4. ─ 薄明 ─
『……私。入院してるでしょ』
『ああ』
『……病気なのよ。それも酷いヤツ』
『……酷い、』
『しかも、血の病気。血管が、ダメになる病気だって』
私は、自分の腕をさすりながら、言う。
渡り廊下には何も聞こえない……人の声、些細な物音すら。
リョウは私の方を向かずに、耳だけを傾けている。
『治る見込み、ないヤツだって』
『……』
『全治はもう難しい……そう言われたの』
『……全治』
『今朝にね……隠しても、君の為にならないって。先生に言われちゃった』
私は一方的に喋り続ける。
やっぱり……話した方がよかったのかもしれない、溜まりに溜まっていた感情を、胸の内から一気に吐き出したかったから……だから。
リョウは、私の方は見ずに黙りこくっている。
『……酷くなってるんだって……、私。だから、もう治る見込み、ほとんど、ないんだ、って……』
『……』
『……分かる? だから、どうしようもないの。もう、何したって。何、したって……無駄なのよ……』
私は必死に、目を拳でこすり続ける。
──泣きたい。
本当は泣きたいの。
涙ボロボロ流して。
ワンワン声上げて。
たまらなく、悲しいから。
でも。
今泣いたってムダでしょ?
もう、『死ぬ』ことが決まった私なのに。泣いてどうするのよ。
泣いたって何にもならない。
良くもならない。
何も帰ってこない。
私が今まで失ったものが、帰って来る訳じゃない。
今までだって……こんなことで何度泣いたのよ?
数え切れないくらい、もう何回も何回も何回も何回も…………。
それなのに……泣きたくなるのは何故?
泣いてもムダだって分かってるのに……泣きたい。
どうしようもない。
何でよ。
何でよっ。
何で、なのよぉ……
『……大丈夫』
──意識の外で……そういう声がした。
『……大丈夫。……大丈夫だから』
……私はリョウを見る。
身を前のめりにしてうつむいているリョウは、そのままつぶやくように言う。
『……大丈夫……大丈夫だから』
その言葉を言い聞かすように。
『……な、何が大丈夫なのよっ』
最後に、腕で目尻をグイッと拭って、私。
『……。そんなことで心配してたのか、大丈夫だって! 治る! 必ず!』
一気に顔を上げると、すぐにいつものスマイルを見せて、リョウ。
『……治らないって。さっき言ったでしょ』
『ん、じゃあさ! 何でこんな大病院に入院してるんだ? 治す為だろ』
『それは……そう、だけど』
……私は何も言えない。
──私だって、できれば……そう思いたい。思いたいの。
でも……無理、でしょ……。
こんな、私じゃ。
──私は、黙ってうつむいていることだけしかできなかった。
『……病人じゃないのに、分かったこと言わないでよ』
挙句、私はこう言ってしまう。
あ……と声を詰まらせて、リョウは言葉を途切らせた。
二人、黙り込む。
春の陽射と沈黙ばかりが、耳に背中に痛い。
うなだれてばかり。
うつむいてばかり。
その時、私はリョウ自分が離れて座っている感じがした。すぐ近くなのに……。
『……そうだね』
やがて。
『……分かったようなこと……だったな』
リョウは、ポツリポツリと言葉を口にする。
『……分かったようなこと言って……ごめん』
……私は頭が真っ白になった。
いつもなら……柔らかくでも反論して来るリョウが……。
私がハッと顔を上げると、そこには妙に遣る瀬ない笑顔のリョウがいた。
『……え?』
『……なんだったら。コレ』
そう言うと、リョウはシャツの首をはだけて首にかかっている鎖を引っ張り出してみせる。
『……え』
『コレあげるよ』
リョウはつと近付いて、私の首にその鎖をかけて、金具を留める。
『……コレ』
『俺のお守り』
菱形に、鈍く光るシルエット。絡み合った唐草模様。
