11.バレンタイン・ガール
陽が傾いて夕暮れの空に変わり、マンションや住宅の窓の灯りがぽつぽつと灯り始めた。
日中は春を思わせる暖かさであったのに、日が暮れると冬の寒さが一気に戻ってきたようだ。コートの襟を立てずにいられないほどの寒さである。
「ほら、マツリ。きちんと前、閉じなくちゃ」
マツリのコートのボタンが留まっていないことに気づいたエイジは、彼女を「メッ」と叱るように眉を片方上げた後、自分のコートの襟をつまんだ。
「エイジ君だって、コート開いてるよ」
すかさずマツリも彼に負けずに言い返した。つん、とすました顔をして顎は上向き、彼がしたのと同じように自分のコートの襟をつまむ。
「あ、ホントだ」
エイジが自分の胸元を見下ろして目を丸くしたので、可笑しくなったマツリは声をあげてはしゃいだ。
「エイジ君ったら、おっかしいー。自分のことには全然気づいてないんだもん!」
「あったりまえだろ。世話が焼けるお姫様をエスコートしなくちゃいけないんだからサ。おかげで自分のことを忘れちゃうんだゼ。オレの苦労を少しはわかってくれよ」
「世話が焼けるお姫様、って、わたしのことーっ?」
マツリが口を尖らせたのを見て、エイジはニッと笑った。
「他に誰がいる、っつーの?」
いたずらっぽく口の端を上げる。
「ぶうーっ!」
マツリは、ますます口を尖らせてホッペを膨らませながらも、横に並んで歩く彼を見上げた。
――フフッ、大好き!
自分をお姫様扱いしてくれる、王子様みたいに優しくて、ちょっと意地悪で素敵な彼。
エイジのことを本当に大好きなんだなあ、なんてことを、マツリは改めて自覚する。
いつもの会話。いつも見ている彼の横顔。いつもの楽しい、彼とのひと時。
マツリは、幸せな気持ちで噛みしめた。
でも、とうとうお別れの時間が来てしまった。今日の楽しい時間は、これでお終い。
どんなにカメのように歩みを遅くしても、公園からマツリの家までは遠くはない。五分もかからないのだから、あっというまに着いてしまう。
二人の視界にマツリの家が少しずつ大きくなって入ってきた。
――あーあ、やだな。もう着いちゃう……。
マツリは、指を絡めあっていたエイジの手を強く握りしめた。
いつでも会える距離だとわかっていても、会えない間の時間のことを考えると、やっぱり寂しい。
授業中のときでも、親友の愛子と一緒にいるときでも、何気ない、ふとしたきっかけでエイジを思い出してしまうことがあるのだ。
マツリがお揃いのミサンガをつくった本当の理由は、それだった。二人をつなぐものを身近に置いておけば、寂しい気持ちが芽生えても慰められると思ったからだ。
恋をしている女の子は、いつも不安でたまらないのだ。彼と気持ちが通じ合っていても、それを確かめずにはいられない。
だから、何でもいい。彼との絆を信じられる何かを、証が欲しい。
彼は、女の子の不安な気持ちを知っているのだろうか。
――もーう、わたしってバカなんだから。ワガママ言っちゃダメ。
マツリは、思い切るように頭を横に振った。
――ちゃんと笑って、マツリ。エイジ君に心配をかけないで済むように、ちゃんと笑うんだよ。よおしっ!
そして、顔の筋肉をフル動員させてエイジにニコッと微笑みかけた。
「ありがとう、エイジ君。今日も楽しかったよ」
「どういたしまして、お姫様」
エイジもマツリの手をギュッと握り返した。
「オレも楽しかったよ。マツリからプレゼントをもらえたしね」
空いている左手首を口元に寄せて、マツリからもらったばかりのミサンガに「チュッ」と音を立てて口づける。
――キャッ……!
まるで自分自身がエイジにキスされたような気がして、マツリはあわてて視線をそらした。言わずと知れた、エイジからマツリへのメッセージだ。
――静まれ、心臓っ。
胸を押さえて一生懸命息を吸っても、「ふう、ふう」と息を漏らしてしまう。
すると、エイジは、赤い顔であたふたとうつむいたマツリに、さらに追い討ちをかけた。
「このくらいでテンパってどーすんだよ、マツリ? さっきオレに言ったこと忘れちゃったの?」
「わっ、忘れてないけど……忘れてないけど……ちゃんと約束したから……」
再びマツリが自分のスカートに手をやってニギニギしだしたので、エイジは苦笑いをしないでいられなかった。
――やれやれ、あてにならない約束だナ。
マツリが初キッスを決意した、といっても、イザその時が来たら、きっと自分はマツリに何もできないだろうということが、彼には簡単に予測できた。
さっき公園で彼女が泣いているのを見た瞬間、身を切られそうな思いがしたからだ。彼女に泣かれる方がツライ。拒絶されて突き飛ばされてしまう危険性だってある。
彼女が本当に自分の唇を受け入れてくれる気になるまで、何ヶ月でも何年でも待つつもりだ。ミサンガが切れても切れなくても関係ナイ。今までと同じように、ひたすら耐えて待つ、のみ。
だが、今までと違うことが一つだけある。彼女を勝ち取るために、エイジは自分自身と戦いを始めるつもりであった。
これからは、もっと積極的に彼女にアピールしなければダメだ。どんなに自分が彼女を大切に想っているのかを、にぶチンの彼女にわからせてやることにしたのである。
よりいっそう、今まで以上に忍耐強さが要求されるであろう。だから、自分自身との戦いなのだ。
――うおっしゃー、燃えてきたゼっ。面白くなってきたじゃん!
