第120話 泥まみれの俺と、手だけ汚れた君
バイブレーション。
重なり合った身体の間で繰り返されるその無機な鳴動すらも、今の俺たちを止めることはできなかった。
二人の唇は、決して離れない。
現実に引き戻されることを頑なに拒むように、より深く、より切実に熱を求め合いながら。互いの体温を、想いを、ひたすらに確かめ合っていたかった。
堰を切った抑圧が弾けるように、本能のままに求め合う。
本当は、君がずっと欲しかったんだ。
左手は彼女の細い腰を強く抱き寄せ、右手はこぼれ落ちた黒髪を梳くようにして、その愛おしい後頭部を優しく、けれど執拗に引き寄せる。
それでも、悲しいかな。
息の限界という抗いようのない現実が、情熱に溺れていた俺たちの時間を、残酷に分かつ。
「……はぁ、……っ、……すぅーっ」
銀の細糸が微かに引かれ、ようやく離れた唇の間から、行き場を失った熱い吐息が乱れて漏れた。
間近で見つめ合う彼女の瞳は、潤み、激しく揺れて。
その紅赤の唇には、まだ俺の熱が残っているような、形容しがたい艶やかさが宿っていた。
重なる胸の鼓動が、互いの体温を媒介にして共鳴し合っているのに。
彼女がゆっくりと立ち上がるにつれ、その密やかな振動は、初夏の風にさらわれて儚く消えていく。
「蒼くん」
ふわりと、木々の瑞々しい緑を背負って立ち上がった彼女が、俺に向かって両手を差し出した。
俺は、その白いはずの掌を迷うことなく掴む。
さっきまで俺を逃がさないように閉じ込め、柔らかな土へと深く突き立てられていた──泥にまみれたその手を。
彼女の力を借りながら、俺は両の足に力を込める。
そうして立ち上がった。
「ちょっとそのまま、しててくれな」
「……う、うん」
俺は自分の汚れを気にする素振りも見せずに、彼女の周囲をぐるりと回りながら視線を巡らせる。
──足首に捻りはないか。
──黒いタイツ越しに、打撲や裂傷はないか。
その白い首筋や美しい顔に、斜面を滑り落ちた際の擦り傷が隠れていないか。
目を凝らし、俺は彼女の無事を一つずつ拾い集めていく。
君を守ろうとして、全身を土と腐葉土に汚した俺。
そして、ただ俺を閉じ込めるために使った両手だけを、まっ黒く汚して佇む、それは美しい君。
一人は守るために泥を被り、一人は離さないために泥を掴んだ。
泥まみれの俺と、手だけが汚れた綺麗なままの君。
「蒼くん……私の為に……どろどろじゃない」
「いいんだよ、そんなのは些細なことさ。……念のため葵さん、軽く飛んでみて?」
「えっ? こ、こう?」
言われるがまま、彼女はその場で小さく跳ねてみせた。
「よし、本当に怪我はなさそうだ。本当によかった」
安堵の息を吐きながら笑いかけると、彼女は震える指先で俺の袖をそっと掴んだ。
「蒼くん、ありがとう」
「どういたしまして」
「It's been ten years... no, maybe nine years. I was happy that you called me Aoi. Thank you. I've always loved you.(出会って十年……ううん、あの日から九年ぶりかしら。私を葵と呼んでくれて、嬉しかったよ。ありがとう。私はずっとあなたが大好き)」
それは、翠雨の森のせせらぎに溶けてしまいそうなほど、小さく掠れた、彼女の独白だろうか。
「ん、ごめん。それでなくても流暢なのに、俯いて小さく言われると猶更聞き取れないや。……何て言ったんだ? 最後『love you』って聞こえた気がしたけど」
俺が少し首を傾げながら問いかけると、彼女は返事をする代わりに、再びその大きな瞳から大粒の雫を溢れさせる。
「……っ、……ふ、……うぅ」
声を押し殺して、それでも止めどなく溢れ続ける熱い雫。
普段の彼女なら、こんな風に人前で……たとえ俺の前であったとしても無防備に涙を晒すことなんて、決してなかったはずなのに。
俺は、泥で汚れていない右手の甲を使って、彼女の頬を伝う雫をそっと拭った。
……唯一、君の鼓動に触れていた右手だけが、泥に汚れず綺麗なままだったから。
「今日の葵さんは、……なんだか、ずいぶんと泣き虫だなあ」
少しだけ困ったように、けれど慈しむような響きを込めて俺が微笑むと、彼女は涙に濡れた睫毛を震わせながら、小さく鼻を鳴らした。
「ん……蒼くんの、せいよ。……ちゃんと責任とってくれないと、大変なことになるんだから。私は重いのよ」
「取らせて、いただきますとも。ええ、喜んで」
「もう……簡単に言うんだから」
彼女は顔を真っ赤にして俯き、俺の泥だらけの袖を力なく、けれど離したくないというように握りしめた。
──ブルルッ、ブルルッ!
