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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第120話 泥まみれの俺と、手だけ汚れた君

 バイブレーション。

 重なり合った身体の間で繰り返されるその無機な鳴動すらも、今の俺たちを止めることはできなかった。

 

 二人の唇は、決して離れない。

 現実に引き戻されることを頑なに拒むように、より深く、より切実に熱を求め合いながら。互いの体温を、想いを、ひたすらに確かめ合っていたかった。

 堰を切った抑圧が弾けるように、本能のままに求め合う。

 本当は、君がずっと欲しかったんだ。

 左手は彼女の細い腰を強く抱き寄せ、右手はこぼれ落ちた黒髪を梳くようにして、その愛おしい後頭部を優しく、けれど執拗に引き寄せる。

 

 それでも、悲しいかな。

 息の限界という抗いようのない現実が、情熱に溺れていた俺たちの時間を、残酷に分かつ。


「……はぁ、……っ、……すぅーっ」

 銀の細糸が微かに引かれ、ようやく離れた唇の間から、行き場を失った熱い吐息が乱れて漏れた。

 

 間近で見つめ合う彼女の瞳は、潤み、激しく揺れて。

 その紅赤の唇には、まだ俺の熱が残っているような、形容しがたい艶やかさが宿っていた。

 重なる胸の鼓動が、互いの体温を媒介にして共鳴し合っているのに。

 彼女がゆっくりと立ち上がるにつれ、その密やかな振動は、初夏の風にさらわれて儚く消えていく。

 

「蒼くん」


 ふわりと、木々の瑞々しい緑を背負って立ち上がった彼女が、俺に向かって両手を差し出した。

 俺は、その白いはずの掌を迷うことなく掴む。

 さっきまで俺を逃がさないように閉じ込め、柔らかな土へと深く突き立てられていた──泥にまみれたその手を。


 彼女の力を借りながら、俺は両の足に力を込める。

 そうして立ち上がった。


「ちょっとそのまま、しててくれな」

「……う、うん」


 俺は自分の汚れを気にする素振りも見せずに、彼女の周囲をぐるりと回りながら視線を巡らせる。

 ──足首に捻りはないか。

 ──黒いタイツ越しに、打撲や裂傷はないか。

 その白い首筋や美しい顔に、斜面を滑り落ちた際の擦り傷が隠れていないか。

 目を凝らし、俺は彼女の無事を一つずつ拾い集めていく。


 君を守ろうとして、全身を土と腐葉土に汚した俺。

 そして、ただ俺を閉じ込めるために使った両手だけを、まっ黒く汚して佇む、それは美しい君。

 一人は守るために泥を被り、一人は離さないために泥を掴んだ。

 泥まみれの俺と、手だけが汚れた綺麗なままの君。

 

「蒼くん……私の為に……どろどろじゃない」

「いいんだよ、そんなのは些細なことさ。……念のため葵さん、軽く飛んでみて?」


「えっ? こ、こう?」


 言われるがまま、彼女はその場で小さく跳ねてみせた。


「よし、本当に怪我はなさそうだ。本当によかった」


 安堵の息を吐きながら笑いかけると、彼女は震える指先で俺の袖をそっと掴んだ。


「蒼くん、ありがとう」

「どういたしまして」

  

「It's been ten years... no, maybe nine years. I was happy that you called me Aoi. Thank you. I've always loved you.(出会って十年……ううん、あの日から九年ぶりかしら。私を葵と呼んでくれて、嬉しかったよ。ありがとう。私はずっとあなたが大好き)」


 それは、翠雨の森のせせらぎに溶けてしまいそうなほど、小さく掠れた、彼女の独白だろうか。


「ん、ごめん。それでなくても流暢なのに、俯いて小さく言われると猶更聞き取れないや。……何て言ったんだ? 最後『love you』って聞こえた気がしたけど」


 俺が少し首を傾げながら問いかけると、彼女は返事をする代わりに、再びその大きな瞳から大粒の雫を溢れさせる。


「……っ、……ふ、……うぅ」


 声を押し殺して、それでも止めどなく溢れ続ける熱い雫。

 普段の彼女なら、こんな風に人前で……たとえ俺の前であったとしても無防備に涙を晒すことなんて、決してなかったはずなのに。

 俺は、泥で汚れていない右手の甲を使って、彼女の頬を伝う雫をそっと拭った。

 ……唯一、君の鼓動に触れていた右手だけが、泥に汚れず綺麗なままだったから。

 

