第七十五話 打ち勝てぬ呪い
綺季が感じ取ったのは、神のそれだと思われるような気配。大半は呪いの持つ嫌な気配で構成されているが、その中にわずかに感じられる神のような神聖さ。
「この呪い、神様が……?」
思えばこれがただの呪いだとしたら、アパートのみを傷つけるように動いているのは不可解だ。アパートに対して向けられた呪いだとしても、わざわざ周囲を守るように壁まで作ってアパート以外へ被害が出ないように気をつけているように見える現状。果たして呪いとはそのような慈悲のある物だろうか。
恐らく、この呪いは神にとってはそれほど強い物ではない。このアパートの何かが気に障った土地の神が、片手間にちょっとした呪いをかけたのだろう。だから自身の守る土地である周囲には被害が出ないようにしているし、若葉の霊という個人でも抵抗することが出来ている。若葉の霊がボロボロだったのは怨霊だからではなく、もしかしてずっとこの呪いを抑え込んでいたのではないだろうか。そんな若葉に攻撃してしまったことで、呪いを抑える者がいなくなり、こうして表出してきた。
「わたしは、何てことを……っ!」
後悔に沈みそうになる心を奮い立たせ、前を向く。今は俯いている場合ではない。若葉は神の呪いと戦っているのだ。自分のせいでこんなことになってしまって、状況は最悪に近いが、だからこそ責任を取らなくてはならない。
一つ、深呼吸。右手にお札を構える。
「綺季ちゃん……?」
一体何をする気なのか。まさかあれと戦う気なのか。心配する友人の声にチラリと顔を向ける。安心させられるように、笑顔を作った。それはきっと、この上なく引きつった笑みだ。安心なんて微塵もさせられていないだろう。でも、良い。今は無理矢理でも、歪んでいても、笑えるくらいの余裕を持っていなくてはならない。
そうでなければ、すぐにでも折れてしまうから。
「綺季ちゃんっ!?」
呼び止めるように叫ぶ友人の声を背に、駆け出した。
そのままアパートの階段を駆け上がり、二階へ。呪いの触手はアパートを包囲するように何本も伸びているが、その攻撃は散発的だ。恐らく、見た目が派手なだけでこれほど大きな物を一斉に動かせるだけの力はないのだろう。若葉が襲ってくる触手を順番に弾いてアパートを守ってくれている。だが、いくら片手間の軽い神の呪いとはいえ、その力は神のものであることに違いはない。ただの一幽霊に簡単に弾けるものではなく、一つ弾く度にただでさえボロボロだった若葉の身体は更に傷ついていく。
「ここからじゃ、全方位は対応出来ない。屋根の上とかに行かないと……」
どこか屋根に上れる場所はないかと走り始めた綺季の行く手を遮るように、何かが目の前の壁に叩きつけられた。
「若葉さんっ!!」
それは若葉だった。実体化した呪いの攻撃を弾くためだろう、自身も実体化した若葉が、触手に弾き飛ばされ目の前に降ってきたようだ。若葉はもう弱り切っているように見える。元々片足が折れていたが、それに留まらずもう片足と片腕がへし折れている。真っ赤だった制服は既に原形を留めておらず、顔は抉れるように一部が消失していた。どう見ても限界。これ以上戦える状態ではない。
それでも
「何故、そこまで……っ!」
もう動くことも難しそうな、今にも消えてしまいそうな弱々しい姿で、それでもまだ戦おうと体を起こす。やっとの思いで立ち上がり、しかしもう立っていることすら難しいのか再び床に倒れ込んだ。
何故そこまでして戦おうとするのか。
思わず口からこぼれてしまったその疑問の答えは、しかし綺季の中に既にあった。
それしかないからだ。
和と同じ。出来るかどうかではなく、それ以外の選択肢など選べないのだ。和の家を、和の日常を、そして何より和自身を、守るため。何よりも大切な人を守るために。どれだけ傷つこうが、体が動くのなら諦めるなんて考えもしない。
