09
慈しみを忘れた黒い雨が窓を叩き、厳しい雷光が空を染める嵐の夜。
私、古歩道ケントがこれを記す。
これは、人類史に残る偉大な研究の記録である。
その表現が誇大妄想ではないと、この手記に辿り着いた者には理解できるはず。
そうなるように、足跡を残すつもりだ。
私の研究は、この世界に隣接する【異世界】との往来を可能とするものだ。
これを書いている時点で、研究の理論は未完成だ。
理論が完成しても、そのあとに実践が待っている。
成功させる自信はある。
それでも、失敗の可能性は完全には排除できない。
当たり前の話だ。
だが、私以外の誰かがこの手記を読んでいるのなら、
誰かが私の残した道標を辿ってこの部屋に辿り着いたのなら、
やはり私の理論は完成し、研究は最終的に成功に至ったのだろう。
…………
思うに【異世界】へのアプローチには二つの考え方がある。
すなわち、『行く』か『来る』かだ。
私は後者を研究のテーマに選んだ。
なぜか。
理由は簡単で、その方が私の好みだったからだ。
現代の技術を異世界に持ち込んで称賛を受けるよりも、
ファンタジー世界のエルフが東京タワーとラーメンに目を輝かせるような、
そんな物語が私は好きなのだ。
これは『行く』ことを否定しているのではない。
単純な嗜好の話だ。
だが、人生を賭ける研究のテーマには、心から好きといえるものを選びたい。
それこそが、私の出発点であり、原動力であった。
…………
果たして、【異世界】から『来る』ということに前例はあるのか。
日本の天女伝説や稀人伝承、あるいは世界中に存在する亜人・異人との遭遇譚。
各国の文献を調査した結果、私が至ったのは、Yesという答えだった。
しかし、文献の豊富さに反して、それらに関する物証はほとんど残っていない。
僅かに現存する物証を確認してもみたが、どれも偽造された証拠ばかりだった。
なぜ、異世界からの来訪者はこの世界に何も残していかなかったのだろうか。
1つ、仮説を立てた。
魔法使いが現代日本にやってきたけれど、どうしてか上手く魔法を使えない、というシーンを思い浮かべてほしい。
創作では、それを『この世界は魔力が薄い』と解釈していたりするものだ。
私が立てた仮説は、それと似た理屈だ。
つまり、【異世界】の住人が存在するための、ある種の要素が、この世界には不足しているのではないか。
便宜上、それを魔力と呼ぶことにしよう。
魔力が担保するのは、『生存』ではなく『存在』だ。
【異世界】の住人がこの世界にやってきても、魔力の不足により、長くは存在できない。
物証が残らないのも、いずれは存在を保てなくなり、最終的には消滅するからだ、と。
そう仮定を組んだのだ。
もしこの仮説が真であれば、研究の方向性を調整する必要があった。
たとえ『来る』方法が確立されたとしても、その存在を維持できなければ片手落ちだ。
仮説を裏付ける文献や証言は早い段階で発見できた。
この世のものとは思えない異形が、時間の経過により突如として消滅する。
そういった事例が複数発見できたのだ。
構築中の理論の修正が必要だった。
私はなにも、異世界人を呼び出して存在を消し去りたいわけではないのだ。
…………
新たな方針として、中継地を作ることにした。
【異世界】に直接続く道を探すのではなく、クッションを挟むのだ。
言うまでもなく、中継地には魔力が存在していることが望ましい。
そこから『命綱』を伸ばせば、現世における異世界人の存在時間を伸ばせるかもしれない。
実のところ、その方針を考えた時点で、ある程度の目星はつけていた。
伊邪那岐伝説の黄泉平坂、都市伝説のきさらぎ駅、あるいは墳丘の地下通路。
つまりそれらが、【異世界】に繋がる【異界】のサンプルだ。
幸いにも研究対象となる証言や文献は多い。
必要なのは呪文か、儀式か、それともプログラムか。
多方面から研究を進める必要がある。
時間を掛けて、ゆっくり、しかし確実に調べていこう。
…………
PC上の研究記録を破棄した。
以降、理論的な総括は紙ベースで保存する。
電子データは、ヤツらに見られている。
PCには構築済みのアプリケーションだけを残す。
ベースとなる理論がなければ、リバースエンジニアリングも難しいはず。
ヤツらにどの程度の知能があるのかはわからない。
苦肉の策だが、これで時間を稼げる。
…………
中継地の構築に成功した。完成には10年の歳月が必要だった。
我々の世界の下層に、人間の生存できる空間を確保した。
物理的な意味での上下ではなく、次元のレイヤが異なる領域だ。
野球場3つ分ほどの広さで、居住用の住居を30用意してある。
空間の定義には呪文を混ぜ込んだプログラムコードを利用した。
今の段階では、構築した中継地に赴くことはできない。
PCを介して中継地の観測ができるだけだ。
だが、私がその空間を観測したとき、ヤツらは既にそこにいたのだ。
地球上の生物ではないと、見た瞬間に理解した。
あの悍ましく濁った黄色い瞳がそう伝えていた。
無明の闇の中をヤツらは這い回っている。
粘液にぬらついた白い皮膚。生理的な嫌悪感を催す奇形の胴。
頭部は禿げ上がり、肉の芽がでこぼこと盛り上がっている。
望まれぬ赤子たちよ! 狭間の落し子たちよ!
