88 バレンタイン……でしたね
要はソファーに座る祀莉の前に膝をついて肩を掴んだ。
険しい表情で顔を覗き込まれて、一体これは何事かと頭の中が真っ白になった。
「ショッピングモールで何があった?」
「え!?」
「どこを触られたんだ? 変なことはされてないだろうな?」
「へ……っ!? あ、あの……」
肩をつかんでいた要の手は腕を伝って指先まで滑るように下りていった。
それで終わると思ったが、今度はお腹に手が伸びる。
「何を……ちょ、ふふっ、く、くすぐったいですってばぁっ」
要はからかっている訳でもなく、真剣な表情で腹部に触れている。
軽く指で押す程度の力だが、それがまたくすぐったい。
手が側面へと移動する我慢できなくなって身を捩った。
「ストップ! ストップです!! あのっ、だ、大丈夫ですから……っ」
抵抗しても触れる手を止めない要の手首を掴んでやめるよう訴えた。
「……本当か? 痛むところとかは……」
「ありま、せん……っ」
くすぐったさに息が上がり、途切れ途切れにしか答えられない。
ふぅ……と息を吐いて、呼吸を整えた。
要は手を止てくれたが納得のいかない顔をしている。
「男に連れ去られそうになってたって、鈴原が……」
「いえ、そこまで深刻な状況では……」
まるで祀莉が何者かに誘拐されそうになっていたかのような言い方だ。
強いて言えば肩を抱かれたくらいで、痛みが生じるほどではない。
「百貨店で良かったじゃないか? なんでわざわざショッピングモールなんかに……」
「だって百貨店の本屋は品揃えがあまり……」
「は……? 本屋……だと?」
「え?」
何かまずいことでも言っただろうかと不安が過った。
そもそも百貨店という言葉が出てくること自体がおかしい。
なぜ、そんなにも百貨店にこだわるのか理解できなかった。
「本屋……」
要は何かを察したようで、目を細めて祀莉を見た。
「……祀莉。お前、今日は何をしに先に帰ったんだ……?」
「何をしにって……小説の発売日だったので……」
「…………それだけか?」
「それだけです」
ためらいがちな問いに正直に答えると、要の顔がどんどん引きつっていく。
それを見た祀莉は不思議そうにパチパチと瞬きを繰り返した。
「え? えぇ?? それ以外に何を……」
「普通にチョコを買いにいくと思うだろう!!」
要が覆い被さるようにソファーの背もたれに両手をついて押し迫ってきた。
「はいっ!? あの、ち、近……え? ……チョコ?」
チョコ……チョコレート……。
ショッピングモール内に広がる甘い匂いを思い出した。
ピンクやハートマークの飾り付けがメインの内装だったし、本屋の手作り特集コーナーにもチョコの表紙が多かったような気が……。
「……」
もう答えは出ているのだが、最後の確認として壁にかかっているカレンダーを見た。
今日の日付は2月13日。
「そ、そういえば、バレンタインって2月の14日でしたね……」
「…………お前……まさか……」
「お察しの通り、その………………忘れてました」
意を決して告げると、要の表情は絶望で彩られていた。
“バレンタイン”というイベントはもちろん、知っている。
ただ、関心がなかった。
誰かにチョコをあげた記憶と言えば、父親と弟。
小さい頃は母と一緒に使用人にも配っていたような……。
(あ……っ!)
ほとんど忘れかけていたが、小学校の時に母親に持たされたチョコを要に渡していた記憶がふと蘇った。
中学に上がってからは、母親と一緒に父親と才雅にあげるチョコを選んでそれでおしまい。
祀莉の通っていた女子中学校は校則が厳しかったので、バレンタインなんて気配は全くなかった。
そのせいか、高校生になった今でもバレンタインというイベントに疎いままだった。
近頃、クラスの女子生徒が「高級なものが良い」やら、「手作りの方が愛情が……」などと議論を交わしていた。
好きな子の誕生日にプレゼントでもするのかと聞き流していたが、今思えばバレンタインのチョコの話題だったのだ。
話が耳に入ってくる男子生徒は、普段通りに見えてどこかそわそわしていた。
学園内はバレンタインの会話が多く飛び交っているのにも関わらず、祀莉はいつものごとく自分の世界の中で周囲の様子に気がついていなかった。
諒華との会話でも特に話題にもならず、要も口にすることはなかった。
なのに今更……。
「……どうしてチョコを買いにいくと思ったんですか? 小学校を卒業してからは渡してなかったじゃないですか」
なぜ、いきなりそんな期待を?と首を傾げる。
「はぁ? なに言ってんだ。去年も送ってきただろうが。なんだったけな……確か、黄色いダイヤがロゴマークの……、なんていう名前かは忘れたが、そこそこ有名な店のチョコだったと思うぞ」
「去年……? 黄色いダイヤのロゴ……? ……あ!」
心当たりがあった。
毎年バレンタインが近づくと、母親が「どのチョコが良いと思う?」と楽しそうにカタログを見せてくるのだ。
その中に、要の言う黄色いダイヤのロゴマークが目印の、高級チョコレートのお店があった。
そして“これはどうですか?”とそのチョコレートを提案した記憶がある。
祀莉はてっきり父親に送るチョコを選んでくれと言ってるものだと思っていた。
現にそのチョコレートは父親に送られていたので、祀莉が勘違いしていたということではない。
(要が同じチョコを受け取っているということは……)
考えられることは一つ。
同じものを母親が勝手に祀莉名義で要に送っていた……ということだろう。
(お母さま……!!)
まさかそんなことをしていたとは!
中学校に上がって1年目のバレンタインの時、「要君にはあげないの?」と言われことがあった。
当時、要の話題が出ることも嫌だった祀莉は「必要ありませんから」と素っ気なく答えた。
なのに、なぜ……?
とりあえず、そのチョコは自分の意志で送ったものではないと伝えなくては。
「あの、それはお母さまが勝手に要宛に送っていただけで……」
「じゃあ、あれは小母さまが俺のために選んだって訳か?」
「いえ……わたくしが選びました」
──父親のために、という言葉は飲み込んだ。
あまりにも要の顔が恐いので、それは言わない方が良いと本能が告げている。
「……そうか、お前が選んだのか」
その判断は間違っていなかったらしく、要の態度が少し和らいだ。
押し迫っていた身を離し、祀莉が座るソファーの隣に腰を下ろした。
「ということは、今年も送られてくるのか……。まぁ、それならいいか」
「……」
今年は母親からは何も言ってこなかった。
旅行から帰って色々忙しくしていたので、チョコを選ぶ暇がなかったのかもしれない。
だから祀莉もバレンタインを忘れていたわけなのだが。
……つまり、今年のチョコは用意されていない。
父親や才雅の分も。
要の分も。
(あ……だから運転手は放課後、寄り道することに何も言わなかったんですね)
行き先に百貨店を進めていたのも、祀莉がバレンタインのチョコを自分で調達するためだと思い込んでいたからだ。
父親に内緒にしてほしいと頼んだ時、あっさり了承してくれたのも同じ理由だろう。
そして──要があっさり祀莉の下校を見送ったのも同様。
そんなこととも知らず、るんるんと漫画を漁っていたことに少し罪悪感を覚えた。
それに……
(な、なんか……すごく期待しているみたいですし、どうしましょう……っ)




