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転生した主人公が次元神になる  作者: ヘルカイザー
第1部

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第1話 一冊の本から始まる転生



世界とは――無限である。


 果てしなく広がる宇宙には、数え切れないほどの銀河が存在し、その一つひとつに無数の星々が輝いている。

 光さえ届かない彼方にも、さまざまな命が暮らす世界が存在していた。

 科学の発達した世界。

 魔法によって文明を築いた世界。

 そこに生きる人々も、営まれる暮らしも、同じではない。


 人々の想像は、新たな世界を生み出す。


 そして世界が生まれるたび――その世界を見守る神もまた生まれる。

 無数の世界は光の糸のようにつながり、ときに離れ、ときに交わりながら、果てのない広がりを見せていた。

 そんな世界を見守る神々の、さらに上に。


 白く美しい景色が広がっていた。


 ここは神界。

 無数の神々が暮らす世界。

 真っ白な建造物が柔らかな光を受けて輝き、整えられた道の先には、天上へと続く巨大な神殿がそびえていた。歩く者の足元には淡い光が反射し、静かな空気の中に神々の話し声が溶けていく。

 その中でも、多くの神々を束ねる存在――オリンポスの神々。

 ここにも、神々の日常があった。


 物語は、この神界から始まる。


     *


 神界を、二人が並んで歩いていた。

 一人は、戦いと知恵の女神――アテナ。

 落ち着いた足取りで神殿へと向かうその姿には、自然と周囲の視線を引きつける気品がある。それでいて、隣を歩く相手に向ける眼差しは穏やかだった。

 もう一人は、彼女を支える天使――フィナ。

 アテナの歩幅に合わせようとしながらも、どこか弾むような足取りになってしまう。今日も何か役に立ちたい。そんな気持ちが、表情にもはっきり表れていた。


「アテナ様〜!」


 明るい声が響く。

 アテナの横を歩いていたフィナが、楽しそうに顔を向けた。

 呼びかけに、アテナも自然とフィナへ視線を向ける。


「今日のお仕事もお手伝いします!」


 フィナは胸の前で小さく手を握り、期待に満ちた瞳で返事を待った。

 少しでもアテナの力になりたい。その思いが伝わってくる。

 そんなフィナの張り切った様子を見て、アテナは穏やかな声で答えた。


「フィナ、今日は無理しなくてもいいのよ?」

「えっ!?」


 フィナは驚いた顔をした。

 しかし、すぐに首を横に振る。


「だ、大丈夫です! 私にお手伝いさせてください!」


 今度は先ほどよりも少し力の入った声だった。

 アテナは、そんなフィナを見て優しく微笑んだ。

 断るより、できることを任せてあげた方が、きっと彼女は喜ぶだろう。


「分かりました。お願いしますね、フィナ」

「はいっ!」


 嬉しそうな返事が響く。

 表情をぱっと明るくしたフィナは、アテナが先へ歩き出すと、その後を追った。

 何事もない、いつもどおりの一日。

 少なくとも、このとき二人は、そう思っていた。


     *


 神殿の中には、大量の資料があった。

 書架には本が並び、静かな室内に紙をめくる音が響いていた。

 アテナは机に向かい、目の前の仕事を一つずつ進めていく。

 その傍らで、フィナも資料の整理を手伝っていた。

 書架から取り出した本を運び、必要なものをまとめ、指示された場所へ移していく。慣れないこともあるが、できる限り丁寧に扱おうとしていた。

 アテナは作業の合間に顔を上げ、その様子へ目を向けた。


「順調みたいですね」

「はい、アテナ様!」


 フィナは元気よく答えた。

 褒めてもらえたことが嬉しかったのだろう。抱えていた厚い本を少し持ち直し、次の場所へ運ぼうと歩き出す。

 厚い本を両腕で支え、フィナは足を進める。


 その途中だった。


 足元が、つるりと滑った。


「えっ?」


 何が起こったのか分からない。

 ほんの一瞬、足裏の感触が消え、身体が横へ傾いた。

 フィナは反射的に本を抱え直そうとする。しかし、腕の中の重みが姿勢を戻す動きを妨げた。


「わ、わっ……!」


 ドテッ!


