第38話 明日を信じてみたいから
耳に残る彼女の歌声。
何度も反芻させたくなるくらい心に響いて、俺を捕らえて離さない。
年が明けたからって、何かが急激に変わる訳じゃない。
そんな事は、今までの経験でイヤってほど分かってる筈なのに、期待せずにはいられなくて…………あと……三ヶ月もしないうちに卒業か……
変わらずに電子ピアノの音色が、リビングに響いていた。彼の周りでは傑と夢が歌っている。
ーーーー二人とも、water(s)が好きだよな…………
リクエストに応えて弾けるくらいには、上手くなってる筈なんだけど、試験となれば話は別だ。
実技試験は、それくらい緊張感がある。
この四年間、受け続けても慣れる事はなかった。
いつだって、その瞬間が今の精一杯で……
「次、"夢見草"がいい!」
「はいはい」
さっきからリクエストを受けてるけど、water(s)オンリーだ。
難易度高い曲が多いから、指を動かすのに丁度いいけど、こんだけ弾いてると自分の曲を演りたくなるな。
「今度、夢の卒業式で歌うんだって」
「傑も来年はやるんじゃない?」
今の小学生の卒業式に使われるって……どんだけだよ……
時代を感じる……っていうか、water(s)の曲が教科書に載ってたりするから、凄いよな。
そこまで凄い曲は生み出せないにしても、ずっとリスナーがいるような曲は作っていきたいって思う。
俺も拓真も、そう思ってるんだけど……そんなに簡単に生み出せないのが現実だ。
でも、だからこそ……出来るって信じたい。
どんなに時間がかかっても、単独ライブが出来た時みたいに。
いつも通り教材の楽譜を置いて弾き始めた曲は、跳ねない所で微かに飛び跳ねていた。
理由は、分かってる。
さっきまで弾いていた曲の名残りだ。
俺がファンだからっていうのもあるけど、water(s)の音をなぞる時は、胸が弾んでいるから……
「お兄ちゃん、そろそろ夕飯にするから」
「はーい」
母さんに呼ばれて、ずっと弾き続けていた事に気づいた。
集中してたんだな……
潤の感じていた以上に、早く時間が過ぎていた。
大学最後の試験は、休み中に電子ピアノに触れる機会が多かった事もあって、上手くいったと思う。
大学に通うのも、あと少しか…………
時間が過ぎるのが、早いとは思ってたけど……後は試験の結果と、卒業式を待つくらいだ。
学食に並んでいると、チラチラと視線が向けられていると気づく。潤の前には彼女が並んでいたのだ。
「上原、お疲れ」
「樋口くん、お疲れさまー」
注文したローストビーフ丼が出て来ると、一緒に中央にある六人掛けの席を二つ陣取った。
これからピアノ専攻の八人が集まるからなんだけど、今なら二人きりだから伝えられるか?
「試験、やっと終わったね」
「そうだな。あの、上原……」
「うん?」
「年末はライブ来てくれて、ありがとな」
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう。またライブするの?」
「する予定だけど……俺も拓真も就職したから、落ち着いてからかな」
「そっか……また機会があったら教えてね。miyaも聴きたいって、言ってたから」
「本当に?! 絶対教える!」
「うん、待ってるね」
並んで話していると、他のメンバーも試験を終え、続々とカフェテリアに集まってきた。
もう少し遅く来てくれても良かったんだけど……何て考えてる自分に引いた。
「二人ともお疲れー」
「お疲れさまー」
「金子、気力使い果たした感じ」
「あぁー、試験の雰囲気は独特だからな」
「張り詰めた緊張感があるよねー」
「理花の言う通りだな」
「なぁー、石沢と潤は同じ楽器メーカーに、就職したんだろ?」
「そうみたいだね」
「あぁー。でも、希望部署は違うからな」
「そうそう。新人研修で会うかもだけど、人数多いから微妙だよねー」
「そんな感じか。阿部っちも拓真も音楽関係の企業だろ?」
「まぁーな、ピアノは弾かないけどな」
「それは私達も同じだよー」
石沢がそう応えたから、俺も頷いていた。
楽器に触れる機会は、自分で作らない限り無いに等しいから……
「詩織は音楽教諭でしょ?」
「うん、母校に行くの楽しみ。金子は?」
「一般企業。だからピアノは、趣味で弾く程度になりそうだな」
「そうなんだ……」
知ってたけど……本当に就職したら、楽器に触れる機会が減るよな。
今まで音楽に打ち込める環境があったから、此処までやって来れたんだって……今更ながらに思う。
「拓真と潤は音楽活動、続けるんだろ?」
「それは、勿論!」
勢いよく応えた拓真に、思わず笑みが溢れる。
二人して視線の先には彼女がいたから……
「目標は……water(s)だからな」
「あぁー……」
