断定できなかった――――
だが、娼婦がいたことで、どうしても切り裂きジャックを連想してしまう……
ロンドンの霧に紛れて、ふたたび殺人魔が跳梁しているのだ……
警察は切り裂きジャックの模倣犯か?犯罪組織の仕業か?事故か?三人の遺体は関連があるのか?いまだ断定できずにいた……
こんな時間だが、ルーファスはジェマイマをアトリエに誘い、絵の仕上げのモデルを頼まれてついて行った。霧が濃くて10メートル先の建物が消えたように見えない。ルーファスは画家仲間からも、気難しく皮肉屋で友人が少ないのだが、気に入ったモデルには情熱的に口説き、卑屈なほどに下手に出る。
夜なのでアトリエの広い窓はカーテンが引かれ、間接照明が麻布の画布とモデルを照らして、仕上げが始まった。
そこかしこに描きかけの絵や習作の絵が見える。
暗い煉獄の炎の中で踊る女たちの絵、赤いレンガの建物に人間の顔や上半身が浮き上がった絵、振り向く女の白い裸身に血の雫が静脈のように滴り落ちる絵……赤い肖像画の数々……どれもぞっとする怖さと情熱が感じられる。
見れば、すでに下書きは着色され、油絵具が妖しい光沢をはなつ。19世紀のバレエの踊り子の衣装を着た、手足を伸ばして情熱的に踊るダンサー。女性の青白い肌と今にも動き出そうとする肢体は扇情的で人の目を惹きつける。だが、顔はドガの踊り子の絵のように表情がない。これに、ルーファスはイギリスに帰国した奔放な女・ジェマイマの生気を移しこんでいく……
数時間後、モデルの仕事は終わった。
「あらまあ、あたしじゃないみたい……でも、ぞっとするほど綺麗なものね……」
「ふふふ……今日は筆がのった。だが、まだ完成じゃない……仕上げの“赤”を塗らないとね……」
「仕上げの赤?」
「血と絵の具を混ぜ合わせたもので仕上げをするのだよ。血彩画という」
「わお!グロいのね!イカれてるぅぅぅ~~~ねえ、ねえ、血ってさ、ニワトリの血?」
「いや、人間の血、さ」
「血液銀行から買ったの?いや、貧乏なあなただから自分の血を使う気?」
それには答えず、画家は熱っぽい表情で血彩画について語りだした。
「そう……あれは依然、日本人アート展に行った時の話だ……とある墨絵に惹きつけられてね……それは、日本の古代のミカドを描いたもので、ヒコ・イトー(伊藤彦造)という日本の侍の末裔という画家が、自分の腕を傷つけ、己の血液を使って、失血でふらふらになりながらも魂をこめて描いたそうだ。それがインスピレーションになってね、さっそく私も真似してみたのだよ……」
「ホントに真似したの?クレイジーな話ねえ……」
「だが、あいにく私は失血で描く気力が出なかた……」
「あら、まぁ……ドジなオチがつくわね……」
「それにイトーの絵は、一見すると墨絵に見える。これは血が酸化して黒ずんだからだ……違うんだなあ……やはり私は『赤の画家』と呼ばれる男だ。新鮮な血の赤でカンバスに彩りたい……赤い絵具に朱色や、紅殻、黒、緑、あらゆる色を配合するが、今まで納得する私の〈赤〉は作りだせなかった……」
苦悩の顔をするルーファスだが、ジェマイマは我、関せずといった風だ。棚から薬瓶を取り出した。
「なに?それ?」
「ある人からもらった血液を加工する化学薬品だよ」
「血は鉄分が多くて、カンバスや支持材を酸化して痛めるし、変色して鮮やかな赤が黒ずんでしまう……だが、この薬を混ぜると酸化しないですむんだ……画期的な発明じゃないか……」
それで彼は食肉解体場から豚や牛の血をわけてもらい、色を研究して自家製の絵の具を作った。
赤の画家の絵が、サロンで評判になり、評論家からも好評だった。貧乏画家が飛躍のチャンスをつかんだのだ……
だけど、牛や豚の血では物足りないと気がついた……
自分の血を使うとふらふらになって描けない……
「だから……私は……他人の血をもらう事にした……」
ジェマイマが後ずさる。ルーファスの目が異常だ……
「コールガールに気に入った美貌の女がいてね……モデルを頼んだ……最後はその血まで提供してもらった……」
「それってさ……もしかして……テムズ川で発見された人?」
「……そのとおり」
モデル料目当てで引き受けたバイトだ。血まで取られては割に合わない。
―――ザシュッ!
