第七十三話 襲い掛かる重圧
お札を投げる綺季の動きを阻止した和は、その手を引っ張って自身の後ろへと追いやる。その流れのまま一歩前へと進み出て、目の前に浮遊する若葉の霊と思われる存在を見上げた。
「若葉ちゃん……」
変わり果ててしまったその姿に、涙が溢れそうになる。しかし、自分に泣く資格などないと、和はグッと強く目を瞑った。今すべきなのは感情のままに涙を流すことではない。目の前の大切な親友に謝罪し、彼女の未練を断ち切る手助けをすることで安らかに眠ってもらうことだ。もし彼女が望むのなら、自分の体を彼女に差し出して残りの人生を全て譲り渡すことだって構わないと思っている。
それほどの覚悟をして、目を開いた。
「若葉ちゃん、聞こえるかな」
和は語りかける。あの頃と変わらない優しい眼差しで、大切な友達へ話しかけるように穏やかに、語りかける。
のどか、ちゃん……
それに対する若葉の返事は、和の言葉が聞こえているのかどうかも分からない虚ろな呼びかけ。たった一人の、何よりも大切な友達の姿を求めるように、ゆらりと両手を前へ伸ばして宙を移動する。ゆっくりと、ゆっくりと、若葉の霊は和との距離を詰めて。
「先生、駄目です!!」
それに危機感を覚えた綺季によって、再び和は後ろへと下げられた。
「で、でも、あれは」
「分かっています。先生のご友人だった方なのでしょう。でも駄目です。正気だとは思えません」
死してなお和の傍に居続けた霊だ。その執着は推し量れるというもの。きっと仲が良かったのだろうと予想出来るが、だからといって霊となってしまった今、それが良い方向に作用するとは限らないのだ。あの霊が持つ和への執着から、和の魂を引き抜いて一緒にあの世へ連れて行ってしまう可能性だってある。通常、ただの霊の力では生きている人間の魂を引き抜くなどということは不可能なのだが、和がそれを受け入れてしまったら可能になることもあり得るのだ。
明確に命の危険がある相手。現状まだ何もしていないからといって、一般人である和と対話させるのはあまりにも危険に思えた。
「ううん、正気かどうかは関係ないよ。わたしはあの子と話さなくちゃいけないの」
「駄目ですってば! 事情があることはお察ししますが、見て分からないんですか! 対話が出来る状態だとは思えません!」
「一方的でも良い! あの子と話が出来る機会が来たんだから、それだけは逃せないの!」
「いいえ、絶対に駄目です! 危ないと分かっているのに話をさせるなんて、わたしの目の前でそんなこと許可出来ません! 命の危険もあるんですよ!」
「構わない! あの子がわたしの命を欲しがるならあげたって良い!!」
「馬鹿なことを言わないでください!!」
和と綺季の言い合いはどんどん加熱していく。それはどこまでも平行線をたどるのみ。長い間ずっと後悔してきて命を差し出すことにすら躊躇いがない和と、一般常識的視点から最早友人と呼べるかも怪しい存在と対話するなど意味がないと考える綺季。傍依若葉に対する考え方がほぼ正反対の二人が、短時間の言い合いで分かり合うことなど出来る訳がない。
お互い根が善良であるため暴力に発展はしないが、今にも手が出ても不思議ではないほどにその言い争いは激しさを増していた。
それは今、最も気を配らなければならない存在である若葉の霊から一瞬とはいえ意識を逸らしてしまうほどであり。
あああアああアアアぁァァァぁああアッ!!