ヤツらは、確かに、私を見たのだ!
ヤツらは世界と世界の狭間に住みながら、【外】があることに気づいている。
あのとき、私は、ヤツらと、視線を交わしたのだ。
ヤツらは、【こちら側】に、来ようとしている!
……しかし。
その存在は私にとって福音でもあった。
ヤツらもまた、魔力が無ければ長くは存在できない生命だ。
それがあの闇の空間で、人の一生よりもずっと長い時間を生き続けている。
わかるだろう?
あの中継地には、ヤツらの存在保証――魔力が存在するのだ。
あそこであれば【異世界】の住人を招き入れることができる。
計画は続行だ。
私は、私の夢を、諦めることができない。
…………
新たな呪文とプログラムを構築した。
我々の世界から中継地に移動するためのプロトコルだ。
中継地は我々の世界よりも下層に存在する。
このプログラムは、概念上の穴を空けるためのものだ。
落とし穴を想像してもらいたい。
つまり、プログラムを起動させた対象者は、中継地へ『落ちて』いくのだ。
落ちてしまえば、登ることはできない。
移動は、一方通行になる。
私は、このプログラムを―~――~―~~
…………
頭痛。
目眩。
脳の裏側から、ヤツらが見ている。
…………
私は、【落とし穴】を無差別にバラ撒きたかった。
どうしても。どうしても、そうするべきだと思えてしかたなかった。
あの無明の闇の底に、あまねく人々を導きたかった。
……だが。
結局、私は、プログラムの受け取り手にある種の『ふるい』をかけた。
特定の素質を持つ人間だけがその存在に気づけるように新たな呪文を構築した。
素質とは、つまり、魔力に対する親和性だ。
プログラムの外観はゲームという形にして覆い隠してある。
素質のある者だけが、秘匿されたPVに気付き、その存在を知ることができる。
どうしてそんな仕様にしたのか、理由はわからない。
わからないが……そうしたのは、やはり、私の意思だ。
そう、信じたい。
…………
このところ、時間の流れが曖昧だ。
また新しいプログラムを構築した。
私はそれを【梯子】と【階段】と呼んでいる。
それらは【落とし穴】を改変したものだ。
どちらも中継地から我々の世界に戻ってくるためのプログラムだ。
【梯子】は【階段】の試作品で、利用できる生物のサイズにかなり制限がある。
子供ならともかく、大人の人間が利用することは不可能だろう。
だが、これを実行すれば、次元に開いた穴から中継地を覗くことができる。
プログラムを格納したPCは私のオフィスに置いておくつもりだ。
いずれはこの手記を辿るための足跡になってくれるだろう。
問題は【階段】だ。
おそらくこれが、中継地から我々の世界への脱出路になる。
複数人の大人が同時に利用することを想定して構築したプログラムだ。
容量のバッファは大きく取ってある。
ヤツらが利用するのにも、十分なサイズがあるだろう。
設置場所はよく考えなければならない。
都市部は論外だ。
人の営みからなるべく離れた場所を探さなくては。
…………
阿鍵山の山中に放棄された山小屋を見つけた。
隠棲した猟師が使っていたものだが、元の持ち主が逝去して久しい建物だ。
細い道が通っているが、そこも含めて私有地だ。
村道からの分岐点はフェンスで封鎖されている。
今さら訪れる者はいない。
一般の登山道からも遠く離れている。
ここに【階段】のPCを設置することにした。
…………
研究の開始から20年が経過した。
計画を次の段階に移す。
【落とし穴】は30人の素質ある者がダウンロードしている。
