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グランドファザー

 一年ぶりに墓石を磨きながら、俺はじいちゃんのことを思い出す。

 俺がじいちゃんのことを思い出すとき、真っ先に思い出すのはその獣みたいに毛むくじゃらな腕だった。

 じいちゃんは頭の毛もすねの毛も多いわけじゃないのにどういうわけか腕の毛だけは信じられないほど量が多くちりちりで、俺はよく眠っているじいちゃんの腕の毛をむしり取ってみては親父にぼこぼこにされていた。

 じいちゃんが死んだのは俺が中学校に上がるか上がらないかといった頃だったから、もう十七、八年くらい前になるのか。

 腕の毛をむしっていたのがつい去年のことのような気がしていたから、俺は意外に思う。そういえば去年もこうして、墓石を磨きに来たときに同じことを思い出したはずだ。。

 じいちゃんは親父と違って乱暴者じゃなかったし、怒ったところをほとんど見たことがなかったけど、まれに怒ったときは物凄く怖かった。

 俺はこの年になっても最後にじいちゃんが怒ったのを見た時のことを忘れることができない。

 あれはじいちゃんが死ぬ前の年の、夏の真っ盛りのことだった。あの日、しきりに鳴いていた蝉の鳴き声を覚えている。俺はそれをどういうわけか、いつもの鳴き声とは全く違う、耳の奥にへばりついた特別な記号として記憶していた。

 じいちゃんは俺のことをゆーと呼んで可愛がってくれた。

 親父はじいちゃんがすぐ俺を甘やかすと言って、あまりじいちゃんが住んでいる隣町まで連れて行ってくれなかったが、死んだ母さん(親父が再婚する前の母さんだ)は親父に内緒で俺のことをよくじいちゃんの家に連れて行ってくれた。

 血の繋がりのない母さんが、親父の親父であるじいちゃんの家に俺を連れて行くというのも、思えば変な話なので、ひょっとするとじいちゃんが母さんに頼んでいたのかもしれない。

 俺は月に二、三度はじいちゃんの家に行って、アイスクリームを買う金を貰ったり、じいちゃんと下手くそな将棋を指したりした。

 その日、いつものように小学校から戻った俺は、母さんと一緒にじいちゃんの家にやってきていた。親父の帰りが遅くなる日だったから、俺と母さんはじいちゃんの家で夕食をご馳走になることになった。

 だが、いつも夕食を作るはずのばあちゃんが、寄合いに行ったきりいつまで経っても帰ってこなかった。

 蝉の鳴き声も弱くなり始め、すでに夏特有の燃えるような夕焼けが辺りを包み込んでいた。


「おかしいな、いつもなら五時前には必ず帰ってくるんやけど……」


 縁側から外の方を眺めながら、じいちゃんは心配そうに、そんな言葉を呟いた。

 もう三十分待ってから、一緒に寄合いに出ていたばあちゃんの友達に電話したら、もうとっくに帰ったはずだというので、すぐに母さんが警察に電話した。

 はたして、ばあちゃんは警察に保護されていた。

 聞くところによると、ばあちゃんは寄合いの帰り道の途中、白昼堂々とひったくりを行った男に手提げ鞄を奪われ、地面に座り込んでいるところを通りかかった近所の交番に勤務している警察官に保護されたということだった。

 あまりのショックに、自宅の住所と電話番号が飛んでしまったというばあちゃんを母さんと一緒に引き受けに行き、ばあちゃんを連れて家に帰り着くと、そこには鬼の形相をしたじいちゃんが立っていた。

 俺はその時まで、イマイチあの凶暴な親父の親父がじいちゃんだということを信用できないでいたが、その表情を見た瞬間に親父の親父はやっぱりじいちゃんだったと確信した。

 その顔は親父が何かやらかした俺を見るときの表情にソックリだったのだ。

 帰ってきたばあちゃんに犯人の特徴を詳細に聞き出したじいちゃんは、鬼の形相をしたまますっかり暗くなった外へ寝巻きに裸足のまま駆け出してしまった。俺と母さんは呆然と、駆けていくじいちゃんの後ろ姿を眺めていることしかできなかった。

 三時間ほどで犯人探しを諦めたじいちゃんは家に帰ってきたが、俺とばあちゃんと母さんはその三時間を、みっちり警察にじいちゃんの捜索願いを出すかの会議に当てた。

 別にボケちゃいなかったが、確かにその時のじいちゃんの怒り方は尋常じゃなかったから、何かあってからじゃ遅いと思ったのだ。例えば誰かを傷つけたり、傷つけられたりした後じゃ。