突如、パレットナイフを振りかざし、ジェマイマに襲いかかる赤の画家。
彼は罪悪感が麻痺し、モラルも欠如した狂気の殺人画家になってしまったのだ……
入口の扉を開けようとノブを揺らすが、いつの間にか鍵がかけられている。
壁に背をむけて、ジリジリと窓側に移動する。ここも開かない。そこで、おもいきり悲鳴をあげて助けを呼ぶ。
「ふふふふふ……残念ながら、このアトリエは防音仕様さ……もう、あきらめたまえ……」
ジェマイマは美しい眉をつり上げルーファスをにらみつけた。時間を稼がないと……
「ところで、コールガールの血で描いた絵がないようだけど?」
「ふふふ……観念したのかな?そうさ、コールガールをモデルにして、血を採取しようと首を斬ったのだが、即死にならず抵抗され逃げ出した……今夜のような霧の中だったね……テムズ川沿いで見失った。水音がしたので川に落ちたのだな……そしたら、数日後に水死体が発見され、関係のない家出少女やホームレスの死体まで見つかった」
「ふ~~ん、偶然だったんだ……」
「俗悪な新聞社やメディアは現代の切り裂きジャック登場!だ、なんて騒ぎ立てるから、大人しくするしかなかった。幸い、目撃者もなく司法の手はここまで伸びなかったがね……」
「あたしには幸いじゃないわね……」
「観念して、私の芸術に身を捧げたまえ……」
殺人魔の画家がパレットナイフをジェマイマの首筋に斬りつけた!
その時、アトリエの入口の扉が開いた!
振り返るモデルと画家。大柄な人影がルーファスの頭を瓶で殴りつけ、破片が床に散らばる。腰を折って崩れ落ちるところを、人影は相手の脾腹に拳を叩きつける!
「な……なぜ……あなたが……」
狂人画家は意識を失った……
「あなたは……マスターぁぁぁ!」
大柄な人影は椿亭のマスターだった。このアトリエのある貸家はマスターが持ち主で、異変を感じて、合鍵を持ってここに来たという。悲鳴混じりに今起こった危機を語るジェマイマ。
「ルーファスめ……気難しい変人だが、人の目を惹きつける絵を描く。それが気に入って、家を貸したんだが、ジェマイマに手を出すとは……」
「そうよ、そうよ……こんなひどい奴だとは思わなかったわ……」
泣きそうな顔でマスターに訴えるジェマイマ。
マスターは気絶したルーファスを縛り上げておいて、ジェマイマを閉店した酒場の裏口から招いて、ワインを気付け薬代わりに振る舞った。
「ふ~~~っ、人心地ついたわ……」
「もっと、飲むかい?それと、ソーセージだ……」
「いいえ、それより、警察に連絡したの?」
「いや……連絡はしない……」
「へ?なんで?」
マスターはルーファスが描いた赤い牧神の絵を見上げる。
「貸家にいい借家人はいないかと探していた。ルーファスはエキセントリックな人物だが、人が良さそうなので貸した。絵の具の配合に困っていたので、ある薬品をプレゼントした……」
「ぶっ!ルーファスの言っていた血を酸化して黒くさせない化学薬品ね。それあげたの、マスターあったの?親切心が裏目に出たわね……でも、だからって、マスターが共犯者にはならないと思うわよ……」
「……俺も、そう思う……」
「?」
ジェマイマはテーブルのソーセージを見つめる。ブラッドソーセージだ。大好物だが、あんな事のあった後だ……彼女は食べようとしてやめた。ワインをあおる。
「おや、ジェマイマぁ?食べないのかい?大好物だろ?」
「……………いま、あんな事があったばかりなのに?デリカシーがないんじゃない?」
「それもそうだな……すまない……だが、栄養があるんだぜ?ブラッドソーセージは家畜を無駄なく利用するために先人たちが作り出したありがたい食品だよ。血は鉄分、ミネラル、ビタミンが豊富だからね。我がイギリスにはブラッドプディング、ドイツではブルートヴルスト、フランスではブーダン・ノワールと言ってヨーロッパの立派な食文化だ」
宗教上、血を食のタブーとする文化圏以外には、栄養摂取のため血料理が存在する。イヌイットはアザラシを狩って、その血液を大切な栄養源としてその場で飲む。スウェーデンの血のプリン、中國の毛血旺、台湾の猪血、フィリピンのディヌグアン、モンゴルのザイダス、韓国のソンジクッ ……などなど。高栄養なので調理に使う国は多い。(日本人には珍しく感じるが……)
