第124話 さよなら、私の初恋
「先生、もしよかったら食べていってください」
程よく火の通ったハラミと、ピーマンにソーセージを小皿に取り分け、割り箸を添えて吉岡先生に手渡した。
「あら、ありがとう。そんなに気を使わなくていいのに」
「いえ、うちの班、男子が二人だから量が多いくらいなんです。……おまけに少食が一名いますから。食べてくれた方が、むしろ助かるんですよ」
「そう? じゃあ遠慮なく」
俺が冗談めかして隣を見やると、ちょうど野菜を口に運んでいた九条さんが、
「っ……」
と動きを止め、少しだけ耳を赤くして俺を睨んだ。
「……私だって、今日はいつもよりずっと食べているのよ」
「いやいや、ちょっと待ってよ」
不意に届いたその声に、俺と健太、九条さんや吉岡先生までもが、反射的に声の主の方へと視線を向けた。
「それじゃあ、私たち二人は小食じゃないみたいじゃない!」
抗議の声を上げたのは、まさに今、肉を口に運ぼうとしていた高階さんで。
続いて、隣で大人しく焼きおにぎりを頬張っていた長谷川さんも、心外だと言わんばかりに身を乗り出してくる。
「そ、そうだよ水無月くん。私たちだってこれでも結構、お腹いっぱいなんだから。ね、萌?」
「う、うん。水無月くんがどんどん焼いてくれるから……つい」
そんな女子ならではの『少食アピール』という名の抗議に、俺は思わず、
「あはは、悪かったよ」
と苦笑いしつつ、先生の皿に追加の肉を乗せる。
すると、それを見た健太が、
「おいおい蒼、俺の分はどうした! 女子の皿にばっかり盛るなよな!」
と盛大に突っ込みを入れるから、場の空気は再び爆笑に包まれた。
「でもよ、皆と外で食べるバーベキューって美味しいよな。 俺、こういうの好きだわ。肉は最高だし」
「まあ、そこは否定しないけどね」
「だろ?」
高階さんと健太の掛け合いが夜の森に広がり、空気がいっそう華やぐ。この二人はホント、うちの良いムードメーカーだよ。
楽しげに笑い合う皆の横顔を眺めながら、俺はふと、先生たちの夕食が気になり、失礼を承知で問いかけてみる。
「ちなみに……先生たちは別にバーベキューの用意があるんですか?」
「ん? あるわけ無いでしょ。あくまで生徒がメイン。教職員はお弁当よ」
吉岡先生は、当たり前のことのように肉を口へと運び、どこか可笑しそうに肩をすくめてみせた。
「べ、弁当!?」
「え~、悲惨すぎ~」
「こんな、あちこちから良い匂いがするのに!?」
「水無月くん、ほら、先生にもっと入れてあげようよ」
「そうだな。先生、お腹いっぱい食べていってくださいよ。ただしビールはありませんけどね」
俺が少しだけ悪戯っぽく笑いながらそう告げると、先生は一瞬だけ呆気に取られ、それから「ふふっ」と声を漏らして笑い出した。
「バーベキューでビールがないとか、これはこれで軽い拷問だわ」
先生の大人な本音にみんなで爆笑し、俺も笑いつつトングを動かす。
そんな喧騒の真っ只中。
ふと、バーベキュー台の近くに座る九条さんが、妙に静かなことに気が付いた。
みんなが先生に注目して盛り上がっているその隙を突いて、自分の皿から、台の上にある俺の皿へと何かをせっせと運んでいる。
「……あ」
自分の皿へ視線を落とすと、そこにはさっき俺が彼女の皿へたっぷり盛ったはずの肉たちが、すっかり戻ってきていた。それもほとんどが。
俺と目が合っても、なぜか一切動じない。
そのまま最後の一切れを黙って俺の皿へと積み上げると、彼女はようやく満足したように、俺にしか見えない角度で小さく微笑む。
なんだ、この可愛い生き物……。
「水無月くんも、食べないと駄目よ? 私の分あげるね」
周囲の笑い声に紛れるような、とても小さな囁きが届く。
その真剣な眼差しと、バレないように任務を完遂した可愛らしい仕草が、俺の心をどうしようもなく温めて、笑わせてくれるんだ。
だから。
どうしても、そんな君に食べてほしくて。俺はまた、彼女の皿へ肉を盛り返してしまう。
「ああっ!? ちょっと、水無月くん」
必死に隠してきたはずの『秘密の肉移動作戦』が、彼女のその動揺した一言で、今度こそ周囲の耳に届きそうになる。
慌てて口元を押さえる九条さん。
そんな二人だけの密やかな攻防を、吉岡先生はビール代わりに麦茶を口に運びながら、すべてを包み込むような温かい瞳で見つめていた。
やがて、吉岡先生が「よっこいしょ」と膝を叩いて立ち上がる。
その掛け声に、俺と九条さんは反射的に顔を見合わせ、またもう一つ秘密の笑みを共有した。
『ほら、君と一緒だ』と。
「……よっこいしょ」
「っ……もう!」
俺がわざと小さく呟いてみせると、彼女は顔を真っ赤にして俺を軽く睨む。
「あまり特定の生徒のところに長居しちゃうのもね。ごちそうさまでした」