 フィナが床へ転倒した。

 鈍い音が、静かだった室内にやけに大きく響く。

 そして、その拍子に――。

 抱えていた本が手から離れた。


「あぁっ!」


 厚い本は床へ落ちると、表紙を下にして滑っていった。

 フィナは慌てて顔を上げる。

 手を伸ばせば、まだ届くかもしれない。

 そう思った、その先で。


 ――ゆらり。


 本の進行方向にある空間が、不自然に歪み始めた。

 最初は目の錯覚のような、かすかな揺らぎだった。

 ところが歪みは消えるどころか、少しずつ輪郭を明確にし、何もないはずの場所に小さな裂け目を作り出した。

 裂け目の向こうには、底の分からない空間が広がっていた。


 床を滑っていた本が、その裂け目へ吸い寄せられていく。


「本がぁ〜!」


 フィナは慌てて手を伸ばした。

 指先が表紙へ触れるかと思った。

 しかし、あとわずかのところで本が引き込まれる速度を増し、その姿は裂け目の奥へと消えてしまった。


 シュンッ。


 何事もなかったかのように、裂け目が閉じる。

 残ったのは、元どおりの静かな空間。

 そして、何もない場所へ手を伸ばしたまま固まっているフィナだけだった。


「…………」


 言葉が出ない。

 自分が運んでいた本が、目の前で消えてしまった。

 フィナの顔から、みるみる血の気が引いていく。

 物音を聞いたアテナが、すぐに彼女のもとへ近づいてきた。


「ア、アテナ様……」


 フィナは恐る恐る顔を上げる。

 うまく言い訳を考えることもできなかった。


「ごめんなさい……」


 アテナは床に座り込んだフィナを見下ろした。

 消えた本のことを尋ねるよりも先に、彼女の様子を確かめる。


「まずは落ち着いて。怪我はありませんか?」

「はい……」


 小さな返事が返ってきた。

 アテナはそれを聞いてわずかに息をついたが、すぐに表情を引き締めた。

 問題は、まだ終わっていない。

 あの裂け目がどこへつながっていたのか分からない以上、失われた本がどこへ向かったのかも分からないのだ。


「本の行き先を確認します」


 落ち着いた声だった。

 けれど、その一言に、いつもの柔らかさとは違う緊張が混じっていた。

 フィナは唇をきゅっと結び、アテナの後ろ姿を見つめる。

 どうか、大変なことになっていませんように。

 彼女は、そう願うことしかできなかった。


     *


 一冊の本が、次元の狭間を流れていた。

 閉じた裂け目の向こう側。

 そこには、神界とはまるで異なる光景が広がっていた。

 数え切れない世界の気配が交差する中を、本は向きを変え、ときに回転しながら進んでいく。

 本は、神界から遠く離れた場所へ向かっていた。

 無数の世界を横切り、その先へと進んでいく。


 やがて、青い海が見えた。

 眩しい太陽の光を受け、海面が宝石のように輝いている。

 その海の中にある、一つの島へ近づいていく。


 そして――。


 宮古島。


 真っ青な空と、どこまでも広がる海。

 神界で起きた出来事など知る由もないこの島では、人々がいつもと変わらない一日を過ごしていた。

 

