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第1話「古都の香り、茨の館」


週末の鎌倉駅前は、平和な喧騒に包まれていた。 小町通りの入り口から伸びる、色とりどりの日傘の波。風に乗って漂ってくるのは、甘いタピオカ、抹茶プリン、そして焦げた醤油が香ばしい手焼き煎餅の匂い。 誰もが笑顔で、古都の休日を謳歌している。


そんな幸せな景色から弾き出されるように、私は駅の柱の陰に立ち尽くしていた。 大庭おおばしぐれ、17歳。 私の視線は、観光客が手にする食べ歩きグルメではなく、ひび割れたスマホの画面に釘付けになっていた。


「……残高、3桁。嘘でしょ」


画面に表示された銀行アプリの数字は、非情な現実を突きつけている。 深いため息が、雑踏の音にかき消された。


私は現在、一人暮らしだ。 「自分の部屋が欲しい」という思春期特有の理由と、大家族の騒がしさから逃れるために、高校入学と同時に父方の祖父母が遺した古い実家に移り住んだのが半年前。かつては一族が住んでいたというその屋敷は無駄に広く、そして古い。 生活費を稼ぐためにアキバ系のメイドカフェでアルバイトをしていたのだけれど――その店が三日前、店長の夜逃げによって唐突に潰れたのだ。


「来週は修学旅行の積立金の引き落とし……。」


このままでは、ご飯が食べられない、修学旅行にも行けない。 焦燥感に駆られながら、私は怪しげな高額バイトの掲示板をスクロールした。 『チャットレディ』『治験』『運び屋』……。 スクロールする指が止まるような、危険なワードばかりが並ぶ。


「やっぱり、まともな仕事なんてないか……」


諦めかけて画面を閉じようとしたその時。ふと、奇妙な求人広告が目に留まった。


【急募】鎌倉の洋館でメイドのお手伝い


勤務地: 鎌倉市朝比奈あさひな切通しの最奥


業務内容: 館の清掃、女主人の話し相手、その他雑務(※メイド服支給)


給与: 日給5万円(即日払い可。食事付き)


条件: 16歳〜20歳までの健康な女性。口が堅いこと。


「……日給5万!? 桁、間違えてない?」


思わず声が出た。 掃除と話し相手だけで、5万円。あまりにも好条件すぎる。 普通なら「裏がある」と警戒してしかるべきだ。新手の詐欺か、あるいはもっと恐ろしい何かか。


でも、私のお腹と、迫りくる請求書の山が、正常な判断力を麻痺させていた。


「……いや、鎌倉だし。世離れしたお金持ちの道楽かもしれない。掃除と話し相手で5万なら……やるしかない!」


私は震える指で、『応募する』ボタンをタップした。 それが、自分の運命を決定づけるとも知らずに。


返事はすぐにきた。

指定された場所は、観光客で賑わうエリアから遠く離れた、山の手にあった。 地図アプリを頼りに進むけれど、道はどんどん狭く、暗くなっていく。


「……本当にこっちで合ってるの?」


目の前に現れたのは、山を削って作られた狭い道――「切り通し」だ。 両側の岩肌は苔むし、染み出した水がじっとりと空気を湿らせている。頭上を覆う鬱蒼とした木々のせいで、昼間だというのに薄暗い。 トンネルのようなその道を歩いていると、まるで現世から切り離されていくような錯覚を覚える。


「なんか……空気が違う。ここだけ、時代が止まってるみたい」


背筋に冷たいものを感じながらも、私は足を進めた。 切り通しを抜けた先。森が開けた場所に、その館は鎮座していた。


周囲の風景から完全に浮いていた。 明治か大正時代に建てられたと思われる、重厚な石造りの洋館。 蔦が血管のように絡まる外壁は黒くくすみ、すべての窓は分厚い遮光カーテンで閉ざされている。 そこだけ、日本の鎌倉ではなく、霧深いロンドンの郊外か何かのようだった。


「うわぁ……本物のお化け屋敷じゃん……」


帰りたい。その本能的な警鐘を、「日給5万円」という言葉で必死にねじ伏せる。 私は巨大な鉄格子の門の前にある、錆びついたインターホンを押した。


『……はい』


ノイズ混じりの、低い女性の声。


「あ、あの! バイトの面接に来ました、大庭です!」


『……どうぞ。開いております』


ガチャン、と重い金属音が響き、門の鍵が外れた。


重厚な木の扉を押し開けると、そこは別世界だった。


広い玄関ホールは、磨き上げられた大理石の床が冷たい輝きを放っている。天井からは巨大なシャンデリアが下がり、空気はひんやりとしていて、古い書物のインクと、どこか甘い香の匂いが混じり合っていた。