「そうそう、ところで、キミは知っているかな?フリッツ・ハールマンを?」
「う~~ん……ベルギーのファーストフードのフリッツなら食べた事あるけど、ハールマンなんて……知らないなあ……」
「切り裂きジャックが登場した1888年から約30年後ドイツにもイカれた連続殺人魔が登場したんだ。そいつの名さ……」
「?」
「ハールマンは、ドイツのハノーファーの窃盗や盗品売買をする小悪党だった。だが、1919年から1924年にかけて24人も殺したという……」
「切り裂きジャックより被害者が多いわね……」
「被害者は若い男性浮浪者や男娼で、相手のとイチャついている最中に咽喉を噛み破って殺したという……」
「うげ~~~……咽喉を食い破るって、狼男の生まれ変わりかしら?」
「そう、ハールマンはハノーファーの〈狼男〉とも〈吸血鬼〉とも呼ばれている……」
「ドラキュラの映画を見たことあるけど、吸血鬼はもっとエレガントよ」
「まあ、とにかく、ハールマンは死体をドイツのライネ川に廃棄していたが、下流で大量の白骨が見つかって、それをきっかけに犯行がばれて逮捕された……」
「んん~~~?前に噂になったテムズ川の事件に似ているわね……そういえば、ルーファスは一人しか殺してないって言っていたわ……もしかして、マスターは今回の事件にルーファス以外にも連続殺人魔がいるとでも言いたいの?そのハールマンとかいう殺人者みたいに……」
ジェマイマはようやく、マスターが唐突に、昔の殺人魔の話題を始めたことに合点がいった。
「ハールマンは1918年にハノーヴァーで肉屋を開業した。大戦直後で肉が不足していた時代だ。だが、ハールマンの店にはいつも新鮮な肉があったという……」
「ん?肉屋をしながら、男娼を殺していたってこと?もしかして……」
「そう、噂では犠牲者の肉を豚肉として闇市場に出したという……まあ、噂で確証はないが、その噂で有名になった殺人魔だな……」
「まさか、マスターのブラッドソーセージもその変態の犯罪を真似したものじゃないでしょうね?」
ジェマイマが冗談めかしていう。さすがに食品を扱う者に失礼な冗談で、怒られるかと思ったが、あんな話をふるからには、こういう合いの手も出ようものだ。
「ぐふふふふふふふふふふふ……」
いつも落ち着いたマスターの異常なまでの哄笑に、ジェマイマはギョッとなった。
―――まさか……狂人画家から救ってくれたマスターが実は……実は……実は……
「そう、テムズ川で見つかった家出少女、女性ホームレスを捕まえようとして逃してしまったドジな連続殺人魔は私さ……」
「…………………」
「川で見つかった水死体以外にも被害者はいてね……家出少女、浮浪者はいなくなってもなかなか気づかれなくて重宝している」
「今まで……何人……殺したの?」
「さてね……まだ十数人さ……偉大なる先駆者ハールマンの足元にもおよばない。だが、いずれ、彼を超える日もこようさ……」
「ブラッドソーセージの話は、もう、いいわ……聞きたくない……」
目を伏せたジェマイマだが、異音がして、左肩に針が刺さったような痛みがして呻いた。目を見開くと、無表情な顔のマスターが銃を持っており、その銃口からワイヤーが伸び、その先にある針が彼女の左肩に刺さっている。
「いったあぁぁぁぁ……なんの真似よ、マスター!」
「昔の屠畜は斧やナイフで首を切ったりしたが、今は電気ショックや二酸化炭素を使うのだ……」
マスターがスイッチを押すと、ワイヤーがバチバチと放電が起こり、ジェマイマがビクンと体を感電させて、床に倒れ伏す……ワイヤー針タイプのスタンガンだ。針を発射するのに高圧ガスや火薬を使用するため、日本では銃刀法違反になるので販売されていない。
気絶した女を抱きかかえようと近づいたマスターは、突如、視界が霧で閉ざされた……気絶したはずのジェマイマが目を開き、右手で催涙スプレーを吹くから取り出し吹き付けたのだ!