 そんな日常の中に、一人の青年がいた。


 金城享司。


 外出の準備を整えた享司は、慣れた道を歩いて街へ出た。

 今日の目的地はGEOだ。

 店へ向かう足取りは軽い。何か特別な事件が起きる予感など、もちろんない。

 店内へ入ると、享司は迷わずカード売場へ足を運んだ。

 そこには、カードゲーム『Spirit Legends』のパックが並べられている。

 色鮮やかなパッケージを前にして、享司の目が少し輝いた。

 欲しいカードを求めて袋を開ける瞬間の期待は、何度味わっても楽しい。


 パックを購入した享司は、店内で開封した。


 バリッ。


 小さく袋を破る音がする。

 中身を傷つけないように取り出し、カードを一枚ずつ確認していった。

 見慣れた絵柄が現れるたび、次のカードへの期待が少しずつ大きくなる。

 そして、途中で手が止まった。


「……ん?」


 指先で次のカードをめくる。

 その瞬間、レリーフ特有の輝きが目に飛び込んできた。

 光の角度を変えるたび、カードの表面がきらりと反射する。

 見覚えのある絵柄。

 間違えるはずがない。


「アストリア!」


 思わず声が出た。

 享司の表情が、ぱっと明るくなる。

 手元のカードをもう一度確かめた。名前も、絵柄も、レリーフの加工も、まさに目当ての一枚だった。

 見間違いではない。


「まさか当たるとは……」


 嬉しさを押さえようとしても、自然に口元が緩んでしまう。

 しばらく眺めたあと、享司はカードを大事にしまった。

 手を離しても、さっき目にした輝きが頭に残っている。歩き出したあとも、つい口元が緩みそうになった。

 

 店を出た享司はスマートフォンを取り出し、LINEを開いた。

 選んだ相手は――咲。

 さっき手に入れたばかりの喜びを、すぐに伝えたかった。


『アストリア当たった』


 送信。

 画面を見つめていると、ほどなく返信が届いた。


『えっ、本当に!?』


 享司は少し笑った。


『うん』


 そう返してから、もう一つメッセージを打つ。


『帰ったら写真送る』


 ほんの短いやり取りが、嬉しかった。

 享司はスマートフォンをしまい、再び宮古島の街を歩き始めた。

 帰ったら写真を撮ろう。

 そのとき咲は、どんな反応をするだろう。

 そんな、ごく普通のことを考えながら。


     *


「キャンッ!」


 不意に、小さな鳴き声が聞こえた。


「ん?」


 享司は足を止め、音のした方を見る。

 道のそばに、小さな子犬がいた。

 身体はまだ幼く、見上げる瞳にはどこか心細そうな色がある。

 享司は驚かせないように少し近づき、身体をかがめた。


「どうした?」


 子犬は声に気づいたように顔を上げた。

 言葉が通じているのかどうかは分からない。それでも、享司はしばらく様子を見ていた。

 そのとき、子犬がふいに身体の向きを変えた。

 小さな前脚が、道路の方へと進んでいく。


「あっ」


 子犬が、車道へ出た。

 そして、その向こうから一台のバイクが近づいていた。

 享司の視線が、子犬とバイクを行き来する。

 距離が、瞬く間に縮まっていく。


「危ない!」


 身体が先に動いていた。

 享司は道路へ飛び出す。

 

 子犬へ手を伸ばし、その小さな身体を抱き上げる。

 次の瞬間、勢いのまま道路脇へ転がり込んだ。


 ブォンッ!


 すぐ横をバイクが通過する。

 風圧が頬をかすめ、心臓が激しく脈打った。

 あと少し遅れていたら、どうなっていたか分からない。

 享司は地面に身を伏せたまま、腕の中へ目を落とした。

 そこには、しっかりと抱えられた子犬がいた。

 身体を確かめる。

 小さな脚も、背中も、怪我をしている様子はない。

 ようやく、胸の奥に張り詰めていたものが緩んだ。

 腕の中で動く小さな身体を感じてから、自分の呼吸の速さにも気づいた。

 享司は子犬の頭を優しく撫でた。


「よかった……ケガはないみたいだね。」


 子犬の温もりが手のひらに伝わる。

 安全な場所へ、そっと下ろした。

 子犬は少しの間、享司を見上げていた。

 享司も、その顔を見て微笑む。

 やがて子犬は、享司から離れて歩き始めた。

 少し進んだところで、一度だけ振り返る。

 そして、そのまま去っていった。


 享司は、静かにその姿を見送っていた。

 よかった。

 本当に、無事でよかった。

 命が助かったという安心感が、遅れて身体中に広がっていく。

 


