第5話:暴かれる過去――“出会っていたのは、ずっと前から”
舞踏会の夜が明け、私は王宮の書斎でひとり、ティーカップを手にしていた。
心なしか、昨夜の熱がまだ胸の奥に残っている。
(……“誇りに思う”って、あの人……本気で言ってたのよね?)
冷酷と恐れられていた第一皇太子・シオン殿下は、誰よりも優しく、温かかった。
私にだけ――そう、まるで昔から知っているように。
(けれど……どうして? あの人とは、これまで一度も会ったことがないはずなのに)
思い返せば、初対面の日から、彼の態度はあまりに自然すぎた。
まるで私のことをすべて知っているかのように。
(……いや、待って。初対面の日、“変わっていない”って言ってた……?)
まさか、とは思うけれど――その可能性が胸をよぎった時だった。
「妃殿下。殿下が書庫でお待ちです。お呼びくださいとのことです」
ローナが静かに扉を開けて告げる。
「書庫……?」
「はい。“どうしても見せたいものがある”と仰っていました」
私は小さく頷き、書庫へと向かった。
王宮の北側にある書庫は、薄暗くひんやりとしていて、まるで時の流れを忘れた空間だった。
その中央、長い机の前に立っていたのは、当然のように――シオン殿下。
「来たか。少しだけ、昔話をしようと思ってな」
彼の前には、一冊の古びた手帳のようなものが置かれていた。
「……これは?」
「俺の母が遺した、妃教育の記録帳だ。幼少期の俺が、誰と出会い、何を感じたかが細かく書かれている」
私は静かにページをめくる。そこに、拙い筆致で綴られた一文を見つけた。
――《城下町で出会った、銀髪の少女。名は、アリシア。》
その瞬間、胸の奥に、凍てついたような記憶が蘇る。
幼い頃。公爵家の規律に縛られ、自由のなかった私が、たった一度だけ、使用人の目を盗んで街に出た日。
迷い込んだ王立庭園で、偶然出会った少年。
銀髪に、金の瞳。けれど彼は、名乗らず、こう言った。
『君の瞳、すごく綺麗だ。……名前、教えて』
『……アリシア。アリシア・グランフォード』
『……アリシア、か。覚えておく』
あのとき――
「まさか……あれが、あなた……?」
私の問いに、彼は微かに笑った。
「お前は覚えていないだろう。だが俺にとっては、人生で初めて“他人に救われた”瞬間だった」
「……救ったのは、私じゃありません。ただ、名前を名乗っただけで……」
「いや、それで十分だった」
彼は真っ直ぐな目で、言った。
「アリシア。俺が妃に望んだのは、お前だけだ。セリーヌでも、他の誰でもなく」
「でも、婚約は本来セリーヌと……」
「父の独断だった。俺は最初から、アリシア・グランフォードという名だけを条件に出していた」
私の膝が、ふわりと力を失う。
(最初から……すべて、決まっていた……?)
私が政略結婚の“駒”になったのではなく、
彼が“選び抜いた”のが、私だった――。
「なぜ、そんなことを……?」
問いかける声が震える。
彼はほんの少し、表情を和らげて言った。
「お前が覚えていなくても、俺はずっと、お前の名を胸に刻んできた。……だから、二度と手放すつもりはない」
静かな書庫に、心臓の音が響いていた。
何年も前に交わされた、たった一度の出会い。
それが彼の心に残り続け、今、私をここへ導いた。
私はまだ、どう返せばいいのか分からなかった。けれど――
(この人が本気で言っているなら、私はもう……)
少なくとも、“悪役令嬢”なんかじゃない。
彼にとって私は、“初恋の相手”だったのだから。