第十話 『痛みのイロハ』
一つ、二つ、三つと消えて、ものの数分で四つ目のおにぎりへと齧りつく。
おおよそ人間のものとは思えない勢いで、彩華ちゃんは海苔で巻かれた白米を嬉しそうに頬張った。一体、その華奢な身体の何処へ入っているというのだろうか……。
「先生、あの……いいんですか? 起きてすぐに、こんなに食べて」
僕は眉を顰めつつ、御手洗先生へ訊ねた。
立ったままに壁へもたれかかった先生は、「ん?」と短く返事をしながら此方へと双眸を向ける。先生は次に赤髪の彼女へと目をやってから、その豪快な食べっぷりを眺めつつクスクスと笑った。
「構わんさ。お嬢ちゃんの身体は、普通の人と比べて遙かに丈夫だからね。とは言え、こっちじゃ今までのようには行くまい。葛葉君の言う通り、無理は禁物だ。ちょっとは反省したまえよ?」
「……ごめんなさい」
おにぎりを平らげた彩華ちゃんは、ペコリと頭を下げつつ言う。
続けて、ベッドの反対側へ座る音葉さんも、「ホントよ。心配したんだから……」
と、安堵したふうに溜め息を吐いた。
何はともあれ、大事にならなくて良かった。
僕もそんなふうにホッと胸を撫で下ろしながらも、ふと、碧の双眸が僕の脇にあるサイドテーブルへ向けられている事が気にかかった。卓上には、先程買ったサンドイッチが置いてある。
「……はい、どうぞ」
言いながらサンドイッチを摘まみ上げ、彼女へと差し出す。すると、下ろしたままの赤髪がピョンと跳ね、瞼の奥へ据わる碧眼が宝石のように煌めいた。
前々から思っていたのだが、この子のリアクションにはいちいちマスコット的な可愛らしさが備わっている。まるで映画やアニメの中から飛び出したキャラクターを相手にしているような……。
本当に不思議な子だ――なんて思った刹那、和やかな雰囲気に飲まれている場合ではない事を思い出した僕は、ゴホンッとわざとらしく咳払いをした後で、同じくサイドテーブルへ置いてあった彩華ちゃんのノートパソコンを開き、電源を入れた。
瞬間、今にもサンドイッチへ齧り付こうという彼女の動きが静止した。そして此方へ向き直る。
「……もしかして、見ちゃいました……?」
恐る恐る訊ねた彼女は、サンドイッチをそっと一口囓ってから、上目遣いに眉根を寄せた。
そんな顔をされたって、今日の僕は折れたりしない。
僕は心を鬼にして、腕組みをしながら嘆息交じりに唸った。そして一つ頷いた。
小動物のようにプルプルと震え始めた彩華ちゃんは、勢い良くサンドイッチを平らげると、細い声で「……み」と一言呟く。そして両手を胸元へと当て、しかし次には手のひらをだらりと下げて、頭をゆらゆらと揺らしながら「ミーターナー……!」と僕へ躙り寄った。同時に淡く青白い光が彼女の背後から漏れ、聞こえるはおどろおどろしい音。……いや、これは――。
「調子に乗るなっ」
僕は無愛想に言ってから、目の前で揺らめく幽霊もどきの頭部へ手刀を振り下ろした。思ったよりも良い感じに当たってしまい、短く呻き声を上げた彩華ちゃんは、遅れて僕の手を両手で受け止めつつ、目に涙をにじませる。
「音葉さんも、悪ノリしないでください! ほらほら、眩しいから……早くスマホのライト消して! ……というか、何でそんなBGM持ってるんですか?」
「いやぁ、その、やらないとかなー? って」
「やらなくていいです! 突然沸いて出たみたいに謎の芸人魂拗らせないでください!」
音葉さんは「えへへ……」と眉をハの字にしながら微笑を浮かべるも、その表情に反省の色は微塵も見えなかった。相変わらずの悪戯っぷりである。
「葛葉君も、すっかり馴染んでるじゃないか。結構結構」
言って、先生は繰り返しクスクスと笑った。
僕は「まったく……」とボヤいてから、目の前で意気消沈している元幽霊さんの頭をポンポンと撫でた後で、「すみません、お二人とも――」と、音葉さんと先生とを交互に見やった。そして続けた。
「ちょっとだけ、この子と二人で話をさせてくれませんか?」
音葉さんと先生はお互いに目を見合わせた後、柔和な表情で同じように頷く。
「了解、じゃあまた後でね」
音葉さんは言って席を立つと、軽く手を振った後で病室を後にした。
「私はこのまま失礼するよ。身体は元気そうだが、お嬢ちゃんはもう少し経過観察が必要だ。当分の入院生活は覚悟したまえ?」
「はい、お世話になります」
言って彩華ちゃんが会釈をすると、先生は「結構結構」と呟くように言ってから、去り際に「おっと、忘れるところだった」と足を止める。次に此方へ向き直った先生は、唇の両端へ笑みを浮かべながら言い放った。
「東京に居るご両親からの伝言だ。『無事、引き上げに成功した』との事だ」
