第1話「日給5万円の怪しいバイトに行ったら、面接でいきなり指を舐められた」
「いっ……!」
鋭い痛みが走った。
ナイフではない。歯だ。犬歯が、私の左手の人差し指の腹を突き破った感触。
「ん、ちゅ……っ」
濡れた舌が、傷口を這う。
痛みのあとに、奇妙な熱が広がった。ただ血を吸われているだけではない。体の中にある「何か」大事なものを、根こそぎ吸い出されているような、強烈な脱力感と……背徳的な快感。
「……甘い」
目の前には、シャーロック・ホームズの物語から抜け出してきたような、銀髪をきっちりとまとめた絶世の美女。
メイド長不在の代わりだという彼女は、一般的なフリルのついたメイド服ではなく、上質な黒いドレス風のコートを着こなした『レディースメイド(上級使用人)』だった。
その紫の瞳が、至近距離で妖しく赤色に変化しながら光り、私の指から滴る『血』を恍惚とした表情で吸い上げている。
冷徹だったはずの仮面が剥がれ落ち、そこには抑えきれない渇望が露わになっていた。
どうして、こんなことになっているのだろう。
大庭しぐれ、17歳。
事の始まりは、ほんの数時間前――鎌倉駅前で見つけた『日給5万円』という、怪しすぎるアルバイト募集の広告だった。
◆
「……残高、3桁。嘘でしょ」
休日の喧騒に包まれる鎌倉・小町通りの入り口で、私はひび割れたスマホの画面を睨みつけながら絶望していた。
現在、私は一人暮らしだ。
「自分の部屋が欲しい」という思春期特有の理由で、高校入学と同時に父方の祖父母が遺した古い実家に移り住んだのが半年前。かつては一族が住んでいたというその屋敷は無駄に広く、そして古い。
生活費を稼ぐためにアキバ系のメイドカフェでアルバイトをしていたのだけれど――その店が三日前、店長の夜逃げによって唐突に潰れたのだ。
「来週は修学旅行の積立金の引き落としなのに……」
このままでは、ご飯が食べられない。
焦燥感に駆られながら怪しげな高額バイトの掲示板をスクロールしていた私の目に、奇妙な求人広告が飛び込んできた。
【急募】鎌倉の洋館でメイドのお手伝い
・勤務地: 鎌倉市・朝比奈切通しの最奥
・業務内容: 館の清掃、女主人の話し相手、その他雑務(※メイド服支給)
・給与: 日給5万円(即日払い可。食事付き)
・条件: 16歳〜20歳までの健康な女性。口が堅いこと。
「……日給5万!? 桁、間違えてない?」
普通なら「裏がある」と警戒するべきだ。新手の詐欺か、あるいはもっと恐ろしい何かか。
でも、私のお腹の虫と、迫りくる請求書の山が、正常な判断力を完全に麻痺させていた。
「いや、鎌倉だし。世離れしたお金持ちの道楽かもしれない。掃除と話し相手で5万なら……やるしかない!」
私は震える指で、『応募する』ボタンをタップした。
◆
指定された場所は、観光客で賑わうエリアから遠く離れた、山の手にあった。
苔むした岩肌が迫る、昼間でも薄暗い『切り通し(山を削った細い道)』を抜けると、森が開けた場所にその館は鎮座していた。
明治か大正時代に建てられたと思われる、重厚な石造りの洋館。
蔦が血管のように絡まる外壁は黒くくすみ、すべての窓は分厚い遮光カーテンで閉ざされている。そこだけ、日本の鎌倉ではなく、霧深いロンドンの郊外か何かのようだった。
「うわぁ……本物のお化け屋敷じゃん……」
帰りたい。その本能的な警鐘を「日給5万円」という言葉でねじ伏せ、錆びついたインターホンを押す。
重厚な木の扉を押し開けると、そこは別世界だった。
大理石の床に、巨大なシャンデリア。古い書物のインクと、どこか甘い香の匂いが混じり合う玄関ホールで、私を出迎えたのが――先ほどの銀髪のレディースメイド、アナスタシアさんだった。
「主がお待ちです」
氷のように冷徹な声で案内され、通されたのはアンティーク家具が並ぶサロンだった。
昼間だというのに分厚いカーテンが引かれ、部屋は夜のように暗い。暖炉の中で揺らめく炎だけが、唯一の光源だった。
部屋の中央。猫足のついた豪奢な長椅子に、小さな人影が横たわっていた。
「……遅いじゃない、ナースチャ」
けだるげな声の主は、どう見ても私と同じ歳か、少し年下に見える少女だった。
