第八話 『”初めて”のイロハ』
ここまで、僕や綾瀬さんの日常的なあれこれを交えつつ、物語を構築する上での”心得”みたいなものを書き綴ってきたが、いよいよ本章より、”執筆”に関するエピソードを取り上げていこうと思う。
頭を悩ませながら産みの苦しみに耐え、試行錯誤の末に小説投稿サイトへ自慢の物語を送り出す。そんな、物書きの醍醐味とも言える苦悩を味わった事のある人になら、その苦しみの向こう側でしか見る事の出来ない景色の素晴らしさにも、首を縦へ振りながら共感してもらえる事だろう。
見ず知らずの誰かから、自身が腹を痛めながら組み上げた物語を評価してもらえる事こそ、物書きとして最上の喜びだ。そんな瞬間が綾瀬さんに訪れたのは、彼女が筆を執り始めてから、意外にもすぐの事だった。
次に語るエピソードは、彼女にとっては、恐らく一生忘れられない瞬間だろう。しかし僕にとっては、少々苦い思い出だ。
僕は幾度となく考えた。もし、あの日から数日遡って、初めからやり直す事が出来たなら――と。
* * *
六月も中旬へ差し掛かった頃、連日の雨を忘れさせるほどに、その日はサッパリと晴れ渡っていた。
あべの駅近くにある芝生広場は、休日という事もあってか、結構な数の行楽客で賑わっていた。
地面はほんのりと泥濘んでいて、芝生へ寝そべって日光浴を楽しむ――なんてわけにはいかないものの、そんなのもお構い無しに泥だらけになりながら走り回るチビっ子達と、それをベンチから優しく見守る大人達とが、週末の和やかな一時を楽しんでいた。
流石に暑いだろうと思い、Tシャツへ薄手のジャケットを羽織って出てきたのだが、それでも少し汗ばむくらいだ。
僕は車椅子を押す手を止め、「ごめん、ちょっとだけ待って――」と綾瀬さんへ声をかけてから、ジャケットを脱いでショルダーバッグへと手早く詰め込んだ。
「いよいよ、暑くなってきましたね」と、綾瀬さんも手で顔をパタパタとあおぐようにしながら呟く。
「綾瀬さんは、夏と冬、どっちが好き?」
飲み物を求めて、辺りを見回しながら僕が訊ねると、横目に映った赤髪の彼女は此方へ視線を向けながら、何故だか次にふくれっ面を作る。
「……あの、前から気になってたんですけど」
「ん?」
矢継ぎ早に疑問符を付けて返事をすると、唇を尖らせた彼女は、「音姉の事は、”音葉さん”って名前で呼ぶようになったのに、私の事は、一向に苗字のままですよね? なんか、ちょっぴり距離を感じるなー――なんて」と、空を仰ぎながら不貞腐れたふうに言う。
「うっ……」
呻き声にも似た声が、僕の喉から漏れた。
「いや、別に、名前で呼んでほしいとか、そういうんじゃないんですよ? 決してそういう訳じゃないんですけど、でも……でも! なんかこう、モヤモヤっとするというか、音姉だけズルいというか、ジェラシーというか……? なんか……なんか――ズルいです!」
僕の方へ身を乗り出して、何時ものように結った髪をユサユサと揺らしながら言う綾瀬さんへ、「ど――努力します」と、僕は何故だか敬語で言ってから苦笑いを作る。
初めは音葉さんと比べて、綾瀬さんは大人しめで接しやすいな――なんて思っていた。しかしまあ、最近ではこの通りである。そりゃあ、こんな可愛い子に懐いてもらえるのは有り難い事ではあるが、僕は先生で、彼女は生徒な訳であって……。
「じゃあ早速、練習してみましょう」
言いながら、綾瀬さんは満面の笑みで此方へ碧の双眸を細めた。
「れ――練習……!? 無理無理、また今度。ね?」
「今度――ですか……? またそんな事言って、芳澄さん、どうせいつまで経っても呼んでくれないじゃないですか!」
再び唇を尖らせる彼女は、続けてぷくっと頬を膨らませた。
よくもまあそんなにまん丸と膨らむもんだな――なんて、よく分からないところへ感心しながらも、とりあえずこの場を誤魔化す為に、僕は車椅子を押して近場の自販機へと歩みを進めた。
「ほら、好きなの一本選んでいいから、今日のところはこれでご勘弁を……」
「むー……」と、不機嫌そうに横目で僕を見つめる彼女だったが、渋々――といったふうに自販機の飲み物へ目を通してから、「じゃあ、オレンジで」と指さす。
言われたとおり、僕はオレンジジュースを二本買って、片方を綾瀬さんへと手渡した。
受け取った彼女は、まず両手で缶を握って感触を確かめた後、次にそれを右手で頬へ押し当てながら、「……はぁ、冷たい――」と気持ちよさそうに漏らす。