 ――その、上空で。


 小さな次元の裂け目が開いた。

 宮古島の空に浮かんだそれは、周囲の景色から不自然に切り離されたように見えた。

 だが、享司はまだ気づいていない。

 裂け目の奥から、一冊の本が飛び出した。

 つい先ほど、神界でフィナの手から離れた、あの本だった。

 本は重力に引かれ、落下を始める。

 風を受けながら向きを変え、加速し、真下へ向かっていく。

 その下には、子犬を見送っている享司がいた。

 本は急速に近づいていく。


「……?」


 享司が、何かに気づいた。

 頭上から、かすかな気配がしたような気がしたのだ。

 何だろう。

 そう思い、振り返ろうとした――その瞬間。


 ゴッ!!


 硬い衝撃が、後頭部へ直撃した。

 本だった。

 ほんの少し前まで、神界にあった一冊の本が、享司の頭に当たったのだ。

 何が起きたのか理解する暇もなかった。

 足元から力が抜け、身体が崩れる。

 そのまま、地面へ倒れた。

 視界に映るのは、さっきまで眩しいほど青かった宮古島の空。

 けれど、その輪郭が次第にぼやけていく。


(……なんだ……これ……)


 指先を動かそうとしても、うまく力が入らない。

 音が遠くなる。

 咲に送るはずだった写真が、ふと脳裏をよぎった。

 意識が、薄れていく。

 視界の端から暗闇が広がった。

 そして――やがて、何も見えなくなった。


     *


 白。


 最初に感じたのは、それだった。

 上下も距離も分からないほど、どこまでも白い景色。

 眩しいようでいて、目を開けていられないほどの強い光ではない。

 静かだった。

 車の走る音も、人の声も、風が葉を揺らす音も聞こえない。

 享司はゆっくりと目を開けた。


「……ここは?」


 身体を起こして周囲を見回す。

 さっきまでいたはずの宮古島の道路が、どこにもない。

 倒れたときの痛みも、今は感じられなかった。

 これは夢なのだろうか。

 享司は考え込んだ。

 確か、自分は子犬を助けて、その子犬を見送っていたはずだ。

 それから何かが頭に当たって――。

 そこまで思い出したとき、前方に人影があることに気づいた。

 目を凝らす。

 二人いる。

 そして、二人とも――。


 土下座をしていた。


「…………」


 享司は言葉を失った。

 一人はアテナ。もう一人はフィナ。

 もちろん、享司にはまだ二人の名前も立場も分からない。

 分からないことばかりなのに、目の前の二人は揃って深々と頭を下げている。

 なぜここにいるのか。そして、どうして二人は土下座しているのか。


「ご、ごめんなさい!」


 フィナの声が響いた。

 その声は、今にも泣き出しそうに震えていた。


「本当にごめんなさい!」


 享司は困惑したまま、二人へ声をかけた。


「と、とりあえず顔を上げてください」


 謝られる理由が分からないまま、いつまでも頭を下げられていても困る。

 その言葉を受け、二人が顔を上げた。

 アテナの表情は真剣だった。フィナは泣きそうな顔で、享司をまともに見られずにいる。

 アテナが享司へ向き直った。


「まず、あなたに何が起こったのか説明します」


 その声には、誤魔化そうとする気配がなかった。

 享司は背筋を伸ばし、耳を傾けた。

 そして、二人から事情を聞くことになる。

 フィナが転倒し、本を落としてしまったこと。

