2 奈落の底の女神
だけど、すぐに行く手を阻まれてしまった。
目の前の地面が大きくえぐれ、巨大な裂け目が口を開けていたのだ。
底が全く見えないほど深い穴だった。
左右の壁が切り立っているため、迂回も無理だ。
「どうする――」
ジャンプして越えるには距離がありすぎる。
飛行魔法も使えない。
そして、落ちれば確実に死ぬだろう。
「……壁に張り付いて横に渡るか」
考えた末、俺はそう結論付けた。
骸骨死体の群れを探ると、鋭利な骨片や欠けた金属片を拾うことができた。
こいつを杭の代わりにして、壁伝いに進んでいく。
今にも滑り落ちそうな恐怖感――。
けれど、他に進む方法はない。
「死んでたまるか……」
たとえ進む先に絶望しかなくても。
最期まであがいて、あがいて、あがききってやる――!
「はあ、はあ、はあ……」
仰向けに倒れ込み、俺は荒い息を吐いた。
全身泥と血にまみれ、手はボロボロだ。
どうにか壁伝いに進んで亀裂を乗り越えることができた。
「よし、先に進むぞ……」
俺は呼吸を整えながら、再び歩き出す。
――じゃらり。
そのとき、暗闇の奥から金属音が響いた。
鎖の音……か?
俺はとっさに身構える。
魔物だろうか、それとも俺と同じように落とされた罪人か。
俺は警戒しつつ、進んだ。
岩の陰を曲がると、暗がりの中にぼんやりと白い影が浮かび上がる。
「……お前は」
そこにいたのは美しい少女だった。
透き通るような銀色の髪。
白い肌に華奢な体つき。
その両手は鋼鉄の鎖で岩壁につながれていた。
「誰……そこにいるの」
彼女がこちらを向いた。
その両目は黒い布製の眼帯で覆われていて、俺の姿が見えないようだ。
「俺はカイ。少し前に奈落へ落とされた」
「……そう、あなたも理不尽に捨てられたのね」
少女は悲しげに微笑んだ。
だが、すぐに小さく首をかしげる。
「……おかしい」
「何がだ?」
「あなたの気配が、変なの。人間の魂には邪神の刻印がある。レベルやスキルを刻むための、とても小さな傷のようなものが」
「邪神の刻印……?」
教団では、そんな話は聞いたことがなかった。
だが、彼女が出まかせを言っているような雰囲気でもない。
彼女は、俺たちが知らない何かを――世界の真実を知っている。
そんな、厳かな雰囲気があった。
「でも、あなたからはそれが感じられない。まるで、そこだけ何も書かれていないみたい」
何も書かれていない。
その言葉に、俺は神官長が言っていた「異物」という言葉を思い出した。
「私の名前はララベリア。かつて女神と呼ばれていた存在よ」
「女神……!?」
俺は思わず彼女を見つめ直した。
最初は冗談かと思った。
けれど、さらに目を凝らすと――。
「君……は……!?」
ララべリアの全身から淡い光が立ち上っている。
その光が淡雪のように舞いながら、俺を取り囲んだ。
温かくて、神々しい光――。
その温かさや神性に触れているだけで、ララべリアの言葉を自然と信じられた。
荒唐無稽な話だが、不思議な説得力があった。
この少女は確かに女神と呼ばれるべき存在なのだと――。
「その女神様がどうして繋がれているんだ?」
「……罰を受けたの」
ララべリアはうつむいた。
「罰?」
「私は……世界の真実を告げようとしたの。だから邪神の勢力に捕らわれ、光を奪われ、ここに封じられた」
俺の心臓がどくんと早鐘を打った。
世界の、真実。
途中で見つけた白骨死体たちが残した文字が頭をよぎる。
『知りすぎた』と刻まれたあの血文字だ。
「この世界は邪神の餌場に過ぎない。人類は皆、邪神を養うための家畜なのよ」
「……神官長が俺を落とす直前に言っていた。レベルは個人の強さじゃなく、邪神にとっての熟成度だと」
俺はうめいた。
「人間は生まれた時から、魂に小さな刻印を入れられているの。神殿はそれを祝福と呼んでいるけれど、本当は違うわ」
