少年と黄昏
君が語る未来は眩しくて、綺麗で、泣きたくなるほど優しかった。僕は今も思い出す。あの日、振り返ることなく前を見ていた君のことを。君が僕にくれた沢山の思い出を。
そうして、今更になって気がついたのだ。君が願ってくれたほどに、僕に価値がなかったことに。
――遺書を。
ほんの数行で終わる程度の、遺書を書いた。
伝えたいことも思い浮かばないし、そも、今更伝えたとしてもなんの意味もないことばかりだ。だから、本当に数行の、がらんどうの言葉だけしか綴ることができなった。
少し癖の強い右肩上がりの文字は、ひどく素っ気ない表情でこちらをじいを見つめている。まるで私を責めているかのようだとさえ感じ、苦笑した。
安物の万年筆を埃だらけの机に置き、無地の封筒の中に遺書を押し込む。
覚悟。と言ってしまえば耳触りが良すぎるかもしれない。私のこれはそんな美しいものでもなければ、強い意思を持っているものでもない。
ただの、逃避だ。
特に疲れるようなことをしたわけでもないのにひどい徒労感を覚え、窓から空を見上げる。私の瞳には、鮮烈な赤が飛び込んできた。
空を呑み込むような夕陽だった。
徐ろに机の上に遺書を置き、夢遊病のような足取りで外に歩き出る。視界いっぱいに広がる景色はあかあかと、ただ煌々と。ああ、世界が夕陽に呑まれていた。なにか得体のしれない大きなものの口の中のように、ゆっくりと咀嚼されているかのように。赤が、私を呑み込んでいく。
伸ばしっぱなしの傷んだ髪も、濃い隈の出来た青い顔も、着古して穴の空いた服も、今だけは気にはならなかった。
ああ、このまま。このまま、世界に溶けてしまいたい。
あかあかとした口腔に咀嚼され、呑み込まれ。そして、この広大な世界の一部として私という個など消えてなくなってしまえばいい。
『この手紙を誰かが読んでいる頃、私はもうこの世にはいないことでしょう』
遺書を、書いた。ほんの数行だけの遺書を書いた。誰に向けた訳でもないあの言葉は、誰かが見つけてくれるのだろうか。
もう、未練などどこにもなかった。
なにもない。なにもない。今更、語るべき言葉さえも在りはしない。
なかったから、私はこんなことになったんだ。
「――ねえ、きみ」
くい、と。想定外に袖を引かれ、私の思考は唐突に打ち切られる。華奢な白い手が、私の服の袖を小さく摘んでいた。
「……なにか?」
振り返ると、その先には少年がいた。少年。そうとしか形容のしようがない。背は低く感じるが、小学生……よりは顔立ちが大人びているだろうか。では、中学生か。
少年の時期特有の、触れれば砕けてしまうような危うい雰囲気の彼は、笑っているような呆れているような妙な顔で私を見上げている。息を呑んだ。その顔。色はないのに、ぞっとするような雰囲気を湛えたその、顔。
私は、この少年を初めて見た。そのはずだ。だというのになぜだろうか。よく見知った雰囲気であるとも、断言できるのだ。
「そっちに行ってはいけないよ」
「そっち?」
少年の忠告じみた言葉を聞き、私は視線を自分が進行していた方向に向けた。黄昏の照らす、あかあかとした道だ。滴り落ちる血のような、今にも呑み込まんとする喉のような、赤黒さ。それだけの、ただの道だ。
だというのに、少年は困った様子で私を引き留める。言うことを聞かない子供に手を焼く親のような顔だ。
「だめだよ。だめ。そっちはだめ。行くのならあっちに行くんだ。僕もほら、ついていってあげるから」
彼が私を導こうとする先には、私の家がある。薄明かりの灯る、二階建ての赤い屋根。相当歩いたはずなのに、どうしてこんなに近いんだろう。疑問が首をもたげたが、すぐに霧散する。もう、どうでもいいことだ。
「……もう、帰れない」
「そんなこと、だれが決めたの?」
「わたしが」
覚悟を決めたんだ。本当は、そんないいものじゃないだろうけど。もう、帰れない。帰らない。戻らない。
明日なんていらないんだ。
明日がある今日には帰れない。帰りたくない。
「僕は、いやだ」
私はそう決めたのに。どうして、この少年は、私を離してくれないのだろう。少年の、深海から空を見上げたような深い色の瞳を見下ろす。
「きみがさみしいのは、いやだ」
私にそう言ってくれた人は、もうどこにもいないのに。かくして少年は泣きそうに微笑んだ。ともすれば、母親のような慈愛を持って。
「きみが一人になってしまう未来は、いやだったよ」
遺書を。
遺書を、書いたのだ。
もう未練なんてないのだと、もう、明日なんていらないのだと。私はそう決めたんだ。もう悔いはない。後悔なんて一つも。いいや、あるいは一つだけ。強いて言うのならば、きっと。
もう、昔に戻れないことだけが、後悔だ。
「もう独りだよ」
私が吐息のような微かな声で拒絶すると、少年の、赤を透かした黄金の髪が風に揺れた。夕陽が世界の光を飲み干して、吐き出した闇に覆われる。その境目の刹那で、少年は、そっと私の頬に触れた。
「でもね」
否定というよりも、我儘を言う子供を宥めるような声だった。
頬に触れる手に体温は、ない。春の風に撫ぜられたような感覚だけを残し、その手のひらはぼとりと落ちる。
半開きになった口に、視線を向けた。赤。夕陽と同じ、今にも私を呑み込まんとするような色。ゆっくりと、躊躇うように。あるいは、噛み締めるように。少年の唇が音を紡いだ。
「世界なんかに取られるくらいなら、僕がきみを食べてしまいたかった」
まるで、愛の告白だ。そんな戯言が浮かんでくるほど、少年の声は痛切さを孕んでいた。
私は、口を開く。なにか言葉を返さなければいけないような気がして。なにか、返すべき言葉を知っていたような気がして。でも、頭の中をどれだけ探しても、少年のための言葉が思い浮かばなかった。
夕陽が、落ちる。
黄昏が終わる。
闇に覆われた瞬間。少年は、ほんの一欠片、声の残滓だけを残して跡形もなく消えてしまった。
「……ああ、思い出した。あんな顔を、していたんだったっけ」
遠い遠い記憶の片隅で、笑う少年がいた。痩せっぽちで、肌が真白で、病弱で。……秀麗なその少年の名前を、私は今でも覚えている。永遠の少年の、名前を。
忘れられないままだった。忘れてしまいたいと願った数は、両手両足でも足りやしない。それでも、彼は彼のまま。優しいまま。綺麗なまま。黄昏に呑み込まれたまんまの姿で。
死者は、動かない。変わってしまったのは、私の方だ。
(夕焼け雲。滲む空。誰もいない公園。――包丁。赤。夕陽の、血の、赤)
『過去だけは、永遠に変えることができないから』
視線をまた前に向け、足を進めた。
一歩。前に出る。地面も足場もないそこに向け、軽く勢いをつけて。
浮遊感と共に、ぐるりと世界がさかしまになる。
そして。
「本当は、私も、少女のままでいたかった」
私は、赤い色に呑み込まれた。