「おっと、忘れてた。学校行事だもんな。スマホ、確認しておかないと」
俺は名残惜しさを感じつつも、ポケットの中で震え続けていたスマホを取り出す。
光る画面に躍り出たのは、現実へと引き戻すための楽しき仲間たちの賑やかな声の数々。
グループトークの通知は既に十数件を超え、健太や高階さんから次々と写真が送られてきていた。
健 太:「ここ、いいと思わねえ? 川もすぐそこだしよ」
高階萌:「こっちも素敵だと思う。ほら見て」
健 太:「そっちはいいところあったか?」
健 太:「おーい、蒼、返事しろ~」
高階萌:「くじょうさーん」
画面の中には、陽光を反射してキラキラと輝く川の風景や、おどけてピースをする健太の姿があって。高階さんと長谷川さんがじゃれ合う姿もあった。
それらは、ほんの数分前まで俺たちがいた『泥と涙と情熱』の世界とはあまりにかけ離れた、眩しすぎるほどに平和な日常の断片で。
「……みんな、川原で楽しそうにやってるみたいだな」
俺が画面を見せながら呟くと、葵さんは俺の肩越しにその写真たちを覗き込み、ゆっくりと深呼吸をした。
それが合図なのか。
彼女の瞳からは先ほどの情熱に帯びた色が、潮が引くように消えていく。代わりに宿り始めたのは、いつもの凛とした高嶺の花としての静かな光。
けれど。その細い指先だけが、まだ名残惜しそうに俺の袖を掴んだままだった。
俺は片手でスマホを操作しつつ、通知が鳴り止まないグループトークに言葉を投げ込んだ。
水無月:「バイト先の店長が言ってたんだけど、河原にテントはお勧めしないらしいぞ」
健 太:「お、蒼、おせーよ! どこで油売ってんだ?」
水無月:「すまん、木の根に足を取られて、こけちまってな」
高階萌:「水無月くん、大丈夫なの?」
水無月:「大丈夫。ただ、少しばかり泥まみれだけど……」
俺はスマホの画面にそう打ち込みながら、ふと、隣に立つ彼女に視線を向けた。俺が着ている、君とお揃いのフードジャケットは今や、見る影も無く泥や土に塗れているから。
「……こうしておくと、自然だよな」
「うん……それで、いいと思う」
高階萌:「あららー、ちなみに九条さんは平気?」
九条葵:「ええ、私は平気。彼が庇ってくれたから」
「えっ?」
驚いて俺が彼女を仰ぎ見ると、
「……ごめんなさい。つい、言いたくなってしまって」
彼女はそう囁くと、俺を困らせてしまったことへの申し訳なさと、それ以上に喜びを隠しきれない様子で、にかっと、太陽のような眩しい笑顔を俺に向ける。
「まあ、君がいいなら、いいさ。四人だけのグルチャだし」
「うん……ありがとう」
高階萌:「たはーさすがすぎ! 小園あんたも見習いなさい!」
健 太:「はいはい、ごちそうさま。そんなことより河原をお勧めしない理由を教えてくれよ、蒼!」
水無月:「あー、岩があると、背中が痛くて寝られないんだとさ」
健 太:「なるほどなー」
高階萌:「それ……わかる気がする」




