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第九話 『物語のイロハ』

 さて、少し歯切れが悪いが、本書の本懐――綾瀬彩華の成長記録へ戻るとしよう。


 このように、先が気になる展開や、その余韻を十分に残しつつ、あえてそれをお預けにする――というのも大事なテクニックだ。

 もちろん、後になってそれら伏線を回収する事になるのだが、あまりにもお預けが過ぎると、そもそも読者が伏線の内容を覚えていない――もしくは、覚えていたとしても、ネタばらしのインパクトが激減してしまう……といった事態にも陥りやすい。


 作者としては、”此処ぞというタイミングで盛大に暴露したい”というのは分かる。しかしながら、勿体ぶりすぎるのもあまり良くない。

 このペース配分は、自身の感覚で掴んでいくしか無いのだけれど、実は一つだけ、”これを守っておけば大きな失敗にはならない”という、確固たる基準が存在する。それが、”物語を本一冊分の文字数へ納める”――というものだ。


 そう、僕は今、現在進行形で文字数という強大な敵と戦っているのだ。



 ここで語るのに、丁度良いエピソードがある。

 五月も末に差し掛かった頃の事、早朝の雨空が放つグレーに染まる寝室で、カノジョがこんなふうに漏らした。


――一日に、千文字が限界……


 僕は「うん」と返事をしてから、マグカップの中で湯気を放つインスタントコーヒーへ口を付けた。


――正直言って、厳しいわね


 僕は再び「……うん」と、幾分重苦しく答える。


――確かに、プロの作家でも、一日に千文字や二千文字しか書けない……なんて方も大勢居るわ。ただ、彼等彼女等はそこも含めて”プロ”なの。芳澄君なら分かるでしょ……?


「もちろん、分かってる。分かってるんだけど……」

 言って、僕は再び珈琲へ唇を浸す。


 束の間の静寂が通り過ぎた。僕もそうだが、カノジョも同じように、言いたい事はあれど、それをゴクリと飲み込んで押し黙っている――といったふうな、やりにくさの滲んだ沈黙だった。

 しかしそれでも、カノジョは次にキッパリと言い放った。


――私は、物書きとして赤子も同然のその子が、そんなペースの執筆速度で、ましてや、あんなに手の込んだ物語を紡げるとは思えないわ


 僕は黙ったまま、珈琲に映る自分の顔をただただ見つめた。それは時折二重に見えたり、僕の視界から消えたりもしたけれど、その情景が、カノジョの言葉へ更に重みを与えていた。


 目が悪いというのは、物書きとしては致命的である。

 当たり前の事だが、執筆するにしろ、推敲するにしろ、必ず目を酷使する。従って、僕の執筆は、何時も目の体力との勝負だ。

 初めは、僕も一日に千文字も書けなかった。書いている間に頭が痛くなったり、視界が霞んで見えたりした。それでも、僕は一日千文字でも書き続けた。書き続ければ、何時か自分の目指す文章に近づける――と、そう信じていたからだ。


 しかし、現実はそう甘くはなかった。

 確かに、ペースを一定に保ちつつ執筆を続ける――というのは大事な事だ。だがそれはあくまで”初歩”であり、最終的にそれらを一本の物語へ昇華させてこそ、その努力は報われるのである。


 その”一本へ紡ぐ作業”こそが推敲作業――書いた文章を見返しながら、綺麗な形へと成形する作業――なのだが、執筆速度が遅ければ遅い程、この工程の難易度が跳ね上がる。

 人間というのは繊細な生き物だ。天気の変化や、朝食の献立、その日の星占い――といった、極々些細な事にさえ影響を受けてしまう。そういった積み重ねが、この推敲の質に大きく表れる。嫌な事があった日はネガティブな表現が増えるし、逆に良いことがあった日は、文章のテンポも軽やかになりがちだ。


 要は、”文体のブレ”に繋がるのである。同時に、物語の設定が複雑である程、毎回のようにそれらをリマインド――再確認する作業――を挟まなくてはならない。

 僕の目がそんな緻密な作業の連続に耐えきれるはずもなく、一時は途方に暮れたものだった。結局、僕の場合は、”とにかく書く速度と精度を上げる”という力業で乗り越えてしまったが、彼女――綾瀬さんには、僕のように何年もかけていられる程の猶予は無い。


――一年、だったわよね?

 重々しい口調で、カノジョは僕へ確認を取った。


「正確には、あと半年近くしか無いんだ。来年の一月までに、”深界の止揚(アウフヘーベン)”を書き上げる事――それが、綾瀬さんの目標らしい」


 僕の言葉の後ろへ、付け加えるようにカノジョの溜め息が鳴った。


――無理……とまでは言わないわ。絵なんかと違って、文筆は理詰めがきくから、短期間でも筆力を磨く事は可能よ。それに、同じ道を通ってる芳澄君が教えてるんだから、過度に身体へ負担がかかるようなやり方は選ばないでしょ?


