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第九話 『後悔のイロハ』

 三日経っても、彼女は目を覚まさなかった。


「じゃあ、また後で」

 あの日の帰り際、彩華ちゃんはそう言って僕へ屈託の無い笑顔を向けた。そして何時ものように、芳香のレジ前から小さく手を振った。


 あれが、彼女と交わした最後の会話になるかもしれない。考えないようにすればするほどに、そんな不安が募るばかりだった。


――芳澄君、大変なの。彩華が……彩華が急に倒れて……!!

 電話の向こう側で、音葉さんの声が鳴る。


 気が付くと、僕は自室で呆然と立ち尽くしていた。手にはスマートフォン。スピーカーからは、動揺にまみれた音葉さんの声。

 悪い夢だと思った。目の前が遠のく感覚が、ゆっくりと僕を蝕んだ。


 朦朧とする意識の向こう側から、心電図モニターが奏でる等間隔な電子音が聞こえた。

 刹那――ビクッと身体が震えたのと同時に、それが本当に夢だった事に僕は一瞬安堵する。しかし目を開いたところで、夢から覚めた事にはならなかった。起こってしまった現実をまじまじと突きつけられるだけだ。


 もたれかかった病室の壁から背中を引き剥がし、立ち上がって伸びをしながら、凝り固まった身体を何となくほぐす。

 僕は外していた眼鏡をかけ直して、スマートフォンで時刻を確認した。画面には、午前の七時半と出ていた。しかし、それにしては部屋は暗いままだ。


 僕は窓辺へと向かって、カーテンの隙間から外を覗いてみた。すると、黒々とした分厚い雨雲から、大粒の雫がボタボタと降り注いでいるのが見えた。

 まるで空が泣いているようだ――と、僕は思った。


 直後、個室のドアの向こう側を、カチャカチャと物音を立てながら何かしらが通り過ぎた。それを追いかけるように女性の声が一つ、その後ろへ男性の声が一つ。会話の内容までは聞き取れなかったが、恐らくは業務連絡的なやり取りなのだろうと僕は想像した。


 部屋を見回したが、音葉さんの姿は無かった。カバンなんかは置きっぱなしで、一度帰宅したというふうでは無い。


 お手洗いにでも行ったのかな……? そんなふうに思った頃、急に腹の虫が鳴った。

 食べ物を求めて備え付けの小さな冷蔵庫を開けてみたが、飲みかけのお茶が一本入っているだけだった。


 諦めた僕は、部屋の隅へ置いたショルダーバッグから財布を取り出し、個室のドアを開けて廊下へと出た。

 ふんわりと消毒液の香りが漂う院内は、少しずつ慌ただしさを取り戻しつつあった。患者さん達が病院食を食べる音や、看護師さん達の忙しない足音。ストレッチャーが床を蹴るゴゴーという音や、誰かしらが会話をする声。


 目の障がいの事もあり、僕も病院には小さい頃から何かとお世話になってきたが、それでも、この雰囲気は昔から苦手だ。

 院内を歩く人々の顔には、それ特有の色がある。淋しさでもなく、悲しさでもない。ただ耐えている――我慢しているといったふうな、苦しい現実と向き合っている時に表れる色。その色を見てしまうと、僕は想像せずには居られないのだ。どんな境遇を――どんな重圧を背負って、今ここに立っているのかを。


 僕は俯き加減に、極力誰とも目を合わせないようにしながら売店を目指した。

 もしかすると、音葉さんも同じく食料を求めて売店へ向かったのかもしれないな――なんて考えもしたが、仮におにぎりや飲み物が一つ二つ被ったところで、対して困る事は無い。それに、もしも彩華ちゃんが目を覚ましたら、きっとその第一声は「お腹が空きました」か、「喉が乾きました」かのどちらかだ。


 起きて直ぐに飲食なんて出来る訳が無い事は分かっている。けれど彼女の事だ、突然ケロッとした顔で目を覚ましたと思えば、無造作におにぎりの一個くらい頬張り始めるに違いない。きっと、そうに違いないのだ。


 だから……早く帰っておいで。音葉さんだって心配してる。遠方に居るご両親だってきっと――。

 思って、不意に零れそうになった弱音をぐっと飲み込み直した頃、僕の脳裏へLinの言葉が蘇った。


――貴方に、この気持ちが分かる? 大切なのに、大好きなのに、そんな貴方が辛い思いをしてるかもしれないって時に、私は静かに待ってないといけないの。何もしてあげられないっていう無力さに苛まれながら、ずっと……ずっと待ってないといけないの


