第8話:皇妃としての日々――“政略夫婦”だったはずが、甘々すぎて耐えられません
「……ちょ、ちょっと待ってください、殿下。まだ、お化粧も途中で……!」
朝の陽光が差し込む寝室で、私は慌てふためいていた。
シオン――いえ、旦那様は、いつもの無表情を保ったまま、私の腰に腕を回し、すっと抱き寄せてくる。
「朝の挨拶くらい、夫婦として当然だろう」
「こ、ここは侍女たちも出入りする部屋ですっ……!」
「なら、今のうちにしておけば問題ない」
――論理は正しい、でもおかしい。
彼の言葉の一つひとつが冷静すぎて、むしろ逃げ道がない。
政略結婚のはずだった。
形だけの夫婦で、外聞さえ保てばいいと思っていた。
なのに。
毎朝こうして、寝起きの私を抱き寄せては額にキス。
お茶を飲めば「熱くないか」、庭を歩けば「風は強くないか」、
夜になれば「眠れなければ腕を貸す」と、堂々と同衾を試みてくる。
(……冷酷皇太子、どこいったの?)
「今日は午前から政務ですよね? 先に食堂に行っていただけませんか?」
「嫌だ」
即答。
私は頭を抱えながら、鏡越しに彼を見る。……機嫌は、いい。というか、明らかに甘やかす気満々の表情をしている。
(これはきっと、“婚姻後の一ヶ月は新婚優遇期間”とか、そういう……!)
でも違った。彼は、そういう制度のない日も、ずっと優しかったのだ。
午前の政務を終えた私は、妃の務めとして大使との会談に臨んだ。
相手は隣国レグリアの特使。彼らは私を見るなり、目を丸くして言った。
「まことに、第一皇太子殿下は、よき妃を得られたのですね。噂とは大違いですな」
「え……?」
「妃殿下は、“冷たい姉に虐げられていた妹を奪って皇妃となった”と我が国にも伝わっておりましたが……ふむ、全く逆だったとは」
「…………」
セリーヌが流していた、作り話。
それが海を越えて伝わっていたことに、私は言葉を失った。
けれど、同時に気づいた。
それでもこうして、私は“皇妃”として、きちんと目の前に座っている。
(どんな噂があっても……私がここにいる限り、真実は自ずと変わっていく)
この立場にふさわしい自分であろうと、改めてそう決意した。
その夜。
政務を終えたシオンが、少し疲れた表情で書斎から戻ってきた。
「おかえりなさいませ。お疲れでしょう? 少し、肩をお揉みしますね」
「……アリシア、座れ」
「へ?」
「今日は俺がする番だ」
そう言って、彼は私の手を取り、ソファへと導いた。
気づけば、私の肩に彼の手が添えられ、力加減を調整しながら丁寧に揉んでくれている。
「……これでは、私が殿下に甘やかされてばかりではありませんか」
「問題あるか?」
「いえ……嬉しいですけど」
「もっと甘やかしたいと思っている」
「……!」
言葉に詰まる私を、彼はそっと見つめる。
「お前が笑ってくれるだけで、俺は幸せなんだ」
心が、じんわりと溶けていく。
政略結婚だったはずの私たちは、もうとっくに“ただの夫婦”じゃない。
誰よりも深く、強く、確かに繋がった――夫婦になったのだ。
気づけば、私も自然に微笑んでいた。
「では、明日も……甘やかしてくださいね、旦那様」
「当然だ。……永久に、な」
こうして始まった、皇妃としての日々は、
政略の香りなどどこにも残っていない。
ただ、優しくて、
くすぐったくて、
――甘すぎる日々だった。