第4話 紙切れ
――ドババババババッッ!!!
空気が破裂したような、重苦しい衝撃音が路地裏に轟いた。
神楽坂先生が掲げた二本指に応ずるように。
アスファルトの亀裂から、壊れたブロック塀の陰から、そして異形自身の足元の影から――無数の漆黒の針が、狂い咲く極彩色の花のように一斉に噴出した。
「ガ――ッ!?」
悲鳴すら、満足にあげられなかった。
猛牛のごとき巨体を誇っていた異形は、逃げ場のない360度全方向から千を超える影の針で穿たれ、空間ごと縫い留められる。
直後、核を完全に穿ち抜かれた巨体がグラリと揺れ、一瞬で巨大な黒い霧となって爆散した。
黒い霧は風に浚われるように薄れ、やがて跡形もなく消え去る。
――静寂。
あれほど路地を支配していた異形の唸り声も、どす黒い殺気も、嘘のように消え失せていた。
直後、目の前の景色がぐにゃりと歪む。
紫色の亀裂が入っていた空と灰色の街並みが、まるで水面に落とした水滴が広がるように波打ち、解けていく。
――遠くを走る車の走行音。
――夕方のアナウンス。
――下校途中の生徒たちの笑い声。
東京の「いつもの雑音」が、一気に耳の奥へと流れ込んできた。
茜色に染まる、なんの変哲もない夕暮れの路地裏。
「……はぁ……はぁ……っ!」
死線から生還した安堵感と恐怖の余波で、俺はそのまま地面に膝をついた。
両手ががくがくと震えて止まらない。
生きている。俺は、助かったんだ。
そう胸を撫で下ろそうとした、その時だった。
「――おい」
低い、刃物のように鋭い声。
足音が近づいてきたかと思うと、俺の視界が急速に浮き上がった。
陸が俺の制服の襟首を鷲掴みにし、強引に立ち上がらせたのだ。
「ひっ……!」
「テメェ……何考えて入ってきやがった!?」
陸の目が、血走っていた。
噛み殺した激怒と、焦燥が混ざり合った恐ろしい顔で、俺を睨みつけている。
「能力も何もないただの一般人が、ヘラヘラ足踏み入れていい場所じゃねえんだよ! 俺たちが居合わせなかったら、お前はいま頃原型も残さず食われてたんだぞ!? 足手まといどころか、死にに来たのかよッ!」
「ち、ちが……俺は、ただ……っ」
あまりの気迫に、声が詰まる。
陸の怒りは、単なる不機嫌や嫌悪だけじゃない。
「死んでいたかもしれない」という現実に対する、本気の怒りだった。
「はいはい、そこまで。陸、落ち着けって」
間に入ってきたのは、神楽坂先生だった。
胸ポケットから新しい煙草を取り出しながら、陸の腕をぽんと叩く。
「無事に生きて戻れたんだ、上々だろ。風弥も、首が繋がっててよかったな」
「ッ……オッサンは甘いんだよ! こいつは異界の怖さを何も解っちゃいねえ!」
陸は吐き捨てるように俺を突き放すと、苛立った様子で乱暴に髪を掻き揚げた。
神楽坂先生は煙草にライターの火を点け、紫煙をゆったりとくゆらせる。
その気だるげな表情は、さっき異形を瞬殺した人物と同一とは思えないほど脱力していた。
「……さて」
神楽坂先生はズボンのポケットを探ると、くしゃくしゃになった紙切れを一瞬いじり、俺に向かって差し出してきた。
「風弥。これを持っていけ」
「え……? これ、は……」
受け取った紙切れを開くと、先生の雑な字でこう書かれていた。
『特別校舎 最奥 / 明日16:00』
「明日、放課後の16時だ。17時の結界が開く前に、そこに整列しろ」
先生は指を一本立て、不敵な笑みを浮かべる。
「自力で結界を跨いじまった以上、ただの『見物人』じゃいられねえ。お前がこれからどうするべきか……『都市文化研究部』の部室で、たっぷり話してやるよ」
「都市文化……研究部……?」
「来なかったら、次はお前が一人であの化け物どもと鬼ごっこすることになるぞ。……じゃあな」
先生はひらひらと手を振りながら、歩き出した。
陸は俺を一度だけ苦々しげに睨みつけると、先生の後を追って闇の中に消えていくように路地の角を曲がっていった。
静まり返った夕暮れの路地裏。
俺の手の中には、小さく丸まった紙切れだけが残されていた。
握りしめたメモの感触が、確かに夢ではないことを伝えている。
――16時、特別校舎の最奥。
俺の止まっていた日常が、音を立てて崩れ去り、新しい狂気へと動き出そうとしていた。




