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第91話

「……そっか。それで今日は、ギターの音しないんだね」

「うん、さっき薬も飲んでたし、今夜からはちゃんと眠れるんじゃないかなぁ」

 水色の大きな水玉模様のパジャマを着た麗は、眼鏡をはずした黒いスウェット姿の隆玄と向き合って、彼の部屋のベッドに寝転がっている。

「本当に、いろいろお疲れ様。……たっくんは? 最近眠れてる?」

「おかげさまでね。睡眠って大事だな、勉強の効率が上がったよ」

「あたりまえ」

 まだ乾いていない隆玄の洗い髪を撫でて、麗はくすくすと笑う。

「……ごめんね。こんなことなら、毎日一緒にいて、ご飯作ってあげればよかった」

「いいよ、言わなかった俺が悪い。……麗ちゃんがいなかったら、多分もっと早く潰れてたし、再起不能になってたかもしれん。側にいてくれるだけで、俺は救われてるよ」

 二人は見つめ合って、そっと互いの唇を寄せる。

「お弁当、忙しいのに毎日作ってくれて、ありがとな」

「ううん」

 軽いキスの後、麗は隆玄の胸に頬を埋め、少し肉付きのよくなった広い背中に手を回す。

「麗ちゃん、お姉さんとはうまくやれてる?」

 まだ高校生の麗が、こうして度々外泊することも、その行先についても何も言わない、彼女のただ一人の肉親である異母姉との関係を、隆玄は常に気にかけていた。

「うん、今のところはね。でも、多分大学入ったら、お姉ちゃんとは縁が切れちゃうんじゃないかな。前からずっと、今の彼氏と早く結婚したいって言ってたし。……いいよ、お母さんがいなくなったときに、本当は見捨てられたっておかしくなかったのに、高校出るまでは結婚しないで面倒見るって言ってくれてるから、それでじゅうぶん。わたしは、離ればなれになっても、お姉ちゃんが幸せならそれでいい」

「そっか……」

 彼女の寂しい回答の隙間を埋めたくて、隆玄は目を閉じ、麗の髪に鼻先まで埋もれる。

「俺、浪人しよっかなぁ。そしたら、麗ちゃんと同じ年に大学入れるから」

「だめだよ、そんなの」

「はは、冗談だって。……でも、離れんのやだなぁ……俺、一人暮らしなんかしたら、寂しくて死ぬかも」

「ほんとに軟弱者だなあ、たっくん。ウサギじゃないんだから。……ときどき帰っておいでよ。わたしも遊びに行くから」

 麗の言葉に答えず、隆玄が彼女の額にキスを落とすと、彼女の華奢な脚は彼のそれに絡み合う。

 甘え下手な麗の仕草に小さな笑い声を立てると、隆玄の手は愛おしげにそこを撫でて、彼女の誘いに応えた。


-----------


(あっくん、もう寝ちゃったかな……)

 ベッドに入る前に飲んだ薬が効くまでの間、紗雪は暗い部屋の中、スマートフォンの煌々とした明かりを眼鏡に反射させて仰向けになっている。

(……お兄ちゃんと麗さんの声、今日は控えめだな。助かる……)

 入院前までは自分の神経が尖っていたせいで余計に耳についてしまい、麗が泊まりに来たときはいつも耳栓をしていなければ耐えられなかった二人の声は、今日はよく聞こうとしなければ何も聞こえてこない。

(別に、好き同士なんだから、『そういうこと』なんて勝手にすればいいんだけど、気になってどうしようもなくって、ホントにきつかったな。まあ、二人とも気は遣ってたと思うけど……)

 子供一人のための空間にしては少し広すぎるくらいの部屋の、足元側の白い壁をちらりと見て苦笑してから、紗雪は視線をスマートフォンに戻す。

(……あっくんも、わたしのこと、そういう目で見てるのかな……)

 敦哉との個別チャットの画面を開いて、何か文字を打とうとするが何も思い浮かばず、紗雪はため息をつく。

 物心ついたころから手を繋ぎ、肩を抱き、互いに寄り添って触れ合うことを当たり前のようにしてきた敦哉との距離に、紗雪はこの頃になって少しずつ戸惑いを覚えるようになっていた。

(なんとも思ってないから、わたしとそういう風に付き合えるのかな)

 それはそれでひどく寂しい気がして、もう一度ため息をつく。

(キスされたこともないし、変なとこ触られたりもしないけど、手を繋いだり、背中や肩や、髪の毛触られてどきどきしてるの、わたしだけだったら嫌だな……恥ずかしくて……)