直後、彩華ちゃんは目を大きく見開いたまま表情を凍らせた。しかし続けて、何故だか僕のほうへと顔を向ける。
「別にいいじゃないか。どの道、葛葉君にも話すつもりなんだろう?」
幾分申し訳なさそうに眉根を寄せた赤髪の彼女は、「……そのつもりです」と、先生へ返事をした。
「だそうだ。悪いが、少々事情が込み入りすぎていてね。時が来れば、お嬢ちゃんからちゃんと説明があるはずだ。それまでの間、追求はしないであげてほしい」
「……ごめんなさい」
彩華ちゃんは真剣な声音で言う。
僕は何度か首を横へ振ってから、「気にしないで」と声をかけた。しかしそのやり取りで、恐らくは僕の予想は的中していたのだと悟った。十中八九、彩華ちゃんはシェルター移住計画と何らかの繋がりを持っている。
今の東京は、一般人が立ち入る事が許されない場所だ。既に東京という街は存在すらせず、現在は巨大な黒塗りのシェルター施設へと姿を変えている。
表向きは、出所不明の無人戦闘機による無差別空襲――東京大空襲の再発を懸念した政府が取った安全措置と言われているが、先だって収容された市民との連絡が取れなくなっているという報告が相次いでいると聞く。
一体、あの箱の中で何が……。
「では、今度こそ失礼するよ」
そんな先生の声で、僕は思考の渦から引き戻された。
先生が病室のドアを閉じると、分厚い静寂が部屋を満たした。赤髪の彼女は終始気まずそうにしていたが、次には「……約束破って、ごめんなさい」と言って、僕へ頭を下げた。
僕はこの三日間、この子が無事に目覚める事を心から願っていた。しかし同時に、彩華ちゃんが目覚めた時、僕は師として何て言葉をかけるべきなのか――と、大層頭を悩ませていた。正直なところ、正解という物は見つかっていない。しかし脳裏には、先程先生がくれた言葉が張り付いて離れなかった。
――寄り添ってやれるのは、同じ痛みを知っている者だけだ
確かにそうかもしれない。だからピカニアは、僕が”適任”であると考えたのだろう。胡散臭い笑みの似合う彼もまた――断片的にではあるものの――昔の僕を知る数少ない友人の一人だ。
だったら――と、僕はポツポツと話を始めた。
「その昔、寝る間も惜しんで文筆へ没頭した挙げ句、日常生活へ支障を来して、学校の単位を落とした大馬鹿者が居たんだ」
僕の声に反応して、俯き加減だった彩華ちゃんがゆっくりと顔を上げる。
「今、僕が君にそうしてるみたいに、僕にも、文字書きを教えてくれた先生が居るんだ。その時、その人にこっぴどく叱られたんだよ。『自己管理すら出来ない奴が、いい文章なんて書けるわけがないだろ』ってね」
聞いて、彼女は碧の瞳を細め、眉尻を下げる。しかしその後、僕の「でも」という言葉へ釣られてか、再び視線が此方へと向いた。
「僕はその人に言ってやったんだ。『抗う事が、そんなにいけない事なのか?』って。そしたら黙られちゃってさ。その後、一ヶ月くらい口すら聞いてくれなかった。今更だけど、酷い事を言ったなって後悔してる」
そこで言葉を切った僕は、彩華ちゃんへ向かって右手を差し出した。
「手、貸して」
僕が言うと、彼女は意図を汲み取ったようで、同じく右手を僕の手への上へと乗せた。
僕はその小さな手を、左手も使って優しく包み込むように握った。最初にこの子と出会った時、彩華ちゃんが僕にしてくれたのと同じように。
これは、話術におけるちょっとしたテクニックの一つだ。
対話というのは、相手の意思を肯定するだけでは決して成り立たない。時には否定的に――もしくは、攻撃的とも言える言動も織り交ぜなければ、円滑なコミュニケーションは成立しない物である。そんな時に役に立つのが、この”手を握る”というやり方だ。
勤勉な彩華ちゃんの事だ。恐らく僕の障がいについて言及する際に、気を悪くさせない良いやり方は無いだろうか――と、考えた末の行動だったのだろう。
一応断っておくと、これはかなりの上級テクニックだ。お互いに相手との距離感をちゃんと掴めている――もしくは、旧知の仲といった親しい間柄で無ければ、有らぬ誤解や、単純に逆効果を生む可能性も大いに有り得るという事だけは知っておいて欲しい。
彼女は少し照れ臭そうに視線を逸らしながらも、その表情には緊張の色が仄かに滲んでいた。
僕は極力声へトゲが出ないように、慎重に言葉を紡ぐ。
「君は間違った事をしてる訳じゃない。結果的に、”一日千文字にとどめる事”っていう僕の言い付けを破る形になっちゃったけど、それでも、君が確固たる意思の元で、目標を達成する為に頑張ってるのは僕も知ってる。もちろん、応援してあげたいとも思ってる。ただ――」