 その本が次元の裂け目へ入り、宮古島へと渡ったこと。

 説明に重なるように、出来事の様子が示されていく。

 床を滑る本。

 何もない空間に突然開く裂け目。

 そこへ消える本。

 そして、宮古島の上空から落下した一冊の本。

 享司は、目の前に示される光景を黙って見つめていた。

 まさか、と思う。

 けれど、その映像には見覚えのある景色があった。

 自分がさっきまで立っていた、あの場所だ。


 アテナが、静かに享司を見た。


「その本があなたに直撃しました」


「…………」


 享司は黙っていた。

 最後に感じた、あの衝撃。

 ぼやけていった空。

 その後に訪れた、暗闇。

 聞かされた出来事と、自分の記憶がつながっていく。

 なぜ自分がここにいるのか。答えが見え始めていた。

 胸の奥に浮かんだ答えを、簡単には口にできなかった。

 それでも、確かめる必要があった。


「つまり……」


 享司は、二人へ尋ねた。


「自分、死んだんですか?」


 フィナが俯いた。

 沈黙が、ほんの一瞬だけ長く感じられた。


「……はい」


 その返事は小さかった。

 けれど、享司にははっきり聞こえた。

 何か答えようとして、口を閉じる。尋ねるまでは残っていたわずかな期待が、その一言で行き場を失った。

 自分は死んだ。

 ついさっきまで当たり前に続いていた日常が、もう続かない。

 家へ帰ることも、カードを机に並べることも、約束した写真を咲に送ることもできない。

 そう考えると、言葉にならない寂しさが胸の奥へ落ちてきた。

 享司は、小さく息を吐いた。

 目の前では、フィナが顔を伏せたまま声を絞り出している。


「全部、私のせいです……」


 フィナの肩が小さく震えていた。

 今にもこぼれ落ちそうな涙を、必死に堪えている。


 享司は、そんな彼女を見つめた。

 自分が死んだと聞かされて、何も感じていないわけではない。

 驚きも、困惑も、寂しさもある。

 けれど、つい先ほど見せてもらった映像には、もう一つ気になることがあった。


「あの……」


「……はい?」


「さっき転んだって言ってましたけど……怪我とかありませんでしたか?」


「…………え?」


 フィナが、思わず顔を上げた。

 予想していなかった質問だったのだろう。


「け、怪我……ですか?」


「はい。結構派手に転んだみたいでしたから」


 享司は、心配そうに続けた。


「どこか痛いところとかありませんか?」


「わ、私は……大丈夫です……」


「そうですか。よかったです」


 享司は、ほっとしたように微笑んだ。


「…………」


 フィナは言葉を失っていた。

 自分の失敗で命を落としたというのに、この人は自分の怪我を心配している。

 責められる覚悟をしていたフィナにとって、それはあまりにも予想外の優しさだった。


「……怒って……いないんですか?」


 震える声で、フィナが尋ねた。

 享司は少し考えてから答える。


「まあ、驚きましたけど……」


 享司は、言葉を選ぶように少し間を置いた。


「事故だったんですよね?」


「……はい……」


「だったら、ずっと自分を責めなくていいですよ」


 その瞬間、フィナの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 アテナは、そんな二人のやり取りを静かに見守っていた。