 本当に、僕という奴は酷い人間だ。

 僕は一つ嘆息した後で、重ね重ね自己嫌悪を募らせた。


 売店では、具材も見ずに選んだ適当なおにぎりを二つと、レタスがたっぷり挟まったサンドイッチを一つ、ペットボトルのカフェラテを一本買って、僕は足早に病室へと引き返した。

 結局、道中で音葉さんと会う事は無かった。こんな事なら、もう少し多めに食べ物を買い込んでくれば良かったな――と後悔しながらも、彩華ちゃんの病室のドアへ手をかける。すると、傍らから「おや? 君は――」と、誰かに声をかけられた。


 声へ首を向けると、そこには白衣に身を包んだ女性が立っていた。

 僕より頭一つ分程背の低い、肩までの栗色髪を揺らすその女性は、オーバル型の黒縁眼鏡をくいと上げながら怪訝な表情を作る。次に僕の顔をまじまじと覗き込んでから、「成る程……君が……」と、一人納得したふうに言う。


「あの、何方様でしょうか……?」

 僕が訊ねると、女性は微笑を浮かべながら病室のドアを指さし、「その部屋で眠ってる女の子の主治医だよ」と答え、首にかけた名札を摘まみ上げて僕へと掲げる。


 僕が名札に書かれた小さな文字へ目を細めると、女性はすぐに「おっと、すまん、私とした事が、配慮に欠けていた」と謝ってから、「御手洗(みたらい)だ。よろしく頼む」と自己紹介して、僕に向かって右手を差し出した。


 僕もそれに習い、「葛葉です」と名乗ってから、彼女――御手洗先生と握手を交わした。

 先生は微笑を強めて何度か頷いた後、手を握ったままに、何故だか僕の顔へじっと視線を送る。僕が小首を傾げると、先生は僕から手を離し、右手で胸ポケットからボールペンを取り出して、「君、このペンが見えるかい?」と訊ねてから、色白な小顔の横でペンを小さく揺すった。


 訳も分からず、「見えますけど……」と答えた刹那、僕の額へ妙な違和感が走った。よく見れば、いつの間にか先生の左手人差し指が僕の額に触れている。驚いて少し仰け反った僕を見て、彼女は「うーむ……」と神妙な面持ちで唸った。そして言った。


「君、利き目は?」

「え、利き目? ……多分、左だと思います」


 利き目なんて、あまり意識をした事はなかったが、僕が直感でそう答えると、先生は再び納得したふうに頷いて見せた。


「大雑把な配分だが、右の視野が四十、左の視野が六十といったところか。右は中心点から右上へ欠落が肥大している。私の手が突然現れたように見えただろう? 恐らく君は、左目で大部分の視野を補っているんだ。しかし、あんまり左へ頼り過ぎないほうがいい。両眼の視力差が酷くなれば、慢性的な頭痛の原因にもなるからね」


 僕は驚きのあまり、思わず目を見開いた。この人は先程のやり取りだけで、僕の視野の配分をいともたやすく言い当ててしまったのだ。

 彼女の言う通り、僕は右目があまりよくない。その分を左目で補填しているのだと、眼科の先生にも診断を受けている。


「今の一瞬で、一体どうやって……?」

 そう僕が訊ねると、先生は柔和な表情で口を開いた。


「あっちでは、日本で言う自衛隊みたいなところで医者をやっていてね。戦場での診察や治療は、何よりもスピードが勝負だ。同じくらい、優れた判断力もね。君にやったのは、そういう積み重ねの副産物みたいな物さ」


「成る程……」と、僕が感心しながら言った直後、先生は「あっ――」と声を漏らし、すぐに「すまん、今の話、ここだけの秘密にしといてくれないか?」と、困ったふうに笑顔を作る。


「もちろんです。軍の機密事項……みたいなやつですよね? 誰にも言ったりしないので、安心してください」

 言って僕が微笑み返すと、しかし先生は「あー……そっちじゃないんだが、まぁいいか」と呟いてから、一つ小さく咳払いをする。そして続けた。


「色々脱線してすまない。君の事は、お嬢ちゃんからよく聞いているよ。腕利きの先生だ――ってね。実は私も、昔からカルテ業務が苦手でね。是非とも文章の取り扱いについて、ご指導ご鞭撻賜りたいところだが、それはまたの機会にお願いするとして――」