一度僕へ視線を戻した彩華ちゃんは、しかし再び俯き気味になった後、握った僕の手へキュッと力を込めた。それから小さく細い声で言った。
「……間に合わないんです。今のペースじゃ、とても――」
次に視線を上げ、声を震わせながら、訴えかけるように彼女は続ける。
「もし間に合わなかったら、その次の冬まで、私の身体が持つか分からないんです。同じように書けるか、分からないんです。……怖いんです。私が無理をしなくたって、今のままで居られる保証なんて、何処にも……。だったら、多少身体にムチを打ってでも――」
言って、大きな瞳の淵へ涙を滲ませた彼女は、小さく肩を竦めた後で付け加えた。
「……待ってる人が居るんです。お願いされたんです。そこへ届ける為には、何としてでも――」
再び、ギュッと彼女の手へ力が入る。
分かりきっていた事だ。僕が何を言ったって、この子は一歩たりとも引くことは無いだろう。それなら、別の方法を模索するしかない。その為に、このノートパソコンを持ってきてもらったのだ。
「なら、僕から一つ提案があるんだけど――」
「提案……ですか?」
僕は一つ頷いてから彩華ちゃんの手を離し、立ち上がったノートパソコンを操作して、あるテキストファイルを開いてから彼女へと画面を向けた。
彩華ちゃんはベッドの上から手を伸ばして、マウスを操作して画面をスクロールさせる。すると少しして、「あれ……?」と声を漏らした彼女は、僕のほうへ向き直ってから口を開いた。
「これ、もしかして、芳澄さんが……?」
僕は再び頷いて、先程言った提案の内容を説明した。
「君が眠ってる間に、パソコンへストックしてあった推敲前の文章を、僕なりに君の文体へ似せて推敲してみたんだ。もし、こんな文章でも君が納得してくれるなら、僕が推敲役をやる。それなら、君が一日に書ける文字数だって、少しは増やせるでしょ?」
説明を聞きながら、呆然と画面のテキストへ目をやる彩華ちゃんへ、僕は「……どうかな?」と、緊張の面持ちで訊ねる。すると、次に目を細めた彩華ちゃんは、瞳から大粒の雫を一つ零した。
「……私、約束破ったのに……悪い子なのに……こんな――」
ポロポロと溢れる涙を病衣の袖で拭いながらも、辿々しい口調で彩華ちゃんは続けた。
「無茶なお願いだって、分かってたんです。私みたいな素人が、ましてや、こんな身体で、一年ぽっち勉強したところで、ちゃんとしたお話を書くなんて到底出来ません。でも、お願いされたからには、やり遂げたいんです。身体がダメになっちゃうより、出来なくて終わるほうが、ずっと――ずっと怖いんです」
涙で頬を濡らす彼女を前に、僕は重ね重ね、”同じ痛み”という言葉の意味を噛みしめた。同時に、胸の奥がキュッと痛むのだった。
「明日、見えなくなってたらどうしよう――なんて、考えたら眠れなくて、今出来る事をやらなくちゃって。やらなきゃ、絶対後悔するだろうから――って」
僕が昔を思い出しながらポツポツと呟くように言うと、彩華ちゃんは濡れた双眸を僕のほうへと向けた。
「何方かと言えば、僕も長生きするのに興味なんて無いんだ。そんな事よりも、今をどう生きるか――どう輝いていられるかが大事だと思ってる」
僕は一つ息を飲んでから、うっかり貰い泣きしそうになる涙腺をしっかりと縛り上げ、「だから、協力させてほしい」と、最後まで言い切った。
「……やっぱり、芳澄さんにお願いして、正解でした」
その時彼女が浮かべた笑顔を、僕は一生忘れる事は無いだろう。
こうして、僕等の本当の意味での二人三脚が始まった。彼女は執筆へ没頭し、僕がそれを丁寧に推敲する。そんなふうに、彼女の初作――LINNEは着実に知名度を伸ばしていった。
全てが順調だった。彩華ちゃんの執筆速度は、僕が想定していた以上の伸びを見せ、LINNEがいよいよ終盤を迎えるといった頃には、一日に四千字近くを無理なく書き上げる程にまでになっていた。
そう、全てが順調だったんだ。あの男と再び顔を合わせるまでは――。
忘れもしない。十月二十一日、何時も通り芳香からの帰路を歩く僕の前へ、そいつは唐突に現れた。そして慣れ慣れしく、僕の事を野太い声で呼んだのだ。
「あれぇ? あれれぇ? こんな所で会うたぁ、偶然偶然」
汚らしい無精ひげを歪ませ、不適に笑みを作ったそいつは、背後に引き連れた数人の男と共に僕のほうへと歩み寄る。僕は咄嗟に歩く方角を変え、知らんふりを決め込もうとしたが、「何逃げようとしてんだよ、え?」と、次には肩を掴まれてしまった。
僕へ顔を近づけたそいつは、タバコとアルコールの匂いを漂わせながら囁いたのだ。身の毛もよだつ、その不愉快な太い声で――。
「いやぁ~懐かしいねぇ。なぁ? お前もそう思うだろ? か~す~み~君」