「あ、先生。……これ、もしよかったら持っていってください。酒々井さんと一緒につまめるくらいはあると思います」
俺は手際よく、いい状態に焼き上がった肉と野菜を大きめの紙皿に盛り、アルミホイルで蓋をしてから先生へと差し出した。
「え? 真理の分まで? 君はホント気が利くわねえ。ありがとう。先生嬉しくなっちゃうわ。あの子も今頃、一人でお弁当を寂しく食べているかもしれないし。……喜ぶわよ~」
「あらら、それは可哀そうですね」
先生の口から出た「真理」という名に、健太の肩がピクリと反応したのを、俺は見逃さなかった。先生はそれを受け取ると、最後に人差し指を立てて、釘を刺すようにこう付け加えた。
「夜中にも見回りに来るから。男子と女子、ちゃんとルールは守って頂戴ね。……特に、この班は美人しかいないから心配だわ。わかった? 小園くん」
「そこだけ、俺ぇ!?」
健太の、裏返った絶叫が夜の森に響き渡る。
俺と九条さん、そして高階さんと長谷川さんも、これには堪えきれずに吹き出してしまう。
「小園! 私たちのテントに入って来たら、木に縛るからね」
「は、入らんわ! た、たぶん」
「多恵、ロープ持ってきて!」
「わ、わかった」
「まだ、入ってねえし!」
そんな賑やかな掛け合いを背に、先生は満足げに頷き、木々の闇の中へと消えていった。
それから少しばかりの時が過ぎて。嵐が去った後のような、心地よい喧騒の余韻が静かに降りてくる。
次々と片付けられていくテーブルの上。
ランタンの薄明かりの中で、ロープに干された俺のフードジャケットが、所在なげに夜風に揺れていた。
昼間、あの泥に塗れた秘密を吸い込んだ……灰の布切れ。
それをぼんやりと見つめていると、洗い場へ向かおうとしていた高階さんが、俺の隣で足を止める。
「……九条さん、それ、すごく嬉しそうに洗ってたよ」
投げかけられたその言葉に、ドクンと心臓が跳ねる。
振り向こうとした俺の背中を、彼女は「バシッ」と、背中を押すような、力強い音を立てて叩く。
「じゃ、私は食器洗いの手伝いに行ってくるから」
「み……水無月くん、あのね」
「うん?」
「……やっぱいいや、お肉、焼いてくれてありがとう」
「ああ、暗いから気をつけて」
「うん」
高階さんはそれだけ言い残して、一度も振り返ることなく暗がりの先へと消えていった。
一人残された俺は、再び灰色のジャケットへと視線を戻す。
あの事故の日から、少しずつ溶け始めた葵さんとの距離。
ただ、彼女を救いたかった。
怪我なんてしてほしくなかった。
必死に手を伸ばして、受け止めることが出来て。そうして今日、俺は……。
高みにひとり凛と咲く、漆黒の清らかな一輪の花を。
今日、ようやくその花の芯に触れ、この手へ引き寄せることを許されたんだ。
肺いっぱいに夜の森の空気を吸い込み、俺は堪えきれずに小さく喜びを漏らした。
「……はは。じゃあ、炭を消してバーベキュー台を片付けるか」
独り言が夜風に溶けて消える。
背中に残る高階さんの手のひらの熱が、この幸福が夢ではないことを、静かに教えてくれていて嬉しかった。
「ありがとう、みんな。ありがとう、高階さん」
*
ランタンの明かりが、もう届かなくなる。
全ての賑わいが、夜の森の静かさに吸い込まれて消えたとき。
張っていた糸が切れるように、私はその場に力なく膝から崩れ落ちた。
たぶん、見た目は良い方だと思う。
自分でも、少しは自信があった。
でも、そんな私は毎日を友達と騒ぐばかりで、恋なんてこれっぽっちも分かっていなかったんだ。
愚かな私が、ようやく自分の心に気づいた時には……もう、何もかもが遅すぎたから。
「……あんなに大切そうに、ジャケット見ちゃってさ」
「……バカみたい」
ちょっと優しくされると、すぐに嬉しくなっちゃう私。
そんな私の単純なところ、自分でも本当に嫌になっちゃう。
声が震えて、足元の地面にぽつりと熱いものが落ちた。
叩いた右手のひらが、まだジリジリと熱い。
彼の背中の広さと、そこに秘められた想い。僅かな期間だけど、それを仲良しグループの一員として近くで見てきたからこそ、もう自分が入り込む余地なんて一ミリもないってこと。
わかってた。
……わかってたけど、痛いくらい思い知らされちゃったんだもん。
「水無月……蒼、くん……」
膝を抱えて、夜露に濡れた地面を見つめる。
視界が、熱い膜に覆われてじわりと滲んでいく。
──さよなら、私の初恋。
口に出せば、本当に終わってしまう気がして。
でも、こうして終わらせなきゃ、自分の行き場なんてどこにもないことも分かっていて。
だから私は、込み上げる嗚咽を噛み殺して、暗闇の中でただぎゅっと自分を抱きしめることしかできない。




