出ていく二人
茉由が身をよじる。
その輪郭が、指の間で白く揺らいだ。
俺の手が膨らみ、指が長く伸びていた。爪は黒く変色し、関節が不自然な方向へ折れ曲がっている。
不思議と恐ろしくはなかった。
むしろ、身体に力が満ちてくるのを感じた。
俺はずっと我慢していたのだ。
嫌われないように。
見捨てられないように。
だが、もうそんな必要はない。
俺たちは死んでいる。
仕事も、世間体も、警察も関係ない。
茉由を引き寄せると、彼女の身体から白い靄がほどけた。
それが俺の口元へ流れてくる。
驚くほど甘い匂いがした。
口の中に、これまで知らなかった渇きが生まれた。
もっと欲しかった。
彼女の声も、記憶も、俺を恐れる気持ちさえも。
何もかも俺の中に入れてしまえば、もう二度と出ていかない。
「やめて!」
茉由が叫んだ。
俺は笑った。
顎が大きく開いた。
口の端が頬を越えて裂け、歯の奥からさらに細かな歯が生えてくる。舌は口の中に収まりきらず、喉の奥でゆっくり蠢いていた。
それでも、まだ足りない気がした。
茉由を食えば満たされる。
そう確信していた。
俺は彼女の肩に噛みつこうとした。
そのとき、背後で小さな音がした。
――こつ。
硬いものを爪で叩いたような音だった。
俺は茉由を抱えたまま、振り返った。
居間の壁だった。
アルバムの最後の写真で、額縁が掛かっていた場所。
白い補修材で埋められた小さな穴が、黒くなっていた。
その両脇にあった二つの穴も、同じように暗くなっている。
穴が、動いた。
俺は茉由から手を離した。
三つの黒い点が、同じ方向を向いた。
――俺を見ている。
壁に亀裂が入った。
音もなく、壁紙が縦に裂けていく。
裂け目の奥は真っ暗だった。
その闇から、何かがこちらを覗いていた。
三つの目だった。
一つは額の中央にあり、その下に二つ並んでいた。どれも人間の頭ほど大きく、濁った眼球の奥で、黒い瞳だけがゆっくり動いている。
裂け目が広がった。
青黒い顔が現れた。
皮膚には深い皺が刻まれ、口は頬の端まで裂けている。歯は不揃いな岩のように突き出し、その間から、湿った闇が覗いていた。
頭が天井につかえている。
肩は壁の向こうにあり、身体がどれほど大きいのか分からない。
三つ目の大鬼が、俺を見下ろしていた。
茉由の方には、見向きもしなかった。
俺は後ずさった。
さっきまで満ちていた力が、急に頼りなく感じられた。
あれは何だ。
なぜ、ここにいる。
巨大な顔が、さらに近づいてきた。
額が天井につかえ、壁紙が押し潰される。
俺は後ずさった。
部屋中が震え、食卓の上の皿が床に落ちた。
乾いた音がして、足元に破片が散らばった。
三つの目が、こちらへ動いた。
俺は咄嗟に目を逸らした。
見てはいけない。
理由も分からないのに、そう思った。
視線を床へ落とすと、黒く伸びた自分の指が見えた。
先ほどまで、あれほど頼もしかった手だった。
俺は拳を握った。
爪が掌に食い込む。
痛みはなかった。
それなのに指先が震えていた。
鬼の口が開いた。
生暖かい息が俺の顔に触れた。
その瞬間、俺の口から、勝手に声が漏れた。
「ひっ……」
自分の声とは思えなかった。
俺は慌てて口を押さえた。
さっきまで茉由を飲み込もうとしていた口が、今は歯を打ち鳴らしている。
鬼の肩は、まだ壁の向こうにあった。
顔だけで居間の半分を塞いでいる。
あれが本気でこちらへ来たら、この部屋ごと潰される。
俺は玄関を見た。
駆け出せば、すぐに届く距離――
そう思ったのに、足が動かなかった。
膝が勝手に折れた。
床に手をつく。
何だ、これは。
俺は死んでいるんだぞ。
もう何も怖くないはずだろう。
鬼の三つの目が、俺を見下ろしていた。
俺は茉由を振り返った。
彼女は寝室の戸口に立っている。
「茉由」
声が震えた。