しかし逸らしていた意識を一瞬にして引き戻す、耳をつんざく絶叫が響き渡る。
「ッしまった!?」
気が付いた時には既に霊が襲い掛かってきていた。音もなく宙を泳ぐように一気に距離を詰めてくる霊に対し、反射的に前へと飛び出した綺季はその手のお札を投げつける。
「くっ……!?」
「綺季ちゃんっ!?」
綺季の手から放たれたお札は、空間に張り付くように停止。綺季の目の前に半球状の淡く輝く透明の壁を生成し、霊の進行を阻んだ。その壁は、ギチギチと今にも破れそうな嫌な音を立てている。生成がギリギリだったこともあり、霊の手と綺季の間にはもうその薄い壁が一枚あるだけ。壁が破られてしまえば、一秒も経たない間にその手が綺季へと届くだろう。
「もう良いから綺季ちゃんは逃げて! わたしにはあの子と向き合う責任があるの! 綺季ちゃんがそんな危ない目に遭う必要はないでしょ!?」
「ふ、ざけないで、ください……ッ! これはわたしからあの霊に仕掛けた戦い、です! 責任と言うなら、わたしにこそ責任がありますっ!」
壁の維持に集中しつつ、どうにかもう一枚のお札を取り出す綺季。その手から飛び出したお札が、まるで生きているかのように壁を回り込んで霊を襲う。
ぎゃあああアアああぁぁァぁぁッ!?
ハンマーにでも殴り飛ばされたかのように勢い良く吹き飛ぶ霊。それを確認して身を守っていた壁を消した綺季は、暑いからというだけではない汗を全身に流していた。
「はぁっ……はぁっ……! このまま、仕留めます!」
「ま、待って、綺季ちゃんっ!」
背後からの和の制止の声は当然耳に入っていた。しかし、綺季はそれを無視して駆け出す。懐からありったけのお札を取り出し、全力で以て若葉の霊を滅するために力を込めた。霊は先ほどの綺季の攻撃がそれなりに効いているようで、明らかに動きが鈍くなっている。今なら全力の攻撃を直撃させられるはず。活性化しているとはいえ、一個人の幽霊だ。これだけの攻撃を叩き込めば完全に消し去ることが可能なはずだ。
綺季は、その手のお札を全て解き放とうと振り被った。
しかし、そのお札が放たれる直前。
重力が何倍にもなったような、尋常ではない重圧がその場の全員を襲う。
「かはっ!? これは、一体……!?」
「ぐっ……綺季ちゃん……若葉ちゃん……!」
その重さに耐え切れず膝を突いた綺季が後ろを振り返ると、和が地面に倒れ込んでいた。意識を失ってはいないようだが、かなり苦しそうにしている。あの霊にこれほどの力があったのかと視線を前に戻すと、若葉の霊も地面に足を付けていた。どうやら浮遊することが出来ないらしい。元からボロボロの顔からは表情を読み取りにくいが、苦しんでいるように見える。つまり、この重圧はこの霊から放たれているものではないということ。
落ち着いて周囲の気配を探る綺季。全方位から襲っているかの如きその重圧は出所を探るのが難しかったが、その中でもどうにかたどっていくと、どうやら和が住んでいるアパートの方向から放たれているように感じられた。明らかに異常な力。こんな存在がいることに何故気が付けなかったのか。
膝に手を突いて、どうにか立ち上がろうと力を込める綺季。震えながらも立ち上がると、アパートの方へ目を向けた。霊の方も気になるが、今はあちらが優先だ。こんな存在を放置することは出来ない。
だが……
(わたしが行ったところで、何か出来るの……?)
何日も準備をして万全の状態で向かったとして、それでも太刀打ち出来るとは思えない圧倒的な力。ましてや今は霊と戦った疲労もあるし、準備もお札が数枚あるだけ。そんな状態で向かって、何か出来るとは思えない。この存在を放置すれば被害が出ることは避けられないだろうが、それでも自分が向かって無駄に命を散らすより、流凪に助けを求めに行った方が良いのではないか。
不安に全身が震える。夜とはいえ暑い真夏のはずなのに、寒気すら感じていた。
あああアアああァァぁぁぁァぁぁッ!!
「…………え?」
弱気に押し潰されそうになっていた綺季の耳に、霊の叫びが飛び込んでくる。しかしそれは、綺季に向かって襲い掛かってきているものではなかった。むしろ逆。綺季からは離れ、どこかへと飛んでいく。あの霊だってこの重圧を受けているだろうに、それでも力を振り絞るように浮き上がり、飛んでいく。
アパートの方へ。
「まさか、戦うつもり、なのですか……?」
こぼれた綺季の呟きに答える者はいなかった。