それは、あのペンダントだった。
『……コレ』
手の平に菱形を乗せて、私は言う。
リョウが、私と会う時は必ずこのペンダントをしていたことを、私は知っていた。
『悪いこと言った代わり』
ニッ、と笑顔を作ってリョウは言葉を続ける。
『これがあれば……どんな病気も必ず治る! それは俺が保証する』
リョウがドンと胸を叩いて言うのに、私はペンダントとリョウを、代わる代わる見ているだけ。
『……だから。もう何したってムダ、なんて言うなよ。こっちまで気が滅入る』
もう一度。
リョウは、私を励ますような確かな笑顔を私に向けてくれた。
……こんなこと……言われたの、初めて……。
『あ……りが、とう……』
……そんなリョウの笑顔を、私は直視なんてできるはずがない。
うつむいて、手が痛くなるまでペンダントを握り締めて、やっと……その一言を、言った。
胸、心臓の辺りが、トクントクンと音を立てて温かくなる。それと同じ温かさが、自分の手の中にある、このペンダントからも感じる気がした。
そして、リョウの笑顔からも。
背中の陽射は、いつの間にか痛みを消して、ほのぼのとした春の陽射に変わっていた。
止まっていた時が、静かに動き出していた。
──それから……リョウが消えたのはそれからすぐ後だった。
けれども……。
あの時、私には確かに、『笑っていた』覚えがある。
たとえ弱々しくても、確かに、確かに。
……それを虚ろに思い出しながら、私は今ここにいる。
周りでは……何となく、闇がざわついているような感じがする。
私がいる、このアカシアの木の下を中心にして、闇が揺らぎ始めた気がする。陽炎のように。
雨は、今までにない激しさで地面を叩いている。
私は、その中でベンチにぼやけた意識を抱えて座り込んでいた。ベンチに身を預け、闇の空を見上げて。
どうしてこんなにもリョウとのことが浮かんで来たんだろう。
私にはそれが不思議でならない。
今まで死のう死のうと思っていた人間が……こうまでなくしたはずの面影に浸っている……それがもう、信じられなくなっていた。
リョウとのことは……もう、どこか彼方に置いて来たはず、なのに。
何……で、まだ、私の胸の中に……あるの?
雨は、もはや滝のようになっている。
轟きを増すばかりで……その雨のせいで、周りは薄ら白くもある。
でも。
リョウの言ったことが、今はどうしても正しくしか思えない。
思い起こせば、私はただ、自分の不幸を嘆き続けていたに過ぎない。
振り返ればよく分かる……前の私は、自分の不幸にかこつけて心の中の闇に引き籠もっていた。
『外の世界』……自分の感情に囚われた狭い世界に生きて、そこから外に足を踏み出そうと……いや、そこを見て見ようともしなかった。
……丁度、今揺らぎつつあるこの闇の世界のような。あるいは、私が数年来ずっと、自ら閉じ籠っていたあの病室のような、闇の中に。
『希望』というものを、信じようともせずに。
……あれ、私、何考えてるの……?
今の状態、理解して納得したはずなのに。
今、まさに死のうとしてるのよ? 私。幽体離脱、なんてしてるのよ……?
私は思い切り頭を振って、自分の両手を見詰めた。
……何か、分かんない。分かんないよ、私。
私、どうしちゃったんだろう……。
私はますます頭を振る。何度も何度も。
それでも何故か、自分が自分じゃないような感覚──自分が自分を裏切っている、騙しているような感覚が脳裏に付き纏っている。
何もかもが……頭を、離れて行かない。
どうして……?
私は死ぬのよ? 死にかけなのよ!?
お願いだから……こんな苦しいのはイヤだから……。
お願いだから……死なせてよぉ……。
……と。
頭を振っている内に、気付く。
目の前にある手が……透けて見える……?