 白い空間に、穏やかな沈黙が流れた。


     *


 やがて、アテナが静かに問いかけた。


「最後に、誰かへ伝えておきたいことはありますか?」


 享司は、少し考えた。

 最後に伝えたいこと。

 その言葉を聞いた途端、胸の中でいくつもの思いが動いた。

 もう帰れない。

 当たり前だと思っていた日々へ、戻ることはできない。

 けれど、せめて一言だけ伝えられるのなら。

 浮かんだのは、さっきLINEでやり取りした相手だった。

 レリーフのカードが当たったと伝えると、すぐに驚いて返事をくれた。

 帰ったら写真を送ると約束した。

 それが、まさか叶わなくなるなんて思ってもみなかった。


「……あります」


 享司は顔を上げ、二人を見た。


「咲に伝えてほしいです」


 名前を口にすると、胸の奥が少しだけ締めつけられた。

 咲と過ごした日々が、思い出の中に浮かぶ。

 一緒に笑ったこと。

 何でもない話をしたこと。

 自分が辛いとき、そばにいてくれたこと。

 そうした一つひとつが、いまになって大切なものとして胸に蘇ってくる。

 享司は、その記憶を辿るように言葉を続けた。


「今まで、本当にありがとうって」


 アテナとフィナは、黙って聞いていた。

 遮ることも、急がせることもなかった。


「自分が辛かった時――」


 言葉が一瞬止まる。

 どんなふうに伝えれば、自分の気持ちが届くだろう。

 簡単な言葉では足りない気もする。

 それでも、伝えないまま終わってしまうことだけは嫌だった。


「あいつには、ずっと助けてもらったから」


 思い返すと、感謝を伝える機会はいくらでもあったはずだった。

 でも、いつでも言えると思っていた。

 明日も会えると、疑わなかった。

 だからこそ、今になってその言葉の大切さが分かる。

 享司は顔を上げた。


「最後くらい、ちゃんとお礼を言いたいです」


 その声は穏やかだった。

 けれど、そこには揺るがない願いが込められていた。

 アテナは、享司の願いを受け止めるように頷いた。


「分かりました。必ず伝えます」


 享司はその返事を聞いて、わずかに肩の力を抜いた。

 少なくとも、咲に一言を残せる。

 そのことが、今は何よりありがたかった。


     *


「そして、享司さん」


 アテナが、改めて彼へ呼びかけた。

 享司は顔を上げる。

 アテナの表情は先ほどよりも落ち着いていたが、話す内容の重大さは変わらないようだった。


「あなたには新しい人生を歩んでもらいます」


 一瞬、言葉の意味が分からなかった。

 新しい人生。

 それは、つまり――。


「……転生?」


 享司の問いに、アテナが頷く。

 すると、白い空間に、これから向かう世界のイメージが示された。

 見知らぬ街並み。

 地球で見慣れたものに似た景色があるかと思えば、まったく違う不思議な光景もある。

 享司は目を見開いた。


「科学と魔法が共存する世界です」

「科学と魔法……」


 享司は、その言葉を繰り返す。

 科学は分かる。自分がいた世界にもあったものだ。

 だが、魔法となると話は別だった。

 魔法はゲームや物語でしか知らなかった。

 さっきまで死んだことへの戸惑いでいっぱいだった心に、少しずつ別の感情が芽生えてくる。

 知らない世界。

 知らない仕組み。

 そこで、どんなものに出会えるのだろう。


「面白そうですね」


 享司がそう言うと、フィナが少し顔を上げた。

 彼女もまた、自分の役目を果たそうとしていた。


「転生する姿について、ご希望はありますか?」


 享司は考えた。

 新しい人生なら少しくらい夢を見たいが、口に出すのは気恥ずかしい。


「あの……」


 フィナが続きを待っている。

 享司は少し間を置いてから、思い切って言った。


「できればイケメンでお願いします」

「イケメンですね!」


 フィナは明るく返事をした。

 あまりにまっすぐ繰り返され、享司はかえって照れくさくなってしまう。

 それでも、希望が伝わったことには安心した。


「分かりました!」


 フィナはしっかりと頷く。

 そして、享司の希望を聞き終えると、続けて尋ねた。


「他に欲しいものはありますか?」


 享司は、今度はそれほど迷わなかった。

 知らない世界で生きていくのなら、知識はきっと大きな力になる。

 科学も魔法も存在する世界だというのなら、なおさらだ。

 できることなら、一つひとつ学び直すより、多くのことを知っておきたい。

 そんな思いから、享司は答えた。


「全世界の知識をお願いします」

「全世界の知識……」


