89 わたくしは、なんて馬鹿なんでしょう……
祀莉は焦った。
まさか今日がバレンタインの前日だったなんて……。
今年のチョコが用意されていないことを要はまだ知らない。
(わたくしにとっては今年も用意していないんですけど……)
母親が祀莉の知らぬところで要宛に送っていたチョコレート。
礼儀として大切なことだと考えてのことだろうが、そのせいで現在窮地に陥っている。
このまま黙っていれば、何ごともなく今日を平和に終えることができるだろう。
……問題は明日だ。
どうせ明日になれば分かってしまう。
チョコレートどころか、何も用意されていないことが。
(バレる前に正直に言って謝ってしまった方がまだマシ……ですよね)
後で知られてた方がもっと事態が悪化するのではないかと、祀莉の中で警鐘が鳴っている。
時間が経てば経つほど言い出しにくくなるのも確かだ。
言うなら今だ!と決心を固めて要と向き合った。
「あの、か、要!」
「なんだ?」
「チョコのこと……なん、ですが……」
「ん?」
「あ……」
真剣に顔を見て謝ろうと思ったのが間違いだった。
機嫌良く祀莉を見下ろす表情に、本当のことを言うのが憚られる。
期待を裏切る申し訳なさと怒られるであろうこの先を想像して、じわりと汗がにじみ出てきた。
「あ、えっあの、ど〜〜〜〜〜〜〜しても欲しいですか?」
要の足元に置かれている自分の鞄が目に入って、思わず言ってしまった。
小説と漫画が入っているが、今の状況から考えて重要なのはそっちではない。
「それは……まぁ」
肯定する要の言葉を聞いて、鞄を自分の方へと引き寄せる。
楽しみにしていた小説……ではなく、目的のもの──桜のチョコをを取り出した。
教科書や小説でいっぱいの中に詰め込んでしまったので、形が崩れていないか心配だったが、どうやらセーフのようだった。
上手く隙間に入り込んでくれていた。
「それは……」
「桜さんにいただいたチョコです。よろしければ──」
「──いらん」
要は祀莉の言葉を遮るように拒否した。
受け取る体勢に入っていた手を体の前で組み直し、チョコから視線を外した。
「欲しくないのですか? チョコですよ? 手作りですよ?」
「……お前も一緒に作ったってやつか?」
「いえ、わたくしが手伝ったのはクッキーのデコレーションで、これは完全に桜さんの手作りです!」
「いらん」
自信満々に答えた祀莉に、要はもう一度同じ言葉を吐いた。
チョコがほしいならこれで手を打ってもらおうと思ったが……やはりダメだった。
だからと言って「自分が作った」とか「手伝いました」といった嘘をつくのは気が引ける。
「まさか……俺がただチョコを欲しいだけと思っているわけじゃないだろうな?」
「……えっ、そ、そうですよね……」
以前の祀莉なら「桜さんから直接、愛情のこもったチョコが欲しいということですね!」と曲解していただろう。
しかし今の祀莉には要の言いたいことが理解できた。
その訴えは視線となって自分に降り注がれている。
あまりに熱心に見つめてくるので、祀莉は耐えられず下を向いた。
目に入ってきたのは行き場のなくなった桜の手作りチョコ。
(わたくしのチョコが良いってことですよね? でも……桜さんのことは?)
桜が積極的に接してきたことによって、何かしらの変化があってもおかしくはない。
一か八か、祀莉は要に尋ねてみることにした。
「要。桜さんに会って何か感じることはありませんでしたか……?」
「何かって?」
「…………好きだなぁ……とか」
「まだ言ってるのか?」
「ぅ……」
ギロリと睨みつけられた祀莉は身をすくめた。
こうなるとは分かっていたが、訊かずにはいられなかった。
(だって……桜さんが自分の気持ちを自覚したんですから、要もきっと……)
桜と要が幸せに微笑んでいる姿を想像して、ちくりと胸のあたりに小さな痛みを感じた。
トキメキなど微塵も感じない。
それどころか、感じたことのない別の感情が這い上がってくる。
(え? 待って下さい。そんなはず、ありません……っ)
湧き出る感情を誤摩化すように胸に手をあてると、硬い感触があたった。
──要に贈られた婚約指輪。
毎日欠かさず身につけているそれを、服の上からそっと指で撫でた。
「祀莉」
「は、はは、はいっ!」
「俺が好きなのはお前だって、何度も言ってるよな?」
「ぁ……う……っ」
ストレートに告げられて祀莉は顔を赤くした。
何も言えずに視線をさまよわせていると、頬に要の手が触れた。
「すすす、すみません! あああ、あの……か、かな──ん……っ」
頬をつねられる。
そう思って身を固くして目を閉じると、唇に柔らかい感触が押し当てられた。
驚いて体を引こうとするが、背中に回る要の腕に邪魔されて身動きが取れない。
「……、ん……っ」
離れてはまた重なる唇。
優しく、何度も触れられるたびに心臓の音が大きく響いた。
抵抗しなくてはと要の胸に手を当てるが、それ以上は何もできなかった。
体が熱い。
息苦しさに顔を歪めると、唇から温もりが消えた。
視界を覆っていた影が薄くなっていく。
離れていく唇が名残惜しいとすら感じてしまった。
(だめ……だめ、です)
どれだけ否定しても、胸の中に広がる想いは止められない。
本当は心のどこかで気づいてた。
少しずつ……ほんの少しずつ積み重なっていく想いを、無意識のうちに心の奥底に隠していた。
(わたくしは、なんて馬鹿なんでしょう……)
一度溢れてしまえば、どんなに願っても押し戻すことはできない。
ここは小説の世界。
決められた運命には絶対に逆らえない。
祀莉が要を好きになったところで、物語はあるべき姿へと修正する。
たとえ要が祀莉を好きだと言っていても、そう近くないうちにその心は桜を求めるだろう。
(だから、余計に……)
くすぶる気持ちを押し殺して顔を上げると、要と目が合いドキッとした。
無言で見下ろす要の表情は困惑しているように見えた。
(ようやく気づいたのでしょうか……)
祀莉が自覚したのと同じように、要も自分の感情に何かおかしいと感じ取った?
触れていた手が離れていく。
その動作に、ますます胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
とっさに下を向いて泣きそうになるのをぐっと堪えた。
両者とも何も言わないまま。
その沈黙を破るように、玄関の扉が開く音がした。
「まぁ……もしかして、祀莉お嬢様がいらっしゃってますの?」
声の主はここに住む要の身の回りの世話をしてくれている春江だった。
玄関にある祀莉の靴に気づいて嬉しそうな声を出した。
「は、はいっ、お邪魔してます!」
祀莉は反射的に返事をして、ソファーから立ち上がった。
春江を出迎えるためリビングを出る。
その際にちらりと要へ視線を送った。
要は力が抜けたようにソファーに体を預けて座っていた。
祀莉がいた場所からでは、どんな表情をしているのか分からなかった。