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わからない二人  作者: 大窟凱人


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5/5

出ていく二人

 茉由が身をよじる。

 その輪郭が、指の間で白く揺らいだ。

 俺の手が膨らみ、指が長く伸びていた。爪は黒く変色し、関節が不自然な方向へ折れ曲がっている。

 不思議と恐ろしくはなかった。

 むしろ、身体に力が満ちてくるのを感じた。

 俺はずっと我慢していたのだ。

 嫌われないように。

 見捨てられないように。

 だが、もうそんな必要はない。

 俺たちは死んでいる。

 仕事も、世間体も、警察も関係ない。

 茉由を引き寄せると、彼女の身体から白い靄がほどけた。


 それが俺の口元へ流れてくる。

 驚くほど甘い匂いがした。

 口の中に、これまで知らなかった渇きが生まれた。


 もっと欲しかった。


 彼女の声も、記憶も、俺を恐れる気持ちさえも。

 何もかも俺の中に入れてしまえば、もう二度と出ていかない。


「やめて!」


 茉由が叫んだ。

 俺は笑った。

 顎が大きく開いた。


 口の端が頬を越えて裂け、歯の奥からさらに細かな歯が生えてくる。舌は口の中に収まりきらず、喉の奥でゆっくり蠢いていた。


 それでも、まだ足りない気がした。

 茉由を食えば満たされる。


 そう確信していた。

 俺は彼女の肩に噛みつこうとした。

 そのとき、背後で小さな音がした。


 ――こつ。


 硬いものを爪で叩いたような音だった。

 俺は茉由を抱えたまま、振り返った。


 居間の壁だった。


 アルバムの最後の写真で、額縁が掛かっていた場所。

 白い補修材で埋められた小さな穴が、黒くなっていた。

 その両脇にあった二つの穴も、同じように暗くなっている。


 穴が、動いた。


 俺は茉由から手を離した。

 三つの黒い点が、同じ方向を向いた。


 ――俺を見ている。


 壁に亀裂が入った。

 音もなく、壁紙が縦に裂けていく。

 裂け目の奥は真っ暗だった。

 その闇から、何かがこちらを覗いていた。


 三つの目だった。


 一つは額の中央にあり、その下に二つ並んでいた。どれも人間の頭ほど大きく、濁った眼球の奥で、黒い瞳だけがゆっくり動いている。

 裂け目が広がった。

 青黒い顔が現れた。

 皮膚には深い皺が刻まれ、口は頬の端まで裂けている。歯は不揃いな岩のように突き出し、その間から、湿った闇が覗いていた。


 頭が天井につかえている。

 肩は壁の向こうにあり、身体がどれほど大きいのか分からない。


 三つ目の大鬼が、俺を見下ろしていた。

 茉由の方には、見向きもしなかった。

 俺は後ずさった。

 さっきまで満ちていた力が、急に頼りなく感じられた。


 あれは何だ。

 なぜ、ここにいる。


 巨大な顔が、さらに近づいてきた。

 額が天井につかえ、壁紙が押し潰される。

 俺は後ずさった。

 部屋中が震え、食卓の上の皿が床に落ちた。

 乾いた音がして、足元に破片が散らばった。


 三つの目が、こちらへ動いた。

 俺は咄嗟に目を逸らした。


 見てはいけない。

 理由も分からないのに、そう思った。

 視線を床へ落とすと、黒く伸びた自分の指が見えた。


 先ほどまで、あれほど頼もしかった手だった。

 俺は拳を握った。

 爪が掌に食い込む。

 痛みはなかった。

 それなのに指先が震えていた。


 鬼の口が開いた。

 生暖かい息が俺の顔に触れた。

 その瞬間、俺の口から、勝手に声が漏れた。


「ひっ……」


 自分の声とは思えなかった。

 俺は慌てて口を押さえた。

 さっきまで茉由を飲み込もうとしていた口が、今は歯を打ち鳴らしている。

 鬼の肩は、まだ壁の向こうにあった。

 顔だけで居間の半分を塞いでいる。

 あれが本気でこちらへ来たら、この部屋ごと潰される。


 俺は玄関を見た。

 駆け出せば、すぐに届く距離――

 そう思ったのに、足が動かなかった。

 膝が勝手に折れた。

 床に手をつく。


 何だ、これは。

 俺は死んでいるんだぞ。

 もう何も怖くないはずだろう。


 鬼の三つの目が、俺を見下ろしていた。