「今日の葵さんは、……なんだか、ずいぶんと泣き虫だなあ」


 少しだけ困ったように、けれど慈しむような響きを込めて俺が微笑むと、彼女は涙に濡れた睫毛を震わせながら、小さく鼻を鳴らした。


「ん……蒼くんの、せいよ。……ちゃんと責任とってくれないと、大変なことになるんだから。私は重いのよ」

「取らせて、いただきますとも。ええ、喜んで」

「もう……簡単に言うんだから」


 彼女は顔を真っ赤にして俯き、俺の泥だらけの袖を力なく、けれど離したくないというように握りしめた。


 ──ブルルッ、ブルルッ!


「おっと、忘れてた。学校行事だもんな。スマホ、確認しておかないと」

 

 俺は名残惜しさを感じつつも、ポケットの中で震え続けていたスマホを取り出す。

 光る画面に躍り出たのは、現実へと引き戻すための楽しき仲間たちの賑やかな声の数々。

 グループトークの通知は既に十数件を超え、健太や高階さんから次々と写真が送られてきていた。


 健 太:「ここ、いいと思わねえ? 川もすぐそこだしよ」

 高階萌:「こっちも素敵だと思う。ほら見て」

 健 太:「そっちはいいところあったか?」

 健 太:「おーい、蒼、返事しろ~」

 高階萌:「くじょうさーん」

 

 画面の中には、陽光を反射してキラキラと輝く川の風景や、おどけてピースをする健太の姿があって。高階さんと長谷川さんがじゃれ合う姿もあった。

 それらは、ほんの数分前まで俺たちがいた『泥と涙と情熱』の世界とはあまりにかけ離れた、眩しすぎるほどに平和な日常の断片で。

 

「……みんな、川原で楽しそうにやってるみたいだな」


 俺が画面を見せながら呟くと、葵さんは俺の肩越しにその写真たちを覗き込み、ゆっくりと深呼吸をした。

 それが合図なのか。

 彼女の瞳からは先ほどの情熱に帯びた色が、潮が引くように消えていく。代わりに宿り始めたのは、いつもの凛とした高嶺の花(公の姿)としての静かな光。

 けれど。その細い指先だけが、まだ名残惜しそうに俺の袖を掴んだままだった。


 俺は片手でスマホを操作しつつ、通知が鳴り止まないグループトークに言葉を投げ込んだ。


 水無月:「バイト先の店長が言ってたんだけど、河原にテントはお勧めしないらしいぞ」


 健 太:「お、蒼、おせーよ! どこで油売ってんだ?」

 水無月:「すまん、木の根に足を取られて、こけちまってな」

 高階萌:「水無月くん、大丈夫なの?」

 水無月:「大丈夫。ただ、少しばかり泥まみれだけど……」


 俺はスマホの画面にそう打ち込みながら、ふと、隣に立つ彼女に視線を向けた。俺が着ている、君とお揃いのフードジャケットは今や、見る影も無く泥や土に塗れているから。


「……こうしておくと、自然だよな」

「うん……それで、いいと思う」


 高階萌:「あららー、ちなみに九条さんは平気?」

 九条葵:「ええ、私は平気。彼が庇ってくれたから」


「えっ?」

 驚いて俺が彼女を仰ぎ見ると、

「……ごめんなさい。つい、言いたくなってしまって」

 

 彼女はそう囁くと、俺を困らせてしまったことへの申し訳なさと、それ以上に喜びを隠しきれない様子で、にかっと、太陽のような眩しい笑顔を俺に向ける。

「まあ、君がいいなら、いいさ。四人だけのグルチャだし」

「うん……ありがとう」

  

 高階萌:「たはーさすがすぎ! 小園あんたも見習いなさい!」

 健 太:「はいはい、ごちそうさま。そんなことより河原をお勧めしない理由を教えてくれよ、蒼!」


 水無月:「あー、岩があると、背中が痛くて寝られないんだとさ」

 健 太:「なるほどなー」

 高階萌:「それ……わかる気がする」

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