ララの表情が険しくなった。
この優しげな少女には不釣り合いな、怒りと憎悪が込められた表情。
「それは首輪よ。経験値を記録し、レベルを刻み、スキルを与え、最後には魂を収穫するための印。人間たちは強くなっているつもりで、自分から魂を肥やしているの」
「人間の固有スキルも、邪神が与えているのか?」
「ええ。人間は生まれつきの才能だと思っているけれど、本当は違うわ」
ララは静かにうなずいた。
「魂に刻まれた印が、その人間の資質や欲望を読み取り、邪神にとって都合のいい力を開く。それが固有スキル。普通の人間に与えられる、権能の欠片よ」
「権能の欠片……?」
「高位の神官や邪神の眷属に直接与えられる大きな力は、『権能』と呼ばれているわ。でも、根は同じ。どちらも邪神が刻印を通して与え、管理している力よ」
「誰にでも与えられるわけじゃないのか」
「ええ。何も与えられない人もいる」
俺の問いにうなずくララ。
「逆に、レベルが低くても強い固有スキルを持つ者もいるわ」
「俺には刻印そのものがない。だから固有スキルもない、と」
「そう。でも同時に、邪神の命令を受けるための道もないわ」
俺は言葉を失った。
努力も。
鍛錬も。
祈りも。
人々が信じてきたすべてが、邪神に食われるための準備だったというのか。
「神殿の者たちは邪神の代行者として、人間たちにレベルを上げさせている。そして十分に育った高レベルの人間から、その魂と命を邪神への供物として捧げているのよ」
「奴らが、そんな役割を――」
俺も神官のはしくれだ。
ただ、その役割はあくまでも神の代行者として、この世界に平和をもたらすことだった。
レベルを上げる。
その行為の目的は、人によって異なる。
あるものは自身の力を磨き、より良い暮らしを得るために。
あるいは国や家族を守るために強さを目指す者もいる。
だけど、それらはすべて――邪神の餌になるための肥育作業だったというのか。
「ふざけた話だ」
「私はその仕組みをやめさせるために地上に派遣された。けれど邪神の力はあまりにも強大で……そして彼の手駒となる人間は、あちこちにいたわ」
ララべリアがうつむく。
「やがて、私は捕らわれ、ここに落とされた――」
ぽつりぽつりと語り続ける彼女の話を、俺は黙って聞いていた。
「地上にいた頃、ある寒村で幼い姉妹に出会ったの」
「姉妹?」
「ええ。二人はレベルが低くて、村の人間からひどく差別されていたわ。私は彼女たちを見守っていた。けれどある日、神殿の人間がやって来たの」
「神官たちか」
「『救済選別』という名目で、姉だけが連れ去られたわ。残された妹は泣き叫んで、助けを求めていた」
ララベリアが一瞬、言葉を詰まらせた。
俺は黙って彼女を見つめた。
「私は助けようとした。でも、そのとき邪神の勢力に私の存在を察知されてしまったの。思うように動けず、結局、私は二人を守れなかった」
ララベリアは両手を強く握りしめた。
「それが、私が地上を救いたいと強く願う理由よ。あの子たちのような犠牲者を、もう二度と出したくないから」
その言葉と短い沈黙から、俺は悟った。
彼女は万能な救済者ではない。
救えなかった者を抱え、後悔に苦しむ敗者なのだと。
うなだれる彼女の姿は、俺自身と痛いほどに重なった。
レベルが上がらないというだけで、完全な廃棄物としてゴミのように捨てられた俺。
何もかもを理不尽に奪われ、絶望の底に突き落とされた存在。
彼女も、俺も、同じだ。
すべてを奪われ、否定され、こうして奈落で死を待つばかり――。
「……違う」
俺は顔を上げた。
怒りが、少しずつ絶望を晴らしていく。
そうだ、俺はこんな場所では死ねない。
「俺はここで死ぬつもりはない。必ず地上に戻ってやる」