 俺は茉由を振り返った。

 彼女は寝室の戸口に立っている。


「茉由」


 声が震えた。


「助けてくれ! 俺がどうなってもいいのか!?」


 彼女は動かなかった。

 いつものように命令したつもりだった。

 だが、声がひどく小さかった。


 鬼の口から、低い音が漏れた。

 笑ったのかもしれない。

 俺は慌てて立ち上がり、玄関へ駆け出した。


 扉に手を伸ばした瞬間、身体が後ろへ引かれた。

 足が床を離れる。

 壁から伸びた黒い腕が俺の胴をつかんでいた。


「やめろ!」


 俺は叫んだ。

 指を振りほどこうとしたが、びくともしない。


「うう……がああああ!!」


 爪を立てた。

 あれほど長く伸びた爪が、青黒い皮膚の表面で折れた。

 口を開き、巨大な鬼の指に噛みついた。

 歯が砕ける感触がした。

 指には傷一つつかなかった。

 俺は初めて、自分の身体を見た。

 茉由を捕らえたときは巨大に思えた手も、この鬼の指一本より細かった。

 俺は泣いていた。

 涙なのか、それとも顔から何かが溶け出しているのか分からなかった。


「待ってください」


 自分でも驚くほど丁寧な声が出た。


「お願いします。何でもしますから」


 三つの目が俺を見た。

 俺は必死に頭を下げた。


「すみません。すみませんでした」


 そのとき、茉由が目に入った。

 彼女は何も言わず、こちらを見ていた。

 俺は手を伸ばした。


「茉由――!」


 茉由は首を横に振った。

 その瞬間、恐怖の底から怒りが湧き上がった。


 まただ。

 俺がこんなに謝っているのに。

 俺がこんなに苦しんでいるのに。

 どうして、あいつは許してくれないのだ。

 俺は茉由に向かって叫んだ。


「お前のせいだ! お前が――!」


 だが、言い終わる前に、巨大な指が俺の口を塞いだ。

 声が止まった。

 鬼は俺を、壁の向こうへ引きずり込み始めた。

 玄関の扉が、遠ざかっていった。


 巨大な手が闇の奥へ消えると、壁の裂け目もゆっくり閉じた。

 初めから何もなかったかのように、四角く日焼けした壁紙だけが残された。


     *


 水守茉由は、しばらく寝室の戸口に立っていた。

 瀬川が連れ去られても、すぐには動けなかった。

 あの巨大な顔は何だったのだろう。どこへ連れていかれたのだろう。

 考えようとすると、今度は瀬川の声が蘇った。


『俺は、あんなに謝ったじゃないか』


 その言葉を、茉由は覚えていた。

 生きていた頃も、何度も聞いた。

 謝られるたびに、今度こそ変わってくれると思った。謝罪を受け入れなければ、もっと怒らせてしまうとも思った。

 自分が何かを間違えたのだと考え、彼が機嫌を直すまで謝り続けた夜もあった。


 アルバムを開いた。

 桜の写真。

 海へ行った写真。

 誕生日の写真。

 一緒に過ごした日々の記憶は、もう戻っていた。

 楽しかったこともあった。

 嬉しかったこともあった。

 だからこそ、なかなか別れられなかった。


 最後の写真を手に取る。

 瀬川が茉由の肩に腕を回している。

 写真を撮る直前、彼は腹を立てていた。


 茉由が新しい部屋を探していることを知り、問い詰めてきたのだ。

 何度も謝り、もう一度だけ信じてほしいと言った。

 茉由は、写真だけでも仲良く写ろうとした。


 シャッターが切られるとき、瀬川は強く肩を抱き寄せた。

 その力が痛かったことまで、茉由は思い出した。

 写真の中では、二人とも笑っていた。


 茉由はその顔をしばらく見つめ、それからアルバムを閉じた。


 茉由は玄関へ向かった。

 新しいドアノブには、以前のような傷がなかった。指を掛けて回すと、扉は抵抗なく開いた。

 生きていた最後の夜も、鍵は開いていた。

 茉由は玄関の敷居を越え、部屋の外へ出た。


 共用廊下の突き当たりに、階段があった。三年間、何度も通った場所だった。

 茉由は玄関を振り返った。開いた扉の奥には、二人で暮らした部屋がある。洗面所の歯ブラシも、食卓のアルバムも、そこに残っていた。

 茉由は扉を閉めなかった。

 階段へ歩き出すと、足元が少しずつ薄くなり、廊下の床が透けて見えるようになった。

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