「……ありがとう」
少し照れたような上原に、また可愛いとか……思うなんてな。
あの日から……変わらずにwater(s)は憧れであり、目標だから……
「結局、地元に帰るのは詩織だけかぁー」
いつもの面子だと……森だけが地元に帰って、他は東京に残るって事か。
何か不思議な感じだよな……
潤はお茶を飲みながら、周囲の話を聞いていた。
「うん。でも神奈川だから近いよ。この中だと、実家が遠い阿部っちが大変じゃない?」
「あぁー。学生寮に住んでたから、これから引っ越しだよ」
「阿部っち、大変だな」
「まぁーな」
ピアノ専攻で集まって、こういう話が出来る機会は殆ど……残されてないって事か……
隣にいる彼女に視線を向けていた。
そう……だって、上原は四月に結婚するから……
今後の話をしながら昼食を食べ終えて、拓真といつものように練習室に立ち寄った。
これが出来るのも、あと数える程度か……練習場所は、これからの課題だよな。
お互い仕事を始めたら、どうなるかまだ分からないし……
「潤も二次会、参加するだろ?」
「あぁー」
二次会っていうのは上原の結婚式の二次会だ。
メッセージが来てたから、即行で返した。
何が悲しくて想い人のに参加するのか? って、言われるかと思ったけど……拓真らしくスルーしてくれた。
幸せな二人を見て、終止符を打ちたいんだ。
今のままじゃ動き出せない事も分かってるから……
「結婚かーー……」
「ん? 拓真もしたいのか?」
「バ! 違くて! その、いいなーとは思うけどさー」
「あぁー」
いいなー……か…………それは分かるけど、まだ学生で……ようやく社会人になる俺達にとっては、遠い話だ。
拓真はともかく、相手すらいないからな……
「潤、アレンジするだろ?」
「あぁー」
あと、どのくらい……こんな風に曲が作れるんだろうな。
珍しく弱気になってるのは、卒業試験で気力をすり減らしたからだって言い訳をして、エンドレの音を楽しんでいたんだ。
「お疲れー」 「お疲れ」
試験が終わった勢いもあって、外はもう暗い。
これが夏なら、もう少しマシなんだけど……
「試験、終わったなー」
「あぁー、ようやくな」
「とりあえず、四月からは土曜日にライブするだろ?」
「そうだな」
ーーーー何処まで行けるか……まだ想像もつかない。
いつものように拓真と分かれてイヤホンを付けた。
心に届く音色に、いつも揺さぶられる。
イヤホンから流れる彼等の曲に、移りゆく景色をただ眺めていた。
ピアノ専攻のメンバーは優秀というか、現実を見てる奴が多い。
だから全員進路が決まったんだと思うし、女子はフランスに卒業旅行で行ったらしくて、お土産のクッキーを受け取った。
「せっかくだし、みんなで何処か行くか?」
「カラオケ行きたい」
「森、いいじゃん!」
さすが拓真というか……何ていうか…………
急遽、カラオケ店に寄ってから帰る事になった。
俺の前を上原が歩いてる。
石沢と楽しそうに話しながら、いつもと変わらない感じで。
たまに思うけど、water(s)はメジャーなバンドなのに……よく気づかれないよな。
マイクは順番に回ってるけど、上原は控えめに歌ってるみたいだ。
控えめっていっても、歌が上手い事には変わらないし、凄いんだけど……いつもと違うんだよな。
「上原は音楽で食べていくんだろ?」
「うん、今月もライブあるよー」
「メンバーで集まって練習するのか?」
「そうだね。リハで最終調整って感じかな」
上原だけが特別な訳じゃない。
water(s)は、個々の能力が高い。
嫉妬すら掠れてしまうくらい、音が違うんだ。
ライブ前に喉がダメにならないように、控えてるんだろうけど……それでも、惹かれる。
一緒に歌うと引き上げられていくみたいに、声が伸びていった。
夢中になっていたんだと思う。
楽しそうな笑顔を向けられて、驚きよりも達成感みたいなものが強かった。
「上原と潤のハモリ、凄いな」
「私も思った! よく相手に釣られずに歌えるよねー」
「……ありがとう」
少し照れたように笑った彼女は、いつもの上原だったけど……それが、出来て当たり前の世界にいるんだ。
「ーーーー俺のは、拓真のおかげだな」
「エンドレのハーモニー、綺麗だよね」
それが社交辞令じゃない事くらいは、俺にだって分かる。
大学生活を四年間、共に過ごしてきたんだから。
こうやって笑い合う事にも慣れたけど、もうすぐ別々の場所で働いていくんだよな。
「上原……次、この曲歌って?」
珍しくリクエストした潤は既に曲を入れていた。
「面白そうじゃん!」
「酒井も歌ってね?」
「了解!」
乗り気な拓真に釣られて声を出して、重なったハーモニーに鳴ってた。
また一つ、貴重な体験をしている事に気付かされていたんだ。