 そこで言葉を切って、先生はボールペンを胸ポケットへ仕舞うと、続けて「それにしても、君、その目でよく文字書きなんてやれるものだね」と、感心したふうに言う。


「まぁ、もう慣れちゃいましたから」

 僕が答えると、先生は「成る程、”慣れた”――か。全く、君みたいな人達には驚かされるばかりだよ」と、半ば呆れたふうに言ってから、次のように付け加えた。


「ならばこそ、今回の事は、何卒多めに見てやってくれ。お嬢ちゃんも、今必死に自分の身体と戦っているんだ。数々の苦難を乗り越えてきただろう君になら、あの子の気持ちも、少しくらい分かってやれるだろう?」


「……そうですね」

 僕は視線を足下へ向け、過去の苦い記憶へ思いを馳せながら言った。そして同時に、Linへの申し訳無さを心の中で滲ませたのだった。



 彩華ちゃんが病院へ搬送された次の日、彼女の着替えなんかを取りに一度帰宅するという音葉さんへ頼んで、彩華ちゃんが何時も執筆に使っているノートパソコンを持ってきてもらった。

 年頃の女の子のパソコンを勝手に覗き見るなんて、あってはならない事だというのはもちろん分かっている。しかし、僕の予想が正しければ、その中身にこそ彼女がこうなってしまった原因が眠っているはずだった。


 案の定、パソコンの中身には、僕の知らないテキストデータが大量に保管されていた。

 彩華ちゃんの執筆速度から推定するに、恐らくは僕が把握している執筆時間の五倍近く、彼女は一日にパソコンへ向かっていた事になる。


 一日千文字が限度――というのは、僕と彩華ちゃんが日々のやり取りの中で導き出した限界点だ。それを無視して、あろう事か、彼女は一日に五千文字近く書いていたのだ。突然倒れたって、何ら不思議ではない。


「気に病まないで。むしろ、ごめんね……? あの子、一度自分で決めたら、誰が何と言おうと絶対に聞かないから――」


 音葉さんは僕にそう言ってくれたけれど、どう考えたって、明らかに僕の監督不行き届きである。

 彩華ちゃんは真面目だ。真面目すぎるくらいに頑張る――頑張れる子だ。そんな彼女が、一年で『深界の止揚』を書き上げるという目標を掲げている事を知っていながら、僕は悪い意味で、彼女を信じ切ってしまっていた。


――芳澄君のを見てる手前、私だって、その子にあんな思いはしてほしくないもの


 Linの言っていた、あの言葉の重みを、今僕は身をもって噛みしめている。

 今更ではあるが、本当に僕なんかに彼女の先生が務まるのだろうか。導いてあげられるのだろうか。僕なんかより、もっと上手くやれる人なんて、他にいくらでも――。


 そんな、もう何度目かも分からない思考へと沈みゆく僕へ向かって、先生は穏やかな口調で、しかし力強く言葉を放った。


「寄り添ってやれるのは、同じ痛みを知っている者だけだ」


 僕が顔を上げると、ニヤリと強気な笑みを浮かべて先生は続けた。


「安心したまえ。時期に、彼女は目を覚ます。そしたら――」

 そこで一度言葉を切った先生は、僕が手に下げている買い物袋へ目をやった。そして、何故だかフフフッとおかしそうに笑った。


「それっぽっちじゃ、到底足りないだろう。これからお嬢ちゃんの検査をする。君はその間にもう一度売店へ行って、彼女の分の飯を買ってきてやってくれ」


 言ってから、続けて先生は「後、私の分の缶コーヒーも頼む。ブラックなら何だっていい」と付け加えて、茶目っ気のある可愛らしい笑顔を浮かべながら僕へ向かってウィンクを飛ばす。


「分かりました」

 僕は苦笑いを浮かべつつ返事をしてから、『時期に目を覚ます』という先生の言葉を信じ、再び売店へと向かおうとした――その時、「君、ちょっと――」と、背後から先生に呼び止められた。


 踵を返すと、先生は此方を横目で見ながら、開けた病室のドアの先を指さす。

 僕は咄嗟に駆け寄ってから、ゆっくりと病室へ足を踏み入れた。


 いつの間にか顔を出した太陽の光が、カーテンの向こう側から溢れんばかりに輝いていた。柔らかく照らされた乳白色の部屋の奥で、鮮やかな赤い髪がふわりと揺れる。

 そうして、此方を向いた碧の瞳は、一つ瞬きをした後で声を発した。


「……おはよう、ございます」


 そして、僕が言葉を返す前に、「芳澄さん」と僕を呼んだ彼女は、続け様に言ったのだった。


「お腹、空きました」


 言って彼女が浮かべた笑顔は、何時もよりキラキラ二十パーセントカットといった控えめなものだったが、僕の目には十分過ぎる程に眩しく映った。

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