闇の中で自ら発光しているかのような、黄金の巻き毛。そして、血のように赤い瞳。彼女は深紅のドレスの裾を乱雑に広げ、グラスに入った赤い液体を揺らしていた。
「申し訳ありません、ソフィア様。こちらが応募者の大庭しぐれ様です」
「ソフィア」と呼ばれた少女が、ゆっくりと体を起こし、品定めをするような目で私を見据える。圧倒的な「格」の違いに、私は立ち尽くした。
「顔は平凡だけど、悪くない雰囲気ね。それに……すごく、いい匂いだわ」
私が(昨日お風呂入ってないのバレた!?)と焦って自分の袖の匂いを嗅いでいると、ソフィア様は興味なさそうに手元の古い巻物を広げた。そこには見たこともない古風な文字が並んでいる。
「それにしても、この国の歴史書は間違いばかりね。……ねえ、しぐれ。『武衛の宝』って知ってる?」
「ぶ、ぶえいの宝? ……えっと、ルパンの新作ですか?」
「くくっ、あはははは! ルパン? そうね、ある意味、そうかもね」
ソフィア様が突然、可憐な少女の容姿からは想像もつかないほどドスが効いた声で笑い出した。
「気に入ったわ。無知なところが可愛らしい。採用してあげる」
「え、本当ですか!? ありがとうございます!」
あっさりとした採用決定に安堵したのも束の間。
アナスタシアさんが差し出してきたのは、見たこともない言語がびっしり書かれた羊皮紙の『契約書』と――銀色の小さなナイフだった。
「名前の隣に、ご自身の血をつけてください。それをしないと、ここでは働けません」
痛いのは嫌だ。でも、日給5万円には代えられない。
私が震える手でナイフを受け取り、ためらっていると……。
「……仕方ないですね」
ため息交じりの声と共に、ナイフが取り上げられ――冒頭の光景へと繋がるのだ。
「あ……ぅ……」
膝から力が抜ける。
数秒、あるいは数分にも感じられる濃密な時間の後、ようやくアナスタシアさんは名残惜しそうに唇を離した。
銀色の糸が、私の指先と彼女の唇の間でとろりと引いた。
「あらあら、ナースチャ。主人の前でお手付きするなんて、いい度胸ね」
「っ! ……い、いえ、そういう訳では……」
ソフィア様にからかわれ、我に返ったアナスタシアさんがパッと手を離す。
その頬は微かに朱に染まり、呼吸が乱れていた。
「……失礼いたしました。消毒も、兼ねておりますので」
苦しい言い訳だ。
私は促されるまま、まだ血が滲む指を契約書に押し付けた。白い紙に、鮮やかな赤が滲む。
「……これで契約完了です」
アナスタシアさんは契約書を回収すると、鉄のような無表情に戻って扉を開けた。
「では、屋敷を案内します。ついてきてください」
◆
サロンを出て、長い廊下を歩く二人。
沈黙に耐えきれず、私は恐る恐る話しかけた。
「あの……ソフィア様って、何をしている方なんですか? お昼なのにカーテン閉め切ってるし、あんなに古そうな巻物読んでるし……」
まさか、怪しい魔術の儀式とかじゃないですよね。
アナスタシアさんは歩みを止めず、淡々と答えた。
「お嬢様は……作家をしておられます。絵と物語を書くお仕事を。日本風に言うなら、そう、『どうじん作家』でしょうか」
「ど、同人作家!?」
私の声が裏返る。
あの高圧的で、中世の貴族のような少女が? ペンタブとか握って原稿を描いているのだろうか?
「今は新作の執筆のために、この国に滞在されているのです。締め切り前は特に神経質になられますから、日光や騒音を極端に嫌います。昼夜逆転生活も、そのせいです」
「あー……なるほど、クリエイターさんなんですね。納得しました」
私は妙に納得した。
(日給5万も、人気作家なら出せる金額なのかも。あの偉そうな態度も、芸術家肌ってことか。血の契約とかも、中二病の延長みたいな……?)
アナスタシアさんは前を向いたまま、微かに口角を上げた。
私が疑うことなく信じたのを確認し、ポーカーフェイスのまま話を続ける。
「しぐれ、貴女にはまず制服に着替えていただきます。お嬢様……いえ、『先生』の創作活動を支えるのが、私たちの仕事です。粗相のないように」
「は、はい! 頑張ります!」
私は決意を新たにする。
「ちょっと変わったお金持ち(同人作家)の洋館」でのアルバイト生活が、今、始まろうとしていた。
(第1話 完)