そんな時だった、唐突に、綾瀬さんのスマートフォンが通知音を発した。
ハッとした彼女は、オレンジジュースを膝の上へ置いてから、肩掛けのポーチバッグから空色の薄い携帯電話を取り出し、液晶画面へ熱い視線を注ぐ。すると次に、彼女は満開の笑顔になりながら声を上げた。
「か――芳澄さん、やりました……!! コメントです。初めてコメントが付きました!!」
言って此方へ画面を向けながら、車椅子ごと飛び跳ねてしまうんじゃないかという勢いで喜ぶ綾瀬さんを見て、何時だったか、僕にもこんな頃があったな――と、懐かしい気分になったのだった。
「おめでとう」
僕がそう言うと、何時ものキラリと輝く笑顔で「有り難うございます!」と返事をした彼女は、再びスマホへと視線を落とす。そしてコメントの文面を繰り返し何度も往復するようにスワイプしながら、ポニーテールをパタパタと揺らして見せた。
一週間ほど前から、彼女――綾瀬彩華の初作となる小説、“LINNE”のネット投稿が始まった。
掲載サイトはもちろん、誰もが知る大手小説投稿サイトだ。物書きはPV数こそが全てである。人の目に触れてこそ、創作物は本来の輝きを放つ物なのだ。しかし、小説は絵などとは違い、過度に間口を広くとっていなければ、なかなかその内容にまで踏み込んでもらえない。
それ故、物書きは皆、一人でも多くの読者へ物語を届けるために様々な工夫を凝らすのだけれど、その努力が実った瞬間にこそ、他には形容し難い甘美な喜びが待っている。
しかしこんな時にこそ、慎重に、且つ冷静に立ち回るべきだ。僕はそれをちゃんと分かっていながら、それでも、目の前で喜びに浸る彼女に対して、愛の鞭を振るうことが出来なかった。
恐らくこの時点で、僕はちゃんと気付いてあげるべきだったのだ。そうすれば、もっと別の未来が――違った結末が待っていたに違いない。
僕の師であるカノジョは、確かに僕へこう告げた。
――同じ道を通ってる芳澄君が教えてるんだから、過度に身体へ負担がかかるようなやり方は選ばないでしょ?
――芳澄君のを見てる手前、私だって、その子にあんな思いはしてほしくないもの
偏にそれは、”キミが守ってあげるんだよ”という言いつけだったのだけれど、愚かな事に、僕は自らが教える側である事を――守る側であるという自覚を、まだちゃんと持てていなかった。
……いや、違うな。訂正しよう。
同じ道を通ってるからこそ、分かっていても、言えなかったのだ。それがどんなに残酷な事だったとしても、心を鬼にして言わなきゃいけなかった事なのに、僕という奴は――。
「芳澄さん……?」
そんな彼女の声で、僕はハッと我に返った。
「ごめん、ちょっとだけ、考え事してた」
僕は咄嗟に笑顔を作ったが、それを見ていぶかしく思ったのか、「もしかして、疲れてたりしませんか……?」と、心配そうに眉尻を下げる。
「ううん、全然」
「ホントですか? なら、いいんですけど……」
確かにここ数日、ボイスチャットを使って綾瀬さんの執筆に付き合っていた事もあり、若干寝不足ではある。けれど、別にそれは僕が進んでやっている事であって、彼女が無理を言って――という訳では決してない。
付き合っていると言っても、ほとんど会話らしい会話のない静かな通話になりがちだ。
執筆中は、『分からないなりに、キリのいいところまでは一人で書き切る事』という僕の言いつけを守って、彼女から頻回に声をかけられるような事はほとんど無い。その間に、僕は前日綾瀬さんが書いた文章を見返したり、昨今のネット小説事情をリサーチして、次に彼女から声をかけられた時にアドバイスとして届ける――といった流れだ。
文字を書く事を、僕は度々”航海”と形容しがちだ。船は自身の身体であり、地図や羅針盤は物語のプロットである。そして波や、風なんかは、自身の心の動きだ。
これらがしっかりと噛み合ってこそ、終着点――物語の完成へと辿り着ける。しかしながら、筆を執って間もない駆け出し航海師は皆、何をどう見ながらこれらを進めていけばいいのかが分からず、なかなか海へ出る事が出来なくなる者や、そもそも海から離れていってしまう者も少なくない。
綾瀬さんもまた、そんな海の恐怖に苛まれる航海師の一人なのだ。その補佐を務めるのも、僕の大事な役目である。
「今夜も書くでしょ? また付き合うよ」
「いいんですか……? じゃあ、お言葉に甘えて――」
綾瀬さんは幾分申し訳なさそうに頬を緩めてから、「でも、疲れてる時は遠慮無く言ってくださいね?」と念を押す。