エイジの闘争本能が彼の内側でメラメラと燃え上がった。もちろん、下を向いてモジモジしているマツリは、火がついた彼の闘志を知る由もない。
何が何でも、やってやる! そうだ、オレはしつこいんだ! なんてたって、この恋が始まるのに六年も、オレの人生の半分もかかったんだからな!
彼女との初キッスを簡単にあきらめるもんかっ!
エイジは、意を決すると歩みを止めた。
「マツリ」
「えっ、なあに、エイジ君?」
マツリの家まで目と鼻の先というところでエイジが不意に立ち止まったため、マツリは驚いて顔を上げた。
――あっ。
真っ直ぐな強い視線を送る彼と目があう。彼は、マツリから目をそらさずにポツリと言った。
「オレもプレゼントがあるんだ」
エイジは、コートの胸ポケットに手を伸ばし探ると白い紙を取り出した。マツリの手を取り、彼女に握らせる。
それは、レース模様の箔押しがついた四角い封筒であった。
「エイジ君、これ……?」
「いいから開けて見てよ。中を見ればわかるから」
「うん……」
マツリは、エイジに促されたまま、破れないように慎重な手つきで封を開けた。封筒の中には薄いピンク色のカードが入っている。カードを封筒から取り出してゆっくり広げた。
「あ……!」
マツリは声をあげた。
赤いインクで文字が綴られていたのだ。
『Matsuri,Be my Valentine Girl for me forever.From Eiji』
文字の線の端っこが滲んでいるから印刷ではない。一文字ずつ丁寧に記されている。初めて見たけれど、エイジ自身がインクを滴らせて書いたものであることに違いない。
「エイジ君、これ何……? なんて書いてあるの……?」
「このカードは、オレからマツリへのバレンタインのプレゼントだよ。オレが育ったアメリカでは、日本みたいにチョコを送りあうんじゃなくって、カードを送る習慣があるんだ」
「え、そうなの? 知らなかったな……なんか不思議……」
きょとん、としてカードを見つめていたマツリの前に向かい合うと、エイジはかがんで彼女の顔に自分の顔を近づけた。
ドキリ。かすかに頬と頬が触れる。
――え、き、キスされちゃう……?
あまりにも近すぎる唇の距離に緊張して、マツリの肩は強張った。
「バレンタインは、バレンタインという意味の他に、別の意味があるんだ」
予想通りの反応をした彼女に対してガックリと気落ちしながらも、エイジはマツリに視線を置いたまま彼女の手を握り自分の胸の上に導いた。
「アメリカでは、特別親しい人にだけカードを送るんだよ。バレンタインとは、バレンタインのときにカードを送る相手のこと、という意味もあるんだ。だから、オレの場合……」
彼女の手をしっかり自分の胸に押し当てた。迷わず心臓の真上の位置に二人の手が重なるように置く。
それから、二人の手が離れないように注意を払いつつ一歩後ろに下がり、エイジは彼女の前に片膝を立てて跪いた。
「エイジ君……!」
マツリは、ハッとして自分の前に跪いた彼の目を見た。
「誓うよ、マツリ。オレのハートにウソ偽りなんか絶対ナイ。バレンタインにカードを送りたい特別な女の子は、マツリ一人だけだ。オレのバレンタイン・ガールはマツリだけだよ、ずっとね……」
エイジの薄い茶色の瞳が暗がりの中でも揺れて輝いているのが、マツリには見えた。
マツリの胸は熱くなった。彼はマツリが欲しいと願っていた言葉を口にしたのだ。彼女への変わらぬ想いをはっきりと誓ったのである。
あの夏の日、花火大会の夜に、二人の気持ちを確かめ合ったとき以上に感じた彼への想いが、マツリの胸にグングンと注ぎ込まれていく。
「うん、エイジ君、わたしも……!」
マツリは、跪いた彼の胸の中に勢いよく飛び込んだ。ほっそりと引き締まった彼の背中に手をまわす。
「エイジ君、大好き。大好きだよ、ずっと……何があっても……」
胸が一杯になって想いが溢れ出した。
「うん、マツリ。わかっているよ」
エイジも彼女の小さなカラダを抱きしめた。
「マツリがいてくれれば大丈夫。何があっても平気だよ、オレも……」
「エイジ君……」
――うん、もう大丈夫。わたしも平気だよ、エイジ君。
「あ、あのね、エイジ君。お願いがあるんだけど、いいかな……」
