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2. ─ 杳溟 ─



   『リョウ』



あの人はそんな名前だったな、なんて、虚ろな頭に思い返してみる。

このペンダントと一緒に、ひと時の想い出をくれた人。




……確か、このペンダントの裏にイニシャルが彫ってあったはず。

銀色のダイヤを見詰めている程に、『R.H』と細く彫り込まれた二文字が瞼の裏に浮かんで来るようだった。




『花が好きなんだね』


──中庭の花壇を見ていた私に、そうリョウは声をかけて来た。




そう、確かその日も雨だった。

病室で寝ているのに飽きて、一階の渡り廊下まで出て来ていた……それで、壁際の長椅子に座って窓から花壇を眺めていた。覚えている。




唯一の心の慰めだった花壇の花が、雨にしおれているのを見ていた。そんな所にふらりとやって来たのがリョウだった。




元からの騒々しい雨音と、心の拠り所だった花達が元気をなくしてしまっていたことで、気分が塞がっていた私はリョウに視線すら向けはしない。

ただ、憂鬱を顔ににじませて外を見ているだけ。




そんな私をどう思ったのか、しばらく経った頃、


『あがればいいね、雨』


と、静かな調子でつぶやいた。

その言葉にハッとした私が振り向いた時には、空の廊下に人影はなくなっていた。




──それが初めて会った時のこと。

それから、私が病室の外に出る度、ちょくちょくリョウとは鉢合せた。




ほぼあの渡り廊下──私の病室がある第一病棟と隣りの第二病棟をつなぐ廊下、そこが会う場所だった。




最初は、それこそ私は相手にしない。

いつも普段着でいたから、入院患者ではなかったのは確かだったけど、よくふらりとやって来ては一言二言、私に声をかけて行った。




それでもそんな言葉すら、病室に引き籠もってばかりで僻み切っていた私にとっては背中にチクリと痛い。




病気の一つもしていない人になんか言われたくないわ。




それで私はいつも、くだんの長椅子で黙ってじっとしている。




なのに、リョウは一言かけるのをやめなかった。

しつこい感じはなかったけれど、まるで私の背中は針の山。涙だって何度出て来そうになったか分からない。




『ほっといてよ……』

ある日、私は耐え兼ねてこうつぶやいた。




そうすると、リョウはどう感じたのか。

『……。分かった』

穏やかな、優しい調子でそう言う。

すねていた私がしばらく黙ってからそっと振り返ると、最初に会った時と同じようにいなくなっていた。




しばらくは……せいせいした、そう思えていた。

元の通り病室の中で、変化のない毎日を送って行く。それでいいじゃない。




そうして何日も過ぎて、やがて春が近付いて。

病室の窓に見続けて、何度目の春かは忘れたけれど。殺風景な中庭の景色も華やかになって望める春。




そんな景色を見ていると……私はどうしてか、つまらなくてたまらなかった。元々つまらない毎日だったけど。




何でだろう……こんなに胸の中が空っぽに感じたことなんて、ない。




サァッとカラダの中を風が吹き抜けて行くようで、理由の分からない悲しさが全身に渦巻くようで。




……気付いた時、私はあの渡り廊下にいた。

リョウがいなくなってから数日経った後のこと。




私は、暗い病室からどうやって抜け出して来たのか分からなかった。

ただ、胸の内の空虚さを埋めたくて、あるものが見たくなっていた。




……そこにはリョウの後ろ姿。




白いシャツに紺のジーンズ。

前と変わらぬなりで、リョウは長椅子に腰掛けて外を眺めていた。




私は、それを睨んだまま突っ立っている。

一度、私自分から突き放した相手なのに、振り向いてくれる訳は……ない。




でも……と唇を噛んでいると、


『来てくれたんだ』


いつの間にか、私の方を向いているリョウ。

その顔には、ホッとしたような柔らかい笑顔が浮かんでいた。




細面の痩せ型だけど、険がなくて、見ると落ち着く……思わず、兄さん、とでも言ってしまいそうな年上の雰囲気を持った。それでいて、私を包み込むような優しさを持った顔。




それが私は見たかった。






『…………うん』

まさか、こんな私にも振り向いてくれるなんて……思ってもみない。

それが意味もなく嬉しくて、私は口元をほころばせて返事をした。




思い返してみると……笑ったことなんて、入院してからずっと、なかったと思う。




それからというものの、私は少し明るくなっていた気がする。




リョウとはそうして知り合いになって、よく会ってはとりとめもなくお喋りをしていた。病気のことには触れなかったけど。




好きなテレビ番組や歌。好物の話とか、よく読んだ本の話とか。ホントにどうでもいい話題だったけど、リョウは嬉しそうで、事実私もいつもの生活をしているよりは幾倍もよかった。