倒れた体を、起こす。震えながら、今にも倒れてしまいそうな状態のまま、立ち上がる。
そんな若葉に、一本の触手が伸びてくる。
もう若葉にそれを弾くだけの力はなく、避ければ和の家が壊れてしまう状況で若葉に避けることなど出来るはずもない。
自分の身でその呪いを弾こうと両手を広げて立ち塞がる。
そんな若葉の前に飛び出した綺季が、触手に向かってお札を投げつけて弾き返した。
「協力させてください、若葉さん」
勝手な考えで攻撃を仕掛けた自分など信用してもらえないことは分かっているけれど。この呪いを前にして、自分などあまりにも頼りないことは分かっているけれど。有効な作戦を提案出来る訳でも、若葉を治してあげられる訳でもないけれど。
それでも、零れ落ちてなくなってしまっている若葉の目を真っすぐ見つめて、綺季は言う。協力したいと。あなたを助けたいと。共に戦いたいと。
そんな綺季を見てほんの一秒ほど動きを止めた若葉は、折れていない方の手で綺季の手を掴むと、フワリと浮かび上がった。そのまま上昇し、アパートの屋根の上へと綺季を連れていく。
「ありがとうございます、若葉さん」
綺季を屋根に下ろした若葉は、そのまま戦いに向かおうと身をひるがえす。しかし、やはりダメージが深刻なのか、屋根に足をつけたと思うとそのまま座り込んでしまった。若葉はもう少なくともしばらくは戦えない。もしかしたら休んでいれば回復するかもしれないが、その程度のダメージではないようにも見える。あまり若葉の戦線復帰は期待するべきではない。
「ここからはわたしがやります。若葉さんは休んでいてください」
そう言って屋根の上を走り出す綺季。様々な方向から襲ってくる触手を弾いては走り、また弾いては移動する。若葉と違って飛ぶことが出来ない綺季がこの呪いの触手を弾き続けるためには、足を止めることが許されない。しかも、若葉と同様、綺季がこの触手を弾くのは楽な作業ではない。お札を投げる際に息が止まるくらい力を込めて、それでやっと一本弾くことが出来る。呼吸はみるみる荒くなり、足の動きが重くなっていく。お札の数も無限ではない。何枚残っているかなど数える余裕はないが、手に伝わる感触がもう数枚しか残っていないことを示している。
「はぁっ……はぁっ……!」
肺が痛む。頭痛がする。目がかすむ。吐き気がする。どこから攻撃が来ているのかを見極めることすら段々と難しくなって、既に綺季は気配を頼りに動いていた。このままでは数分もしない間に呪いに侵される。この呪いが人間にどんな影響を与えるものなのかは分からないが、酷い目に遭うことだけは間違いないだろう。恐らくこのアパートは崩壊するだろうし、若葉は消滅する。
自分が勝手な考えで若葉を祓おうとしたせいで、どれだけの人が不幸になるのか。
綺季にとって、自分がこの後どうなるかよりも、そちらの方が辛かった。
「ああああああぁぁぁぁぁッ!!」
最後の力を振り絞って、三枚のお札を投げる。一枚が襲ってきていた触手を弾き、一枚が触手の根本に張り付いて爆発した。ほんのわずかな傷にでもなれば良いと思っていたその攻撃は、本当に小さな焦げ跡を付けただけに留まる。
そしてもう一枚が、若葉の周囲に結界を張った。
「すみません、若葉さん。わたしは、ここまでです。あなたは、和先生のところへ」
それだけを言葉にして、限界を迎えた綺季は屋根に倒れ込んだ。もう指一本動かせない。これ以上、どうしようもない。
やれる限りはやったんだから、良いよね、とは思えなかった。
「……若葉さん?」
若葉がすぐ傍に寄ってきていた。綺季が張った結界の中に綺季自身も入っている。お互いもう戦うことは出来ないけど、でも、共に戦った仲間だ。どうせここで終わるなら、仲間と共に逝く方がきっと良い。
「ふふっ、そうですか。分かりました。じゃあ」
お疲れさまでした
最後に、それだけ伝えて、目を閉じる。
呪いの触手は、もう目の前まで襲ってきていた。