そうじゃない。
周りが明るくなっている……、そのせいで…………。
私は、急かされたように辺りを見渡す。
私を外界から隔絶していたはずの闇はいつの間にか元の形をとどめないくらい、崩れて消えて行っていた。
朝日を前にした悪魔のように……暗闇は微細な霧と化して、空に溶け込んで行く。
その間から見えて来たのは……夜闇と朝空が混じり合った、彼は誰時の薄い蒼の景色。
アカシアと、私の周りから闇が遠ざかって行くと共に、その彼方から……清冽とした暁の風も流れて来る。
……私はガタリと立ち上がる。
立ち上がったものの、足に骨がないようになっていて、すぐ力なく目の前の地面に倒れ伏す。
……何よ?
私の望みなんて、最後の最後まで叶わないじゃないのよ……?
神様……貴方って、どれだけ私に意地悪したら気が済むの……?
私……は、死にたいって……思ってるのよ……?
そうしていると。
『……風……?』
後ろから、冷たい風が吹いて来る。私の身を洗うような、冷たい風が。
引付けでも起こしたように、震えて振り向く。
そしてそこには……あの、アカシアの木が私を見下ろしている。
顕になった公園の木立を背に……降りしきる雨の中で佇んでいるアカシアは、闇の中でよりも、確かな存在感と優しさを持って私の目の前に立っていた。
……私を優しく、それでかつ真っ直ぐに見詰めるように。
豊かな枝葉が蒼の空へ向かって伸びて、私の視界にアカシアは何よりも大きく映っていた。
白い花房は、まるで微笑みかけるかのように微かに揺れてはさざめいている。
いよいよ激しさばかりで、存在をなくしかけている白い雨の中……私は、最後の記憶を思い起こす。
『……リョウが好きだって言ってた…………アカシア……』
……今はもう、遠い昔になってしまったあの頃……リョウが言っていた言葉。
『俺が一番好きな花は、アカシア。どんな花よりも好きなんだ……』
屈託のないスマイルを向けながら、私にそう言ってくれた。私は……確かに覚えていた。
あれ程優しく接してくれて。
あれ程明るく笑いかけてくれて。
あれ程懸命に慰めてくれて。
あれ程……そばにいてくれて。
私の中で、もうリョウは忘れられない存在になっていた。
私は、リョウのことが好きだったんだ。
今、初めて私は……自分の胸の中にあった思いに気付いた。
『……あれ……、何……コレ……』
僅かになった意識の果てに、私は頬を伝う熱い"何か"を感じる。
『……ナミ……ダ?』
……止めようにも止まらない。
熱く、目から流れ出すそれは、夜に冷えきった私の頬を、温かく洗う。
そして、視界に黄金色の光だけを残して、霞ませて行く……。
『幽……霊なのに……。何で、出る、の……私、は、死ぬはず……じゃ…………』
──最期、視界の隅にあのペンダントが一際強い光を放ったのを見て……私の意識を途切れた。
──私が目覚めた時……もう、周りは既に朝になっていた。
私は、全身の痺れに意識が霞んだまま、ベンチに横になっている。
でも、視界は……心なしか前よりハッキリしていた。
背もたれの板の隙間からか……流れるような、涼しい空気が私のカラダを撫でて過ぎて行く。
感覚は、しっかりとあった。
──悪夢を見ていた──
そういう心地だった……私は、その時。
とにもかくにも、何を思うでもなく体を起こす。
夜中の雨に濡れ切った体は、仕着せから何からが重い。
しっとりと湿って、板に張り付いたような体をようやく剥がして行く。
一晩中雨ざらしになっていた体は、震えが止まらない。
けれども、それもその時は、『生きている』感覚として、この身に染み渡っている。
首元の辺りで、チャラリと鎖の音がする。
リョウのペンダント。それが私の首元に煌めいていた。
そこには……確かに、朝が来ていた。全身でそれが感じられる。この身で分かる。
そして。
顔を上げた先には、遠く朝靄に煙る町並みの向こうに……新しく昇った今日の朝日がある。
「…………死にたくないよぉ……」
……朝日が目に染みたのか。
私の目からは、知らず知らずに大粒の涙がこぼれ落ちていた。