 フィナは、その希望を繰り返した。

 言葉の大きさを確認するように、少しだけ間を置く。

 それから頷いた。


「分かりました」

「ありがとうございます」


 享司が礼を言う。

 そのやり取りを見届けたアテナは、一つのカードケースを取り出した。

 それは、ごく普通のケース型だった。

 差し出されたケースを見て、享司が尋ねる。


「これは?」

「あなたへお渡しするカードです」


 享司はケースへ視線を落とした。

 先ほどまで宮古島でカードを開封していた自分に、またカードが渡される。

 何だか少し、不思議な巡り合わせにも感じられた。


「ただし、普通のカードではありません。これは『精霊カード』と呼ばれるものです」

「精霊カード……?」


 享司は首を傾げた。


「はい。このカードには精霊が宿っています。必要な準備を整えれば、精霊を実体化させることもできます」

「えっ、カードから本当に精霊が?」


 享司は思わずケースを見つめ直した。

 カードに描かれた存在が、実際に目の前へ現れる。そんなことがあるのだろうか。


「ですが、忘れないでください」


 アテナの声が少し真剣になる。


「精霊たちは道具ではありません。それぞれに意思や感情を持つ存在です。どうか大切に接してあげてください」

「……分かりました。大切にします」


 享司は、しっかりと頷いた。

 ケースの中へ、もう一度目を向ける。そこに精霊が宿っているのなら、新しい世界へ旅立つのは、自分だけではないのだ。


 享司はアテナからカードケースを大切に受け取った。

 手のひらに伝わる確かな感触。

 新しい世界へ持っていく最初の品物だった。


     *


 白い空間に、巨大な転生術式が展開された。

 幾重にも重なった光の線が円を描き、複雑な模様を浮かび上がらせる。

 術式の中心から柔らかな輝きが立ち上り、周囲を静かに照らした。

 享司はその光景を見つめた。

 これから、自分は知らない世界へ行く。

 宮古島で過ごした日々とは、まったく違う人生を歩むことになる。

 楽しみがないわけではない。

 けれど、二度と戻れない場所があるという実感も、確かに胸の中へ残っていた。

 咲への言葉はアテナが届けてくれる。

 その約束を思い出し、享司は静かに前を向いた。


 術式の中央へ進む。

 アテナとフィナは、享司へ視線を向けていた。

 術式の光が広がり、その身体を包み込んでいく。

 足元から立ち上った輝きは、やがて肩の高さを越え、全身を柔らかく覆った。

 享司の姿が、少しずつ薄くなり始める。

 もうすぐ、ここから旅立つのだ。


「それじゃあ……よろしくお願いします」


 享司が、二人へ声をかけた。

 フィナは顔を上げ、精一杯明るく返事をした。


「はい!」


 光が、さらに強くなる。

 やがて享司の輪郭は輝きの中に溶け込むように消えていき、その姿は完全に見えなくなった。

 転生が完了したのだ。

 術式を満たしていた光が少しずつ弱まり、白い空間に静けさが戻ってくる。

 円の中心には、もう誰も立っていなかった。


 一瞬、静寂が訪れた。


「…………」


 フィナは、黙っていた。

 無事に送り出せた。

 少なくとも、そう思った。

 けれど、次の瞬間だった。

 ふと、気にかかることが生まれたように、その動きが止まる。


「……あっ」


 フィナは慌てて転生情報を確認した。

 確認した内容を、もう一度見る。

 そして、もう一度。

 見間違いであってほしい。

 だが、何度確かめても、そこに示された情報は変わらなかった。

 フィナの顔色が変わる。

 先ほどまでの明るさが、一瞬にして消え失せた。


「ア、アテナ様!!」

「どうしました、フィナ?」


 アテナが振り向く。

 フィナは必死に報告を始めた。

 

 話を聞いたアテナも、転生情報を確認した。

 そして、その表情が変わった。

 さきほど享司を見送ったときの穏やかさは、もうない。

 術式の中心へ視線を向ける。

 しかし、そこに享司の姿は残っていなかった。


 何が起きたのか。

 フィナが何を間違えてしまったのか。

 享司は、それを知らないまま旅立っていた。


「……転生は、もう完了しています」


 アテナの静かな言葉が、白い空間に響いた。

 フィナは心配そうに手を組む。

 

 二人は、転生術式に残る淡い光へ向き直った。

 アテナも、静かに目を閉じる。


 今はもう、享司の無事を祈るしかなかった。


 ――第1話 END――


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