「助けてくれ! 俺がどうなってもいいのか!?」
彼女は動かなかった。
いつものように命令したつもりだった。
だが、声がひどく小さかった。
鬼の口から、低い音が漏れた。
笑ったのかもしれない。
俺は慌てて立ち上がり、玄関へ駆け出した。
扉に手を伸ばした瞬間、身体が後ろへ引かれた。
足が床を離れる。
壁から伸びた黒い腕が俺の胴をつかんでいた。
「やめろ!」
俺は叫んだ。
指を振りほどこうとしたが、びくともしない。
「うう……がああああ!!」
爪を立てた。
あれほど長く伸びた爪が、青黒い皮膚の表面で折れた。
口を開き、巨大な鬼の指に噛みついた。
歯が砕ける感触がした。
指には傷一つつかなかった。
俺は初めて、自分の身体を見た。
茉由を捕らえたときは巨大に思えた手も、この鬼の指一本より細かった。
俺は泣いていた。
涙なのか、それとも顔から何かが溶け出しているのか分からなかった。
「待ってください」
自分でも驚くほど丁寧な声が出た。
「お願いします。何でもしますから」
三つの目が俺を見た。
俺は必死に頭を下げた。
「すみません。すみませんでした」
そのとき、茉由が目に入った。
彼女は何も言わず、こちらを見ていた。
俺は手を伸ばした。
「茉由――!」
茉由は首を横に振った。
その瞬間、恐怖の底から怒りが湧き上がった。
まただ。
俺がこんなに謝っているのに。
俺がこんなに苦しんでいるのに。
どうして、あいつは許してくれないのだ。
俺は茉由に向かって叫んだ。
「お前のせいだ! お前が――!」
だが、言い終わる前に、巨大な指が俺の口を塞いだ。
声が止まった。
鬼は俺を、壁の向こうへ引きずり込み始めた。
玄関の扉が、遠ざかっていった。
巨大な手が闇の奥へ消えると、壁の裂け目もゆっくり閉じた。
初めから何もなかったかのように、四角く日焼けした壁紙だけが残された。
*
水守茉由は、しばらく寝室の戸口に立っていた。
瀬川が連れ去られても、すぐには動けなかった。
あの巨大な顔は何だったのだろう。どこへ連れていかれたのだろう。
考えようとすると、今度は瀬川の声が蘇った。
『俺は、あんなに謝ったじゃないか』
その言葉を、茉由は覚えていた。
生きていた頃も、何度も聞いた。
謝られるたびに、今度こそ変わってくれると思った。謝罪を受け入れなければ、もっと怒らせてしまうとも思った。
自分が何かを間違えたのだと考え、彼が機嫌を直すまで謝り続けた夜もあった。
アルバムを開いた。
桜の写真。
海へ行った写真。
誕生日の写真。
一緒に過ごした日々の記憶は、もう戻っていた。
楽しかったこともあった。
嬉しかったこともあった。
だからこそ、なかなか別れられなかった。
最後の写真を手に取る。
瀬川が茉由の肩に腕を回している。
写真を撮る直前、彼は腹を立てていた。
茉由が新しい部屋を探していることを知り、問い詰めてきたのだ。
何度も謝り、もう一度だけ信じてほしいと言った。
茉由は、写真だけでも仲良く写ろうとした。
シャッターが切られるとき、瀬川は強く肩を抱き寄せた。
その力が痛かったことまで、茉由は思い出した。
写真の中では、二人とも笑っていた。
茉由はその顔をしばらく見つめ、それからアルバムを閉じた。
茉由は玄関へ向かった。
新しいドアノブには、以前のような傷がなかった。指を掛けて回すと、扉は抵抗なく開いた。
生きていた最後の夜も、鍵は開いていた。
茉由は玄関の敷居を越え、部屋の外へ出た。
共用廊下の突き当たりに、階段があった。三年間、何度も通った場所だった。
茉由は玄関を振り返った。開いた扉の奥には、二人で暮らした部屋がある。洗面所の歯ブラシも、食卓のアルバムも、そこに残っていた。
茉由は扉を閉めなかった。
階段へ歩き出すと、足元が少しずつ薄くなり、廊下の床が透けて見えるようになった。