 イザというときに身内に向ける、周囲が驚くほどの親父の甘さは、おそらくじいちゃんに似たのだろう。

 結局、その日はそのまま戸締りをきちんとするように伝えて俺と母さんは家に帰った。

 その事件によってじいちゃんの家に行っていたことがバレた母さんは親父に本気で怒られて、俺はいつものように数メートル殴り飛ばされた。

 じいちゃんから俺宛に電話が掛かってきたのはその夜のうちだった。俺が電話に出ると、じいちゃんはひそひそとまるで子供みたいな声を出して話し始めた。


   ※


「ゆー、ちゃんと言われたもん持ってきたか?」


 事件から一週間が経ってさすがにじいちゃんの表情は元の穏やかなものに戻っていたけど、その表情には固い決意のようなものが垣間見えた。


「ばあちゃん怪我も無かったんだしさ、こんなことしなくていいんじゃないの?」


 俺はじいちゃんの怒りの表情が脳裏に焼きついていたから恐る恐る言ったが、じいちゃんは怒るでもなくこう言った。


「ばあちゃんに怪我があったとか無かったとか、そんなことはどうでもいいんよ。ただ、ばあちゃんはひったくりにあって嫌な気持ちになったやろ。驚いたやろうし、もう人が信用できなくなったかもしれん。俺はそれが許せねんだよ」


 その頃の俺にはじいちゃんの言葉がよく分からなかったから、とりあえずふうんと言っておいた。

 じいちゃんがそれ以上何も言わないので、とりあえず俺は持ってきた金属バットと懐中電灯をじいちゃんに渡した。

 じいちゃんから掛かってきた電話は、犯人を探すから一週間後の放課後にバットと懐中電灯を持ってちょっと付き合え、といった内容だった。

 ひったくり犯を捕まえるのに小学生を連れて行くなんて何を考えているんだと俺は思ったが、面白そうなんで、学校を終えて家に帰ると、今夜はカズヤの家に泊まりに行くと言ってバットを持って家を出たのだった。

 それから十数年後に俺は女子高生と同じように悪者を探して夜中に徘徊することになるのだが、この時の俺はもちろんそのことを知らない。ひょっとすると俺は深夜徘徊に誘われる星の下に生まれたのかもしれない。もちろん全然嬉しくない。


「じゃあ、いっちょ行くか」


 俺とじいちゃんは並んで歩き出した。はたから見ると、仲の良い孫とじいちゃんが公園で野球の練習をした帰りにしか見えないだろう。

 暗くなってくるとじいちゃんは懐中電灯を点け、片手で俺の手を取った。じいちゃんの腕の毛がふさふさと俺の腕に当たって気持ちいいような気持ち悪いような感じだった。


「なぁ、じいちゃん」

「なんだ?」

「もしひったくりの犯人が現れたとしてさ、どうするの?」

「もちろんバットでボコボコにする。お前の親父がよくやっとったやろ」

「知らないよ、いくらなんでもそこまでしないと思うけど……」

「そうか、あの頃はまだお前が生まれてなかったな」


 そんな会話をしながら歩き回る俺とじいちゃんだったが、十五分もすれば最初の緊張感は無くなって、ただの散歩みたいな雰囲気になっていた。

 蝉がどこかすぐ近くで鳴いていた。なんとなく、俺はその鳴き声と、じいちゃんと一緒にこうして歩いたことをいつか思い出すことがある気がしていた。

 俺はふと思い付いて、ずっと前からじいちゃんに聞きたかったことを、この機会に聞いてみることにした。


「じいちゃんもさ、やっぱり父ちゃんみたいに強いの?」

「どうしてそんなことが気にするんか?」


 前を向いたままのじいちゃんの表情は変わっていなかったけど、俺は子ども特有のアンテナ感度でちょっとじいちゃんが怒っているんじゃないかと感じた。


「別に、なんとなくだけど……」


 俺がそこまで言ったとき、じいちゃんがふと足を止めた。じいちゃんの顔を見上げると、じいちゃんは前方を注視していたので、俺もそちらに視線を向けた。

 一瞬の出来事だったので、俺には目の前で何が起こったのか分からなかった。

 前方の街灯の下を、いつからそこにいたのか中年のおばさんが歩いていて、その後ろから自転車に乗ってやってきた男がおばさんの鞄を引っつかむと、そのまま奪い取ってしまったのだ。

