その後のこと 4
今度こそピンチだ……!と焦りを感じた時、玄関の扉が開く音がした。
チャイムもなしに入ってくるのは春江くらいだ。
夕食の後、「少し失礼します」と言って自宅へ帰っていったので、用事を終えて戻ってきたのだろう。
そんなことよりも……
「か、かか、要!」
離れてほしいという意味を含めて小声で名前を呼ぶ。
この状態を見られるのは避けたい。
渾身の力で要の胸を押し返すと近かった体はすんなりと離れた。
(あぁ、もう……色んな意味で心臓に悪いです!!)
祀莉が素早く体を起こして行儀よくソファーに座り直したタイミングで、春江がリビングに入ってきた。
「失礼します。要様、こちら西園寺家の方が届けて下さっていたのをお預かりしてました」
手には深緑色の箱に黄色いリボンがついている箱を持っている。
見覚えがあるその箱を要に差し出した。
それは朝に母親が届けておくと言っていたチョコレートだった。
「祀莉お嬢様、お電話は終わりましたか?」
「はい。すみません、長い時間話し込んでしまって……。えーっと、そろそろ……」
そろそろ帰らなくては……と返、春江の後ろにある時計を見た。
車の手配をしてもらって帰る準備を……と考えていると、春江に手を引かれてソファーから立ち上がるように促された。
「そうですね! お風呂に入る支度をしませんと」
「はい?」
「着替えは用意しておきますので、祀莉様はどうぞゆっくり入浴なさって下さいね」
「あの……」
「そうそう。明日の朝は洋食と和食のどちらがよろしいですか?」
「え? え……っ?」
春江の中では祀莉のお泊まりは決定事項だった。
話は明日の朝食にまで発展し、あれよあれよという間に祀莉は背中を押されて浴室へと誘導されてしまった。
帰りますとは言い出せずにもたもたしていると、「早く入ってしまいませんと、寝る時間が遅くなりますよ」と急かされた。
春江の親切に祀莉はどうも弱い。
祀莉が何かを言う前にてきぱきと行動してしまうので、準備が整ってしまうと断れなくなってしまうのだ。
帰ったら帰ったで母親に「けんかでもしたの?」と変に誤解されてしまいそうなので、今日はここに泊まらせてもらうことにした。
入浴を済ませてリビングに戻ると、要はソファーで寛ぎながらテレビを見ていた。
ドラマとかバラエティーではなく時事関係の番組だった。
経済的な内容についてコメンテーターがそれぞでの意見を言い合っている。
祀莉は要の隣に腰掛けた。
(あ……)
目の前のローテーブルには包装が解かれたチョコの箱が置いてあった。
銀紙に包まれたチョコが並んでいる。
要が食べたのか、すでに2つなくなっていた。
しばらく箱の中身を見つめた後、要へと問いかける。
「要、要。わたくしも食べて良いですか?」
「んー……」
テレビから目を離さずに曖昧な返事をする要。
絶対に生返事だ。
真剣なところを邪魔するのは悪い……が、チョコが気になる。
祀莉は悪戯をする子供のようにそーっと手を伸ばして、箱の中身のひとつを手に取った。
(高級そうなチョコですね……)
さすが母親が選んだものだ。
きっと味も良いものなのだろう。
味見をさせてもらおうと、銀紙からチョコを取り出して口の中に入れた。
(ん〜〜、お、美味しいです……!)
はじめは普通のチョコと変わりなかったのだが、溶けていくうちに蜂蜜のようなドロッとしたものが口の中に広がった。
それがチョコと混ざり合ってなんとも美味だった。
病みつきになる味に、祀莉は次のチョコへと手を伸ばしていた。
***
テレビに見入っていた要はカサカサと紙がこすれる音を耳にして我に返った。
そして隣に座る人物へと目を向ける。
そこにはもぐもぐとチョコレートを頬張る祀莉。
それだけなら何も問題はないのだが、今回ばかりはそうもいかなかった。
「な、何してんだっ」
「ふぁい?」
もうひとつ……と、チョコを口に含もうとしていた手を慌てて掴む。
「あの、美味しいくて、つい……。止まらなくて……」
「は? いや、だからってこんなに……」
「むーー、けちけちしないで下さいよ。また買って食べれば良いじゃないですか」
「そうじゃなくて……」
不満げに口を尖らせる祀莉に要は呆れた声を出す。
祀莉が口にしていたのはいわゆるウイスキーボンボン。
お酒の風味を飛ばして食べやすくしているが、要は2つでやめた。
一度にたくさん食べるのは良くないと判断したからだ。
……だというのに、祀莉は次から次へと口にしていた。
箱を見ると中身は半分以下に減っていた。
「とにかく! もう食べるな!」
「じゃ、じゃあこれだけ! これだけ食べさせて下さい!」
要に掴まれたままの手に持っているチョコを指して懇願する。
よほどこのチョコがお気に召したようだ。
しかし──要は祀莉を無視してチョコにかぶりついた。
食べる気満々でいたチョコが指から攫われていくのを見て、茉莉は目を見開いていた。
「あ!」
「もうだめだ。これは俺が食う」
「ひどいです! 意地悪! 要の意地悪〜〜!」
「うるさい酔っぱらい」
顔を赤くして文句を言う祀莉の額を軽く小突く。
それからすぐにチョコの箱を片付けにキッチンへと向かった。
「春江、これを祀莉に見つからないところへ隠してくれ」
水回りを整えていた春江に事情を話して、チョコを祀莉に見つからない場所に保管するように頼んだ。
分かりました、と春江は戸棚の中にチョコが入った箱を入れた。
リビングに戻れば、茉莉が今にも寝てしまいそうな表情でソファーに横になっていた。
「祀莉、寝るなら歯を磨いてこい」
「んぅ……」
「ほら」
体の下に手を忍ばせて起き上がらせる。
自分の体を支える要に祀莉はぴったりとくっつけた。
「要」
「……なんだ?」
頬を赤く染げながら目を潤ませて見上げる祀莉に息を呑んだ。
「チョコ、食べたいです」
「……いや、それは、まぁそのうち…………いや、ダメだ」
「むぅ…………ケチ」
祀莉にしては珍しいこの行動は、ウイスキーボンボンによるもの。
普段では絶対にないこの状況に要の心は揺れていた。
***
翌日、祀莉は謎の頭痛に襲われていた。
我慢できなくもないほどのズキズキとした鈍い痛みがたまに訪れる。
(わたくし、昨日何かしましたっけ……?)
お風呂からあがってからの記憶がどうも曖昧だ。
疲れて寝てしまったのだろうか。
要がキッチンの戸棚を見上げていたことも含めて、祀莉は首を傾げた。