「ようこそお越しくださいました、大庭様」


「ひっ!?」


音もなく現れた人影に、私は小さく悲鳴を上げた。 そこに立っていたのは、この館のゴシックな雰囲気に完璧に調和した、美しい女性だった。


背筋を伸ばした長身。流れるような銀髪をきっちりとまとめ、シャーロック・ホームズの物語に出てくるような、クラシカルなドレス風のコートを着こなしている。 その肌は陶器のように白く、ガラス玉のような紫の瞳には、何の感情も浮かんでいない。


「あ、えっと……大庭しぐれです。よろしくお願いします」


「わたくしは、レディースメイドのアナスタシアです。本日はメイド長が不在ですので、私が案内いたします」


アナスタシアと名乗った女性は、丁寧に一礼した。 だが、その声は氷のように冷徹だ。彼女は私を一瞥もせず、軍人のように正確な足取りで廊下の奥へと歩き出した。


あるじがお待ちです」


私は慌てて、その冷たい背中を追った。


通されたのは、豪奢なアンティーク家具が並ぶサロンだった。 昼間だというのに分厚いカーテンが引かれ、部屋は夜のように暗い。暖炉の中で揺らめく炎だけが、唯一の光源だった。


部屋の中央。猫足のついた豪奢な長椅子シェーズ・ロングに、小さな人影が横たわっていた。


「……遅いじゃない、ナースチャ」


けだるげな声が響く。 声の主は、どう見ても私と同じ歳か、あるいは少し年下に見える少女だった。 闇の中で自ら発光しているかのような、豪奢な黄金の巻き毛。そして、血のように赤い瞳。 彼女は深紅のドレスの裾を乱雑に広げ、グラスに入った赤い液体を揺らしていた。


「申し訳ありません、ソフィア様。こちらが応募者の大庭しぐれ様です」


「ふうん……?」


「ソフィア」と呼ばれた少女が、ゆっくりと体を起こし、私を見据える。 その視線は、人間が人間を見る目ではなかった。 品定めをするような、あるいは、新しい玩具を前にした子供のような、残酷な無邪気さ。


(この子が……主人? っていうか、この子も外国人?)


圧倒的な「格」の違いに、私は立ち尽くす。


「お前、名前は?」


「え、あ、大庭しぐれです」


「オオバ? ……ふん、懐かしい響きね。そういう名前を前に聞いたことがあったわね」


ソフィアは一人で納得したように頷く。 私には何の話かさっぱり分からない。この辺りに多い名字なのだろうか。


「まあいいわ。顔は平凡だけど、悪くない雰囲気ね。ここに来れたってことは、そういうことなのね。……それに」


ソフィア様が鼻をひくつかせる。


「すごく、いい匂いだわ」


「は、はぁ……(匂い? 昨日お風呂入ってないのバレた!?)」


私が焦って自分の袖の匂いを嗅いでいると、ソフィアはグラスをサイドテーブルに置き、興味なさそうに手元の古い巻物を広げた。そこには見たこともない古風な文字が並んでいる。


「それにしても、この国の歴史書は間違いばかりね。……ねえ、しぐれ。『武衛ぶえいの宝』って知ってる?」


「ぶ、ぶえいの宝? ……えっと、ルパンの新作ですか?」


「くくっ、あはははは! ルパン? そうね、ある意味、そうかもね。」


ソフィア様が突然、腹を抱えて笑い出した。その笑い声は、可憐な少女の容姿からは想像もつかないほど、ドスが効いている。 私は完全に困惑し、助けを求めるようにアナスタシアを見たが、彼女は能面のように無表情なまま、直立不動で控えていた。


「気に入ったわ。無知なところが可愛らしい。採用してあげる」


「え、本当ですか!? ありがとうございます!」


あっさりとした採用決定に、私は安堵する。これで修学旅行に行けるし、電気も止まらない。


「ナースチャ、契約書を。……それと、少し喉が渇いたわ。お茶の用意を」


アナスタシア様が差し出したのは、羊皮紙のような厚手の紙だった。 そこには英語ではない、どこかヨーロッパの古い言語らしき文字がびっしりと書かれている。読める単語はひとつもない。


「外国式の契約書です。サインをお願いします」


言われるがままにペンを取る。住所や電話番号を書く欄はなく、ただ一番下に名前を書くスペースがあるだけだった。 私はそこに『大庭しぐれ』と記入した。


「書けました」


「……では」


アナスタシアさんは契約書を受け取らず、代わりに銀色の小さなナイフを差し出してきた。 鈍く光る刃先。


「名前の隣に、ご自身の血をつけてください」


「え?」


思考が停止する。


「指を切るってことですか? い、嫌なんですけど……痛いし、バイ菌とか入ったら……」


「それをしないと、ここでは働けませんよ」


アナスタシアさんの声は淡々としていたが、有無を言わせない響きがあった。 私はナイフを見つめる。 (日給5万……5万……) 背に腹は代えられない。痛いのは嫌いだけど、一瞬チクっとするだけなら。