転送先は中継地の建物の中に設定しておいた。
それぞれが別の建物に落ちていくはずだ。
ヤツらが入り込まないよう結界を張ってある。
建物の外に出なければ、ひとまず安全だろう。
もっとたくさんの【落とし穴】をバラ撒けと、脳の奥から声が続いている。
それが私の思考なのか、もはや私自身も判断がつかない。
それも、今さらだ。
明日の0時に【落とし穴】のロックが外れる。
選ばれた30人は中継地に落ちる。
魔力との親和性を持つ彼らが、あの空間でどんな反応を示すのか。
それを確認したら【階段】を動かして彼らを元の場所に戻す。
たったそれだけの、簡単な実験だ。
…………
0時。
この世ならざる歓喜の声を聞いた気がした。
…………
想定外の事態になった。
状況を整理しなくては。
30人のうち29人は、中継地に落ちても特に変化が見られなかった。
変化がないのは予想通りのことだ。
魔力に親和性があるといっても、それはあくまでも体質に過ぎない。
我々の世界に魔力が存在しない以上、その扱い方を知っているわけではないのだ。
しかし、たったひとりだけ、明らかな変化のあった者がいた。
それは、京奈院ラヴを名乗る少女だった。
ヴイチューバーというらしい。
動画配信とやらを生業としているのだとか。
正直、世の中の流行り廃りというものが、私にはよくわかっていない。
20年前には存在しなかった職業だとは思うのだが。
いずれにせよ、彼女の存在を見落としていたのは痛恨だった。
中継地に落ちた京奈院ラヴは、生身の姿ではなかった。
頭に犬の耳が生えた、アヴァターの姿になっていたのだ。
その上、彼女は自身の状況をネットワークに配信しているときた!
言うまでもなく、【落とし穴】にそんな機能はない。
あれはただ単に起動者を中継地に引きずり込むだけのプログラムだ。
つまり……【変身】も【配信】も京奈院ラヴ本人の能力だということ。
間違いない。
――京奈院ラヴは、魔法使いだ。
自覚があったのか、それとも無自覚だったのか。
生まれつきなのか、それともきっかけがあったのか。
意図して魔法を使っているのか、それとも無意識の願望の具現なのか。
使える魔法はこれだけなのか、それとも他にもできることがあるのか。
わからないことだらけだ。
だが確かに……
私のように呪文やプログラムに頼ることもなく、彼女は魔力を扱っている。
それはまさしく、魔法使いと呼ぶほかない。
年甲斐もなく、胸が高鳴る。
もしも。
もしも、彼女の協力を得ることができるのなら。
私の夢は、また一歩、実現に近づくのではないだろうか。
…………
しかし、想定外の事態はもうひとつあった。
こちらはもっと深刻だ。
【階段】が動かないのだ。
自宅からリモートで操作しようとしたところ、反応が返ってこなかった。
原因は不明。
遠隔でのリカバリーは不可能だった。
現地に行くしかないだろう。
現在時刻は午前9時。
車を飛ばせば10時には山小屋に着くはず。
…………
黄色い瞳が、私を呼んでいる。
…………
出発の直前、ふと気づいたことを記しておく。
私は、なぜ、【異世界】の存在を確信しているのだろうか。
私の持つ【異世界】のイメージは、どこから得たものなのだろうか。
なぜ、【異世界】の存在を前提として、中継地を探そうと思い立ったのか。
どうしてか、ゆびがふるえる。
なにか見落としているのではないか。
でも、なにを?
わたしは、わたしのゆめは、ほんとうに――~―~――
…………
いかなくては
…………