君のいない夏が終わる
縄を、買った。赤い色の、人一人の体重を支えても千切れないような、太い縄を。吊るす場所もすでに決めていた。自殺の名所なんかでは、見つけられてしまうかもしれないから。取り壊しが決まった、この狭いアパートの中で。
ちゃんと吊り方も確認した。死んでからのことも、連絡が行くようになっている。冷蔵庫の中身は処分したし、飼っていた金魚はもうとっくに死んでいた。それに。
(――遺書も、書いた)
あるいは、ラブレターか何かなのかもしれない。遺書というには、あまりにも不釣り合いな文章を改めて眺める。長々と書かれた文章は、端から端まで、既に死んだ人間に向けられたものばかりだ。
ラブレター。今更、ラブレターかよ。
好きとか愛してるとか、どんな意味があるってんだ。
「馬鹿みてぇ」
それでも、書かないといけない気がした。遺書なんて遺さず、それどころか何の言葉も遺さずにいなくなった女のことを思い出す。
誰からも好かれて、勉強も運動もできて、絵を描くことが好きだった女。優しくて、無邪気で、いつだって不思議な軽やかさで歩いていた女。殺しても死にそうにないくらい、しなやかで強かった彼女。
一昨年の夏。
彼女が、学校の屋上から飛び降りたのは、ちょうど夏休みが始まる頃だった。蝉がうるさいくらい鳴いていて、こういうのを蝉時雨って言うんだよと、ちょっと得意気に言って笑いあった朝の後。じゃあ、また放課後ね、と。彼女は手を振った。
それきりだった。
次に見た時、彼女は彼女の面影を少し残しただけの肉片になってしまっていた。それを見た瞬間、気絶した俺には知り得なかったことだが。血肉が辺りに飛び散っていて、間違いなく即死だったらしい。
どうして死んだのか。いじめか。虐待か。それとも何か犯罪に巻き込まれたのか、と。彼女の周りは議論を交わし続けた。
そのどれでもないことを、俺だけは知っていた。
どうせ、下らない理由だったんだろう。暑い日だから、とか。宿題が多かったから、とか。綺麗な花を見かけたから、とか。多分、あの女にとってみれば、理由なんて何でもよくて。何なら、必要さえなかったに違いない。
手を引かれて走った、子供の頃を思い出す。どこまででも行けるような、子供らしい全能感の中。二人きりで、本当に、どこまでだって行きたかった。テレビの中で見たような綺麗な景色の中だって、世界の果てにだって。二人ならば行ける気がしていた。いつだって、彼女と俺の二人ならば、何でもできたはずなのだ。
いつから、どこにも行けないことを知ってしまったのだろう。
(大人になんて、なりたくないなぁ)
彼女はそう言っていた。子供の頃よりも伸びた髪を綺麗に結んで、制服のスカートを翻して、コンタクトレンズの向こう側の瞳に軽い諦念を浮かばせて。
そんな、本心を。救いようのない本心を、俺に向けて吐いたのだ。
(だって、忘れちゃうんだよ。きっと、今日二人で歩いたことも。駄菓子屋のくじを引いて一喜一憂したことも。子供の頃に持ってた夢のことも)
彼女は多分、大人になりたくないから死んだのだ。忘れたくないから死んだのだ。楽しくて幸せでただひたすらに愛おしい今を、今のままで閉じ込めるために。
だから、理由なんてどこにもなかった。きっかけがあればよかったのだ。それが例えどれだけ小さなものでも、彼女がきっかけだと認識すれば、それだけでよかった。
ふざけるな。
そう叫んでやりたかった。それでも、どれだけ叫んでも声は届かない。死者に生者の嘆きは聞こえない。
「お前が死んでから、どんだけ俺が散々だったと思ってるんだよ……」
彼女が死んだのは、高校二年の夏だった。あまりの精神的ショックに、俺は不登校になり。三年になってからもう一度通い直したものの、夏になるとまた引き籠るようになり。おかげで彼女が死ぬ前の模試ではA判定を貰っていた大学には受験さえ叶わなかった。
彼女のせいで本当に、お先真っ暗だ。
まあ、もういいのだけれど。
机の上に置いていた、キーホルダーを手に取る。四つ葉のクローバーを模ったそれは、彼女が一際気に入っていたものだ。
彼女の妹が、つい先月にくれたもの。
(お姉ちゃんならきっと、燃やすよりもこうしてくれって言うはずだから)
彼女の家族は、どこか遠い町に引っ越すらしい。妹の高校進学を期に、俺に地図で示されても場所の分からない町に行くのだ。この町には思い出が多すぎるから、と、彼女の妹は悲しげに言っていた。
その気持ちが嫌というほど分かるから、俺は震える手でキーホルダーを受け取った。そう、思い出が、多すぎるのだ。
家の前にある公園は、子供の頃からよく遊んでいた場所。少し先にある駄菓子屋は、高校入ってからもよく寄った場所。偶然見つけた感じのいい喫茶店も。彼女が運び込まれたあの病院も。
目について、仕方がない。
遠くに行きたかった。
彼女の記憶がない、どこかに行きたかった。
(大人になったら、忘れちゃう)
なら、忘れさせてくれよ。まだ何も消えちゃくれないんだ。お前の笑顔も、仕草も、声も、匂いも。何一つとして薄れてくれない。それとも、大人になれば本当に忘れられるのか。忘れて、何事も無かったかのような大人になれるっていうのか?
それは嫌だ。
忘れてしまいたい。けれど、忘れたくない。
だから。
「……なんて、思い返して書いてみるとなぁ。本当にラブレターだろこれ」
独りごちて、適当な封筒の中に紙を入れる。遺書を書いたのと同じボールペンで、大きく『遺書』と書き記し、机の上へ。
「まあいいや。最後の方に、一緒に燃やしてくれって書いといたから」
燃えて、灰になったら。それは手紙の死と同じことだから。そうしたら、きっと。ここに綴った拙い、どうしようもない思いだって、届くはずだ。
そうならいい。
「だから、きっと」
縄を手に持つ。日に焼けていない不健康な手は、ひどく震えていた。