マツリは、彼の胸から距離を置いて顔を上げた。
「何?」
「もう一回、公園に行きたいの、今すぐ。それで、一周したら帰るから……もう少し、エイジ君と一緒に歩きたいの。ダメ、かなあ……?」
「マツリ……」
エイジは、腕の中にいる彼女の黒目がちな瞳に魅入られたように、身動きが出来なくなってしまった。
電灯の明かりの下で見下ろした、彼女の丸いホッペの淵が赤かった。精一杯の彼女のワガママだ。
彼女にワガママを言われて断れるほど、エイジはオトナではない。しかも、自分と離れたくないと彼女は言っているのだ。断れるハズがない。
「もちろん、喜んで」
エイジは、両手をつかって彼女のカラダをやさしく引き上げると同時に自分も立ち上がった。マツリの手を自分の腕につかまらせる。
「何周だって付き合うよ、お姫様の気が済むまで」
茶目っ気たっぷりに片目を閉じる。
「うん、ありがとう、エイジ君!」
マツリは、彼の肩にピッタリと頭をくっつけた。
こうして二人でいれば、いくら寒くても平気だ。
マツリとエイジの二人は、仲良く寄り添って今来た道を戻り始めた。
「あー、素敵ねえ。まるで映画のプロポーズみたい……」
若いカップルが寄り添って遠ざかっていく後ろ姿を、胸の前で両手を握ってウットリと眺めている女性がいた。
彼女は、マツリのママであった。そろそろ帰ってくるであろう娘を心配して、ヤキモキしながら家の前で待っていたのだ。
そうしたら、ロマンチックな雰囲気たっぷりにマツリがエイジと一緒に帰ってきたため、急いで家の敷地内に飛び込んだ。
喜ばしいことに、娘の、バレンタインで彼のハートをガッチリ・キャッチ作戦が成功したようである。
彼が娘の前に跪いて何かをしているのを、壁に隠れて見守った。
もちろん、マツリの弟、タカヒロも一緒だ。彼もまた、ちょうど外から帰ってきたところをママに捕まって巻き添えを食らったのだ。
「ウフッ、プロポーズ・シーンの写メ、ばっちり撮っちゃった! またパパに送っちゃおう、っと!」
ママは、鼻歌を歌いながら、ピッ! と携帯の送信ボタンを押した。
ルンルン気分の母親を見て、タカヒロは大きなため息をついた。
「母ちゃん、父ちゃんと姉ちゃんで遊ぶのイイ加減やめたら? 父ちゃんがスっ飛んで帰ってきても知らないゾっ」
「ああ、パパね。まだ言ってなかったかしら? 明日帰ってくるって! 急に休みが取れたって、昼に電話が来たの」
「へっ……?」
「実はね、前に撮ったお姫様抱っこの写メ、パパに送っちゃったのよ。ちょうど買い物から帰ってきたら、美味しい場面に遭遇しちゃたから! 激写しちゃったのよね。パパも感動したらしくって、エイジ君のこと色々尋ねてきたのよ。ホント、あれもイイ出来で良かったわ~」
「そう……よかったね、母ちゃん」
タカヒロは、母親の言葉を聞いて頭を抱えた。
福岡にいる父親が慌てて帰ってくるのは、若いカップルが愛し合っているシーンに感動したからではない。
愛する一人娘を心配するあまり、だ!
それもそうだろう。目に入れても痛くないほど溺愛しちゃっている愛娘に彼氏が出来たのを知ったのだから、狼狽するのも当たり前だ。
――あーあ、いまさら、って気もするけど? よく今までバレなかったよな。
タカヒロは、遠ざかっていくマツリとエイジに向かってつぶやいた。
「ハッピー・バレンタイン、お二人さん。せいぜい今のウチに楽しんでおけよ。明日から大変になるんだからサ」
父ちゃんという怪物を相手にして、どうやって主人公の二人が立ち向かうか、見物だ。
――姉ちゃん、エイジ。オレだって僧侶の役ぐらい、やってあげてもいいゼ! フォローしてやるよ。今日のオレは絶好調、超ゴキゲン、だからナ!
「なー、母ちゃん、ハラ減った! メシにしてくれよー」
「もう仕方ないわね、全然ムードないんだから……」
タカヒロは、門前から動こうとしない母親の背中に手をやって、無理やり家の中に押し込んだ。
その彼の腕には、パステルブルーの紙袋がぶら下がっていた。
(END)
読んでくださった皆様、ありがとうございました。
バレンタイン・ガール編は、ここで完結です。
いつになるかわかりませんが、時間を置いて、中学生編を書こうと思っています。
そのときも、また、マツリとエイジの二人をよろしくお願いします(^w^)v