「分かった。ちゃんと言うようにする」
「絶対ですよ?」
そんなふうに言いながら、お互いにオレンジジュースのフタをカシュリと空け、汗をかいて出ていった水分を取り戻すようにゴクゴクと喉へ流し込む。
「――ぱぁ、美味しい……」
また何時ものようにそう漏らした彼女は、次にニッコリと僕へ向かって笑顔を向けた。
それから、僕等は並木道をゆっくりと歩いた。
木々の葉っぱについた雨粒へ日光が反射して、僕の目には良い具合にぼかしのかかったキラキラが映り込む。どんなに視界がブレていようが、所々見えていなかろうが、それは僕にとってもちゃんとした美しい光景だ。
学生の頃は、それがどんなに美麗な景色であったとしても、僕にそれを百パーセント味わう事は叶わないんだ――と、大層気を落としたものだった。
今でも、そこまでという訳ではないものの、なかなかに受け入れられない現実というのは存在する。例えば就職難に悩まされている事とか、これからの人生の事、これからの症状の移り変わりが読めない事等々、上げ始めればきりが無い。
しかしそれは、今もメモ帳を片手に辺りの景色へ瞳を輝かせるこの子もまた、同じなのだろう。そう思うと、まるで自分の事であるかのように胸の奥がキュッと痛んだ。でも、僕が何をどう頑張ったって、この子の代わりにはなってあげられない。彼女もまた、僕の代わりにはなれないのと同じように――。
もう、あれから四ヶ月経つ。
僕が初めて芳香を訪れた日の帰り際に、音葉さんから、綾瀬さんの身体についての詳しくを聞かされた。
「さ――三年間……ですか?」
あまりに衝撃的な告白に、僕は声を潜めながら音葉さんへ訊ねた。
「はい。事故に遭ってから三年――正確には、三年と半年近く、あの子は眠ったままだったんです。お医者さんは、”目を覚ました事自体が奇跡だ”――なんておっしゃってました」
本当であれば、喜ぶべき事なのだろう――が、音葉さんは次に俯き加減で目を細めながら、「ただ、身体に残った麻痺が酷くて……」と付け加えて言う。そして、少し間を作ってからこんなふうに続けた。
「一人で立って歩く事は、もう出来ないかもしれません。それどころか、何時体調が悪くなって、また寝たきりになってしまうかも分からない状態なんです。だから、その――」
言い終えた後、音葉さんは次の言葉を探すように僕から目を逸らす。その表情からは、なんとも言えない”やるせなさ”みたいな物が滲み出ていた。
後日、僕が依頼を引き受ける旨を音葉さんへ伝えると、綾瀬さんとよく似た碧眼を涙で滲ませながら、「有難うございます」と、彼女は僕へ深々と頭を下げた。
普段、彼女達の賑やかなやりとりに巻き込まれる度に――何時ももみくちゃにされながらも――、きっとこの子達は、残された時間を懸命に生きようとしてるんだろうな……なんて考えてしまう。そしてその度に、再び胸の奥がほんのりと痛むのだ。
だから僕も、全力でぶつかる事にした。
今、目の前で懸命にメモを取る彼女は、その残された時間を燃やしながら、次の一歩を踏み出そうとしている。決して容易い道のりではないだろう。麻痺の残った手で――指で、気が遠くなるような数の文字達を相手取るのだ。加えて、何時それが出来なくなってしまうかも分からないというのだから、その不安の重さは計り知れない。
それでもこの子は、毎日明るく、元気な笑顔を僕に向けてくれる。本当に――本当に大したお嬢さんだ。
僕は綾瀬さんと初めて会ったあの日と同じようにそう思いながら、ふと視線を落とすと、同じく此方を向いた碧の瞳とばったり目が合った。
今しかない。そう思った僕は、次に言ってやった。
「彩華……さん」
しかし意気込みむなしく、途中で目を逸らしてはしまったけれど、横目でチラリと彼女の表情を確認すると、見開かれた大きな瞳は次にキュッと細められた後、綾瀬さんはクスッと笑った。そして一言、「”さん”じゃなくて、”ちゃん”付けがいいなぁ――なんて」と呟いてから、上目遣いに悪戯っぽい笑みを浮かべる。その表情や仕草はさながら、何処ぞのお転婆カフェ店主とそっくりだった。
「か――勘弁してくれ……」と、細い声で返事をすると、綾瀬さん――改め、彩華ちゃんは、おかしそうにクスクスと笑うのだった。
そうだ、こんなふうに少しずつでいい。一歩前の景色を確認しながらも、しかし着実に進んでいければ、それでいいんだ。
これから始まるんだ。物書きとしての、彼女自身の物語が――。
その日の夜、彩華ちゃんは、近くの大病院へ緊急搬送された。