特に、お互いに花が好きなこと。

これには驚いた。リョウも私に会うまではよく中庭の花壇を眺めていたという。


『男なのに、ってな。よく周りのみんなから女々しいって言われるんだよ』


って、赤くなりながら言っていたのを今でも私は思い出せる。




私は、いつもの日々に戻るくらいなら……と、リョウとのお喋りの時間を楽しんでいた。

こんな日が、もっと続けばいいな、と。このひと時だけは、私は病魔に冒されていることなど、忘れられていた。







なのに。







ある日唐突に、リョウは私の目の前から消えた。




何の前触れも、何の言葉もあるじゃなく、突然にいなくなってしまった。




『私に何も言わずに?』




最初、リョウがいつもの場所に来ていなかった時は、どうせ学校か何かよね、リョウにはリョウの生活があるんだから……なんて常套句を自分に言い聞かせていた。




それが。

一日、二日、三日、四日……一週間と、リョウの姿が見えなくなって私は、脳裏にあるリョウの姿がどんどん歪んで行く気がした。




いや、本当に歪んでいたんだと思う。

看護婦さん達にリョウのことを尋ねたって、入院患者さんのことじゃないから分からないわと一様に返されて、手紙も電話も、もちろん面会も何の連絡もなくなってしまって。

私は、空になった長椅子を眺めながら……それまでのリョウとの時間で胸に満ちていたものが、ザァーッと音を立ててどんどん抜けてしまうのを感じていた。




……それは、どんな病気よりも酷い痛みを私に味わわせた。







『どうして会ってくれないの?』


『私のことはもうどうでもよくなったの?』


『私との時間なんてそんなにどうでもいいものだったの?』


『私と会うことなんて……そんなものだったの?』


『私のこと、なんて……もう忘れたの?』







──その痛みに私は耐えられず、もう狂ったようになってしまって……今こうしてここにいる。




毎日、そんな人と会っては無駄な話を続けていたこと。

そしてそんな人が心の中で大きな存在になっていたこと。




それを悔やみ恨み悲しみ続けた挙句の状態がこれだった。







私……、莫迦みたい。

ホント、私って莫迦。







出る涙も枯れ果ててしまった私は、どうするでもなくベンチに深く背を預けた。




力も何もかも抜けてしまったように……そう、一層『死ぬ』ことが目の前にはっきり見えて来ていた。




そんな時──



もう……何もかも忘れて眠りに就こうかと目を閉じた私に、ひと吹きの風が流れて来た。




何故か……その風は私を揺り起こすように、頬を、背中を撫でて行くようで……。

雨の夜更けなのに、湿っぽくないサラリとした風だった。




音もなく。

それこそ、気のせいと思えるくらい、微かに、微かに。




……遅れ髪の辺りがこそばゆくなって、私はふと振り返る。

そこには、黯澹とした蒼黒の闇の中で、自ら光を発するように立っている一本の木がある……。







「……アカシア……」



私は覚えず、そうつぶやいた。




風に気付かされて虚ろに見上げる先には、私を見下ろすようにベンチの後ろに立つ、アカシアの木があった。




雨夜の闇の中……唯一ハッキリと見える存在はその木だけだった。

五メートル程はあるだろうか。それは、闇の底でそっと息づくように、静かな葉ずれの音のみをさせて夜に立っている。




塔のようなその樹形は十分に茂った若葉で形作られていて、新樹と言うのが似合っていた。




堂々としていながら、私を包み込むようにどこか穏やかで……私は口を半開きにしたままで吸い込まれるようにその木を見上げていた。




そのさんざめく若葉の間々には、白い花房達が花びらをいっぱいに張って揺れている。

まるでハンドベルでも鳴らしているかのように、さわわさわわと風に吹かれていて……その度に独特の甘いにおいが私の顔の辺りをよぎる。




ベンチの背もたれに掴まって木を見詰めていた私は、その甘い風に吹かれて──そっと。目を閉じる。







──アカシア。アナタも、独りなんでしょう?


こんな冷たい闇の中に。たった独りで立っているんだものね……、私も一緒。


寂しいのよ。寂しい。


独りで寂しいのよ……私は。


アナタもきっとそうなのよね……アカシア──







私はそういう、祈りのような、独言のようなことを、胸の内でそっと口にする。




『人はヒトリじゃ生きて行けない』

なんていうのはよく言ったもの。

本当にそうなんだもの。




独り取り残される、っていうのはどんなに辛くて苦しくて哀しいことなのか。

『生きて行けない』くらい、なんだものね。




──私は目を閉じたままでいる。




そうすると、次々に瞼の裏に、私の半生が幻のように甦って来る。




幼稚園……小学生……中学生の頃。

あの頃は楽しかったなぁ……周りには、いつも友達やお母さんお父さんの笑顔がある。




そして何より、毎日が楽しくてしょうがなかった。

辛いこともあったけど、それを乗り越えて行けるだけの糧があった。




それが……高校に上がる頃。

私は突然家で倒れた。

そしてそのまま世界が暗転して、気付いた時にはあの病室にいた。




ほとんど生き地獄と言ってもいい──訳も分からぬままに、日々病魔に蝕まれる痛み苦しみ、私から徐々に人の姿が遠のいて消えて行く……淋しさ、疎外感。

それらが津波のように一遍に押し寄せて……後に残ったのはボロボロの廃墟。




そう、ボロボロでまるで打ち棄てられた廃墟のようなこの私。

最後には……どことも知れない公園の、みすぼらしいベンチの上で、雨の降りしきる中冷たくなって行く私。




──私は静かに目を開ける。




神様。

貴方が私に用意した人生というのはこういうものだったのですね。




何の意味があるんですか。

たかが十数年。

そして結末がこれ……。




私は、貴方にすら見捨てられているのですか。




雨の音が勢いを増す。

そしてそのあまり、雨の音以外は無音───この世から消え去って行く。そして私はその中に取り残される……

















第二部、かように終わりました。いかがでしょう、皆様方。

暗い話だったでしょうか? いえ、そうではなかったでしょうか?

まァそれは、皆様方次第で。


ところでこの各章のサブタイトルですが。あまり意味はありません。意味を知りたい人は、漢字字典でも引いて下されば……。果して難解な語ゆえ、載っていますかどうか……。あしからず。

なお、冒頭にも言ったファンフィクションの説明は第五部後書きにて、になります。

えぇ、そこまでどうか、お付き合い下さいまし……。

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