私は震える手でナイフを受け取り、左手の人差し指に当てた。 しかし、いざ刃を肌に当てると、本能的な恐怖で手がすくむ。


「うう……やっぱり、無理かも……」


「……仕方ないですね」


ため息交じりの声と共に、手からナイフが取り上げられた。 次の瞬間。


「え?」


アナスタシアさんが、私の左手を強く掴み、その人差し指を――自身の口に含んだ。


「いっ……」


鋭い痛みが走った。 ナイフではない。歯だ。犬歯が、指の腹を突き破った感触。 驚いて手を引こうとするが、アナスタシアさんの力は万力のように強く、びくともしない。


「ん、ちゅ……っ」


濡れた舌が、傷口を這う。 痛みのあとに、奇妙な熱が広がった。 ただ血を吸われているだけではない。体の中にある「何か」大事なものを、根こそぎ吸い出されているような、強烈な脱力感と……背徳的な快感。


アナスタシアさんの紫の瞳が、至近距離で妖しく光った。


「……甘い」


アナスタシアさんは恍惚とした表情で、私の指を深く、執拗に吸い上げる。 冷徹な仮面が剥がれ落ち、そこには抑えきれない渇望が露わになっていた。


「あ……ぅ……」


膝から力が抜ける。 数秒、あるいは数分にも感じられる濃密な時間の後、ようやくアナスタシアさんは名残惜しそうに唇を離した。 銀色の糸が、私の指先と彼女の唇の間でとろりと引いた。


「あらあら、ナースチャ」


長椅子の上から、ソフィアが楽しげな声をかける。


「主人の前でお手付きするなんて、いい度胸ね」


「っ! ……い、いえ、そういう訳では……」


我に返ったアナスタシアさんが、パッと手を離す。 その頬は微かに朱に染まり、呼吸が乱れていた。彼女は口元をハンカチで拭うと、慌てて居住まいを正す。


「……失礼いたしました。消毒も、兼ねておりますので」


苦しい言い訳だ。 指先からは、まだ赤い血が滲んでいる。


「……まだ血が出ているうちに。さあ、ここに」


アナスタシアさんに促され、私は震える指を契約書の署名欄に押し付けた。 白い紙に、鮮やかな赤が滲む。 それが、逃れられない契約の証となった。


「……これで契約完了です」


アナスタシアさんは契約書を丁寧に回収すると、改めて私に向き直った。


「では、改めて。……これからは貴女もこの屋敷のメイドです。『大庭様』とお呼びするのは他人行儀ですので、『しぐれ』と呼ばせていただきますね」


「あ、はい……えっと、じゃあ私もアナスタシアさんって呼んでいいですか?」


「ええ。好きになさい」


アナスタシアさんは少しだけ表情を緩めると、すぐにまた鉄のような無表情に戻り、扉を開けた。


「では、屋敷を案内します。ついてきてください」


サロンを出て、長い廊下を歩く二人。 先導するアナスタシアの背中は、先ほどの「熱情」が嘘のように冷ややかで、完璧な姿勢に戻っていた。


窓はすべて厚いカーテンで閉ざされており、廊下は昼間でも薄暗い。 壁には古い絵画が飾られているが、どれも宗教画のような、あるいは見たこともない風景画ばかりだ。


「……あの、アナスタシアさん」


沈黙に耐えきれず、私は恐る恐る話しかけた。


「お嬢様……ソフィア様って、何をしている方なんですか? お昼なのにカーテン閉め切ってるし、あんなに古そうな巻物読んでるし……」


まさか、怪しい魔術の儀式とかじゃないですよね、と聞こうとして飲み込む。 アナスタシアさんは歩みを止めず、淡々と答えた。


「お嬢様は……作家をしておられます」


「え、作家さん?」


「ええ。絵と物語を書くお仕事を。……日本風に言うなら、そう、『どうじん作家』でしょうか」


「ど、同人作家!?」


私の声が裏返る。 あの高圧的で、中世の貴族のような少女が? ペンタブとか握って原稿を描いているのだろうか?


「はい。今は新作の執筆のために、静かなこの国に滞在されているのです。……締め切り前は特に神経質になられますから、日光や騒音を極端に嫌います。昼夜逆転生活も、そのせいです」


「あー……なるほど、クリエイターさんなんですね。納得しました」


私は妙に納得した。 (日給5万も、人気作家なら出せる金額なのかも。あの偉そうな態度も、芸術家肌ってことか……)


アナスタシアさんは前を向いたまま、微かに口角を上げた。 私が疑うことなく信じたのを確認し、ポーカーフェイスのまま話を続ける。


「ここがキッチン、奥がリネン室です。……しぐれ、貴女にはまず、制服に着替えていただきます」


アナスタシアさんが立ち止まり、私を振り返る。


「お嬢様……いえ、『先生』の創作活動を支えるのが、私たちの仕事です。粗相のないように」


「は、はい! 頑張ります!」


私は決意を新たにする。 「ちょっと変わったお金持ちの洋館」でのアルバイト生活が、今、始まろうとしていた。


(第1話 完)

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