「あいたぁぁぁ………痴漢撃退スプレーが役に立ったわ……」
「げほっ……げほっ……うぐぐぐ……目が痛い……痒い……涙がでる…………くそっ、スタンガンの電流が低かったのか……」
涙を流し、憤怒の形相で男はジェマイマをにらみつける。
「ぬうぅぅぅぅ……俺の正体を知られたからには生かしておけない……」
マスターは人の好い酒場の主人の仮面を捨て去り、目の痛みを気力で我慢し、厨房から大きな長方形の肉切り包丁を持ちだした。
「ちょっと、大袈裟じゃない?」
「くらえっ!」
マスターが肉切り包丁を構え、美女の首筋を狙い、水平に凶器を叩きつける!
居合斬りのように、ジェマイマの生首が両断されるかと見えた――――
だが、彼女は背中を仰け反らせ、美しいブリッジを描いて避けた。
「なにっ!……さすがは名を馳せたダンサーだな、驚異的な反射神経と体の柔らかさだ……」
「うふん、ありがとう」
余裕なのか、一礼して応じる。
「ルーファスは俺の犯罪が見つかりそうになったとき、犯人に仕立てるために貸家に住ませた……だが、本当に人殺しをして騒ぎになるとは……計算外だったよ……」
「なんで、あたしを助けたの?」
「姿を見せなかった間、心配していたよ……本当だ……それが、東ヨーロッパの金持ちと楽しく旅行して、妻になるかもしれなかった……と、聞いて年甲斐もなく嫉妬してしまったよ……ルーファスにやるのは勿体ない、俺が欲しくなった……」
「あらあら……あたしってモテモテなのよね……あいにく、ロクでもない男達に……」
椿亭主人は猛牛のごとき突進をして、ジェマイマを壁に追い込み、首筋に包丁を叩きこんだ。
さすがのジェマイマも鶏のように首を刎ねられたか……
いや、見よっ!彼女の首は健在で、妖しい笑みを浮かべている。なんと、ダンサーの細腕で、大柄な屠殺人の太い腕を抑え込んで離さない。マスターが脂汗をたらして動かそうとするが、びくともしない!
「うぐぐぐぐ……なんだ……なんなんだ!この……化け物じみた力は……」
「化け物とは失礼ね……あたし、劇場の上客に誘われて旅行に行ったでしょ?その上客が実は吸血鬼でね……昼間に外を出歩けなくなるけど、永遠の美貌を手にいれられる魅力には抗えなかった……合意の上で吸血鬼一族の仲間にしてもらったの……」
「きゅ……吸血鬼だとぉぉぉぉぉ……そんな架空の妖怪が実在するとは……信じられない……信じられないが、うぐぐぐぐぐぐぐぐ………」
大男が両手で包丁をダンサーに叩き込むが、彼女は片手で殺人魔の太い腕を抑え込んでいる。吸血鬼の怪力を思い知らされた。やがて、マスターの体が浮いていき、マスターの視界が上下逆さまになった……なんと、大柄な男が壁にほうり投げられたのだ……地響き立てて床に這いつくばる男。何が起こったかと動揺したマスターの首筋に、氷柱のように冷たいものが当てられた。青白い美貌が犬歯を鋭く伸ばしてマスターの猪首にピタリと当てていたのだ。
「まさか……まさか……やめてくれ……俺はこれでも清教徒なんだ……化け物になると、土に帰れなくなる……」
「あなたを仲間になんて願い下げよ……ただ血の一滴まで搾り取るだけよ……」
やめてくれと、無様に喚く男に呆れた女吸血鬼。
「あなたも悪党なら、悪党らしく、最後にみっともなく騒がないの!」
大柄な殺人魔は絶叫しようとしたが、首が180度に捩じられて、事切れた……
朝霧のテムズ川に大きな水音が二回した。
「あ~~あ……、東ヨーロッパのお金持ちは吸血鬼だったし、モデルに熱望された画家はあたしを絵の具にしようとするし、馴染みのマスターはソーセージにしようとするなんて、あたしって、つくづく男運がないわね……これからはロンドンのイケメンを細々と頂いて楽しく暮らすわ……」
美しき踊り子は溜息をついたが、毅然と背を伸ばした。体が霧に包まれていく……テムズ川に発生した霧にまぎれていった。
――もうすぐ、夜明けだ……
了