 僕は頷きながら、「もちろん」とハッキリ答えた。


――今のペースから執筆速度が伸びないと仮定して、本一冊……多く見積もって、十五万字といったところかしら。単純計算で百五十日前後。推敲の時間も含めれば、もう少し余分にかかると思っておいた方がいいわね


 淡々と並ぶLinの言葉へ、しかし僕は「いや――」と割って入る。


「一年っていうタイムリミットには、あんまり拘らないようにしてる。彼女にも、その旨は伝えてあるし、綾瀬さんも、何方かと言えば作品の質を優先したいって」


――……うん。私もそれがいいと思う

 カノジョは小さな声でしみじみと言ってから、その後ろへ『芳澄君のを見てる手前、私だって、その子にあんな思いはしてほしくないもの』と付け加えた。


 僕はそれに、「……うん」と小声で返事をしてから、後へ続けて「ありがとう」と言葉を添えた。カノジョは『ううん』と、想像の向こう側で首を横へ振ってから、僕に笑顔を向けるのだった。




 * * *




 その日の昼頃、何時も通り僕が芳香を訪れた頃には、店内は悪天候にも関わらず沢山の人で賑わっていた。

 焼けたパンの良い匂いを追いかけるように、焦げたバターやお砂糖のもったりとした優しい香りが鼻へと抜ける。それらは暖色の明かりに照らされた木目調の内装と相まって、都会の喧噪から逸脱した安らぎの空間を作り上げていた。


 雨の日は、当然ながら外へ散歩に出る訳にもいかない。従ってこんな日は、店の奥側にある四人掛け席が、僕と綾瀬さんの教室代わりとなる。

 今日は、長期で彼女に取り組んでもらっていた課題の提出日だった。席に着いた僕が、「どう? ちゃんと形になった?」と訊ねると、綾瀬さんは困り眉になりながら、「い――一応……ですけど、何とか」と苦笑いを作る。


 梅雨入り間近というこの時期、蒸し暑い日が続いているせいもあってか、今日の彼女はオフショルダーのトップスから黒のキャミソールのヒモを覗かせるという、如何にも涼しげな服装だ。

 あらわになった右肩からは、何処となく女の子らしさみたいな物が滲み出ていて、それだけでも僕は目のやりばに困ってしまう。『目が悪いから、そういうのはあまり気にならないんじゃないの?』なんて聞かれる事もたまにあるが、よく考えて欲しい。何故スカートはあんなに魅力的に見えるのか。何故水着はあんなに悩ましく輝いて見えるのか。


 見えないからこそ想像するのが人間であり、そこに魅力や色気を感じてしまうのも人間なのだ。これは文章にも通ずるところであり、比喩表現なんかがそれにあたる。直接的な表現をあえて避ける事によって、反って読者の想像をかきたてるといった手法だ。


 しかしながら、これらは”ただ使えば良い”というものでもない。

 物書きである以上、常に意識しなければならないのは、僕達は”読者の想像力をお借りして創作をしている”という考え方だ。こんなふうに言えば、彼等はどういう反応をするだろう……どんな表情をしてくれるだろう……というふうに、文字の向こう側に居る読者の顔が鮮明に描ける者こそが、真に卓越した文章を紡げるのである。

 そういった意味では、二人称という対話形式の表現形態は、ある種的を射た形なのかもしれない。


 ……話を戻そう。


 僕は早速、彼女から受け取ったUSBメモリーを自分のノートパソコンへと差し込んで、中に格納された”LINNE(リンネ)”と銘打たれたテキストファイルを開いた。


 僕が彼女へ出していた課題……それは、”自身の手でイチから物語のプロットを練り上げる”という物だ。

 すぐにでも深界の止揚へ着手したい気持ちは分かる――が、今の綾瀬さんの筆力では、到底二人称などという暴れ馬は乗りこなせない。まずは一人称でそれらしい物語を紡ぐ練習をしてから、改めて本懐へ取りかかるのが無難だ。


 今回彼女が考えたお話は、昨今流行りの――と言っても、少し古くさくはあるのだけれど――”異世界転生モノ”だった。


 現実世界で人間を癒やす役目を担っていたAIが、システムエラーによって昏睡状態に陥ってしまい、目が覚めると異世界へやってきていた――という導入から物語は始まる。

 宝石獣(ジュエラ)という原生生物が闊歩する、現実に似た見てくれの世界――『箱庭』へ転生した主人公の女の子は、現実へ帰る術を模索する過程で、とあるバーのオカマ店主と出会う。そんな彼――彼女……?――の勧めもあり、宝石獣の掃除屋業を営む事となる……というのが、物語の大筋だ。