 自転車は俺とじいちゃんのすぐそばを猛スピードで横切って行った。

 その間、俺とじいちゃんは全く動けず、ただじっとしていた。ただ俺が握っていた手に、じいちゃんがぐっと力を込めるのをその時感じたのだった。


「行っちゃったね」


 どのくらい時間が経ってからか、俺は少しだけ振り返り、じいちゃんにそう呟いた。中年のおばさんはもうとっくに走っていなくなってしまっていた。


「行っちまったな」


 じいちゃんはそう言って、ようやく強く握り続けていた手の力を緩めた。どちらからともなく、俺とじいちゃんはじいちゃんの家へと帰り始めた。

 コンビニに寄ってカールを買って、俺たちは再び家へ向けて歩き出した。カールを開け、俺とじいちゃんで交互に袋に手を突っ込んで食べていると、じいちゃんは言った。


「じいちゃんはよく思うんだよ。人間っていうのは、別に強くなくてもいいんだって」

「なんで?そんなの強い方がいいに決まってるじゃん」

「そういう気持ちも分かるんだがな、強くなればなるほど、いろんなものを忘れがちになると思うんよな。そんな忘れがちなことこそ、じいちゃんは一番大切なものだと思うんよ。よく分からねーけど」

「ふーん」

「弱い奴の気持ちとか、分かんねーんだよな、ああいう奴は。お前の親父も、あれ分かってねーよ」

「じいちゃんは分かるの?」

「あぁ、じいちゃんは分かるぞ」

「じいちゃんは弱いから?」


 そう言うとじいちゃんはにかっ、と黄色い歯を見せて笑いながら俺の顔に腕毛をこすり付けてきた。いや本気で痛いから。

 その夜、俺はじいちゃんの家に泊まってじいちゃんの布団でじいちゃんと一緒に寝た。

 じいちゃんの腕の毛が当たってなかなか眠れなかったけど、じいちゃんの毛が当たっている部分は暖かくてなんだか俺は安心したりもした。

 ひったくり犯は次の週に無事捕まったけど、じいちゃんはそんなことどうでもいいみたいだった。じいちゃんの中であの件は俺と一緒に犯人を探して歩いた夜に終わってしまったみたいだった。

 それから一年経ってじいちゃんは肺がんになって死んでしまった。最後の言葉は「風邪引くな」だった。


   ※


 合わせていた手を離して顔を上げると、じいちゃんの墓に供えられている菊の黄色が目に痛かった。

 男二人の墓参りだ。菊以外で墓に供える花を知らない俺たちはいつも大量の菊を買い込からじいちゃんの墓前にやってきた。

 やがて親父も合わせていた手を離し、顔を上げた。親父の顔はあの時のじいちゃんの面影はあるが、決して似ているとは言い難かった。


「じいちゃんってさ、昔はどんな人だったの?」


 俺が聞くと、親父は顎の辺りを押さえてうーんと唸り始めた。でも親父がそうやって絞りだした答えは、やっぱり俺の想像した通りのものだった。


「強かったよ。俺なんか足元にも及ばないほど」

「無敵だな」

「あぁ、親父は無敵だった」

「じいちゃんの腕の毛、凄かったな」

「あぁ、熊みたいだった……」

「……」


 俺と親父は二人並んで帰り始めた。ふと思いついて、俺は小走りで親父の先まで行き、その場にしゃがみ込んだ。


「何やってんだお前?」


 親父が言うので、俺は前を向いたまま言ってやる。目に映るのは、どの墓にも等しく供えられた色とりどりの花々だ。


「乗れよ、おんぶしてやるから」


 親父は俺の尻に無言で蹴りを入れてから、また歩き始めた。


「痛ぇ……!」六十過ぎた男の蹴りじゃねぇ、と俺は歯を食いしばるが、同時に俺は笑ってもいる。


 俺の中に親父とじいちゃんの血が流れていると考えると、それだけで俺は誰にも負けないような気がした。今からでも何だってやれそうな気がしたんだ。


「リリィと母さん、もう帰ってるみたいだな」


 家に着くなり親父が言うので玄関に目をやると、母さんのブーツと特注したリリィのくたびれたスニーカーが並んでいた。

 シチューの匂いが玄関まで漂ってきていた。リリィも台所にいるようで、二人がなにやら楽しそうに話をしている声が同じように玄関まで聞こえてきていた。


「ただいま~」と俺が中に声を掛けると、すぐにどたどたと騒がしい足音が聞こえてきた。


 じいちゃんがこいつを見たら腰を抜かすかもな、そんなことを思いながら俺はやってきた弟の胸に勢いよく飛び込んでみたら、その勢いで脇を抱えられたままぐるぐると回転させられてしまった。


「おかえり~」

「おいリリィ、もうちょっとゆっくり回せ!」


 狭い玄関の中を高速で回転する視界の片隅で、長いこと見てない気がする親父の笑い顔を見た気がした。それは老いぼれて楽しげで、どこか見覚えがあって。

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