「宝石獣の掃除屋にはランキングが存在していて、見事一位に輝いた優秀な宝石獣ハンターには、何でも一つ願い事を叶えられる権利が与えられるんです」

 綾瀬さんは目をキラキラと輝かせながら、同時にちょっぴり照れ臭そうにもしつつ僕へ説明した。


 意外としっかり練られた設定の数々に感心しながらも、僕は「なるほど」と漏らしながら、再びプロットを読み進める。


 宝石獣に設けられた、”死ぬと宝石へ変貌する”という設定がなかなかにいい味を出している。宝石は勿論通過として使える上、掃除屋のメインアームとなる”魔法”の触媒にもなるようだ。こういった汎用性の高い設定は、読者へ無限の可能性を提示する。『こんな宝石を使えば、一体どんな魔法が生み出されるんだろう……』といったふうに、妄想を膨らませる読者も出てくる事だろう。バトル物のライトノベルなんかによくある、理想的な設定だ。


 ここまで褒めてしかいないが、このプロットには欠点もある。それに気が付いた僕は、「綾瀬さん」と、彼女の気を引いてから続けて口を開いた。


「これ、各エピソードが何文字くらいになる……とかって、何となく想像出来てる?」


「え――も、文字数……ですか? えぇと、んー……」

 言いながら上の空で思考する彼女は、次に俯き加減で唸ってから、今度は腕組みをしながらユサユサとポニーテールを揺らす。


 僕はこの質問が、とても意地悪である事を自覚した上で彼女へ投げかけた。

 こんなものは、自身の文体がちゃんと確立出来て初めて試算出来る物である。何度も物語を紡いでいるうちに、このくらいのシーンを描くのなら、大体の文字数はこのくらいだろう……といった感覚が備わってくるのだ。むしろ、そんな計画を立てずとも、行き当たりばったりで文字数の帳尻を合わせられてしまう人も中には居るらしいが、不器用な僕からしてみれば、センスのたまものだと言わざるを得ない。


 僕がこんな事を頭の中で考えている間にも、綾瀬さんは困り果てて今にも萎んでしまいそうになりながら、気付けばテーブルへ突っ伏して涙目になっていた。


「ごめんごめん、ちょっと意地悪な質問だったね」

 僕は苦笑いを浮かべながら謝ってから、次にパソコンの画面を彼女へ向けて説明を始めた。


「前にも言った通り、なるだけ本一冊分に納める――っていうのが、面白いお話にするコツなんだ。多すぎてもお話が間延びしちゃうし、短すぎても薄味になっちゃう。それを守る為には、どのエピソードをどのくらい膨らませたいかが大切なんだけど……」


 僕の解説へ真剣な眼差しを送る綾瀬さんへ向けて、今度はスケッチブックを開いた僕は、ボールペンで大きな丸を描き、その中へ、大きさの異なる小さな丸を六つほど描き足した。


「この大きな丸が物語の全体だとして、小さな丸が各エピソード。で、この大きさの違いが、”お話の重要度”だと思ってほしいんだけど――」

 僕がそこまで言うと、綾瀬さんは此方へ視線を向けながら「リソース配分を、プロットの時点で決めてしまう……って事ですか?」と訊ねた。


「そう、大事なお話はそれだけ表現が緻密になるし、文字数だって自然と増えるからね。慣れてない間は、自分の中にある情景を全部伝えようとしちゃって、とんでもない文字数になっちゃう……なんて事もよくあるんだ。だから、此処でちゃんと配分を決めておくのが大切ってわけ」


「なるほど……」

 コクコクと頷きながらそう漏らした綾瀬さんは、すっかり癖付いたメモ書きをしながら、自分のプロットへ今一度目を通す。しかし次には再び眉をハの字にした彼女は、「仮に、入れたいお話が沢山ありすぎて困った……なんて時は、どうすれば……」と、恐る恐る僕へ訊ねた。


「いい質問だね」

 僕は”待ってました”と言わんばかりに、先程書き加えた小さな丸のうち、小さめな丸二つへ罰を付けてから続けた。


「優先順位が低いほうから切り捨てる――が、正解。まずは、絶対に書きたい情景を厳選して、そこから順番に必要な部分を拾い上げていくんだ。もし、絶対に入れたいシーンが幾つもあるんなら、一度プロットの根幹へ立ち返って、自分はこの物語を通して何を伝えたいのかを明確にするのが近道。そうすれば、自ずと大事な部分だけが残るから」


 フンフンと首を縦へ振る彼女へ向かって、僕はこの話の締めくくりとして、「綾瀬さんは、このお話で読者さんに何を伝えたい?」と訊ねてみた。すると彼女は少し考え込んだ後で、一度目を閉じて柔和に微笑を浮かべてから、僕ヘ向かってキラキラと輝く笑顔を作った後で答えたのだ。


「愛情……そう、”愛情”、だと思います」

次回更新予定:6/1(日)PM8:00

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