 今日、泣いてしまった時にごく自然に抱きしめてくれたのも、敦哉にとって自分はただの幼馴染だからこそ出来たことで、いつの日か彼が別の女の子と恋をし、自分の元から離れて行ってしまうかもしれないと考えるだけで、紗雪は目の前がぐらぐらと揺れるような心持になる。

(小さい頃から、あっくん以外の男の子を好きになったことなかった。……優しくて、静かで、誰ともケンカしないし、わたしのことを頭でっかちとか、ガリ勉とか、他の子みたいに意地悪言わなかったのは、あっくんだけだった……あっくんの隣より居心地のいい場所を、わたしは知らないし、知る必要もないって思ってる。でも……あっくんはどうなんだろう。わたしがこんなふうに、いつも一緒にいるの、嫌じゃないよね……?)

 そこまで考えたとき、薬が効いてきたのか、紗雪は大きなあくびが出た。

(……だめ、今日は何も思い浮かばないから、おやすみだけ言って寝ちゃお……)

 その言葉のみの短いメッセージを送ってから、眼鏡をはずして小机に置き、目を閉じる。

 長らく訪れなかった完全な眠りの闇に、彼女の意識はあっという間に落ちて行った。


-----------


 枕元に置いたスマートフォンが、振動と共にぱっと明かりをつけて、うとうとしていた敦哉の目を醒ます。

「……さゆ……」

 ロックを解除して画面を開くと、『おやすみなさい』とだけ送られてきたメッセージが目に入る。

 それに無意識に笑みを浮かべながら、自分も短く『おやすみ』と返し、ついでに猫のキャラクターのスタンプも送ると、敦哉はスマートフォンの画面の明かりを落とし、カーテンレールの隙間から薄く青い街の明かりが差し込む天井を見て、小さく息を吐いた。

(……俺、バカだなあ。慰めたくって思わず抱きしめちゃったけど、……さゆの身体、すごく柔らかくって、いい匂いがして、そのことで頭がいっぱいになって……)

 昼間、抱き合っているその時はなんとも思わなかったのに、帰宅してから沸き起こってしまった邪な感覚が申し訳なくて、敦哉は未だに燻り続ける自分の心を持て余していた。

(子供の頃はなんとも思わなかったし、手を繋ぐのも、頭撫でるのも平気なんだけど……)

 このごろは肩や背中に触れるたび、手のひらに感じるその感触のせいで、制服の下のあられもない姿を想像しそうになることに、彼は必死で抗っていた。

(だめだ、……さゆは俺のものじゃない。そんなこと考えちゃだめだ)

 自分の想像で彼女を汚してしまいそうな感覚が怖くなり、敦哉はそれを懸命に封じ込める。

(さゆにとって、俺はただの幼馴染なんだ。あんなに頭が良くて可愛いんだから、俺なんかよりも、もっといい奴が、いつかさゆの前に現れて……)

 ずき、と胸の奥が痛くなって、彼は思わず目を閉じる。

(嫌だな、そんなの。……釣り合わないのはわかってるんだよ、俺、何にも才能ないし、勉強だってそこそこだし、背丈だってさゆよりちょっと高いだけで、顔も母さんに似ちゃったから、悪くはないけどたいして良くもない。……総合的に見たら、俺はダメ人間だ。兄さんや姉さんや、たっちゃんみたいな人間には、どう頑張ったってなれっこない。こんなだから、父さんも嫌味ばっか言って……せめて、少年野球でレギュラーになれてたらな……そしたら金魚の糞みたいに、さゆの後ばっかり追いかけないで、隣を堂々と歩けたかもしれないのに)

 夜毎ずるずると心の奥から引きずり出す癖がついてしまったコンプレックスは、泥縄のように絡みついて彼の意識を苛む。

(……でも、今日初めて、さゆの役に立てた気がする。……ベース、もっと真剣にやってみよう。興津先生とまではいかなくても、もっと演奏上手くなって、正々堂々、胸張って隣にいられるようになりたい。……さゆ、好きだ……俺のこと、置いてかないで……)

 ぐちゃぐちゃになった心の中を片付ける間もなく、敦哉は寝息を立て始めた。


-----------


(明日から、しばらくミチルと会えなくなるな……)

 土曜日の全日練習から、九州での遠征試合が終わるまでは剣道に専念することになった太陽は、ベッドに腰掛けて、壁に取り付けたフックにかけた三本のギターを見つめる。

(校門からの行き帰りだけでも一緒にしたいけど、きっとそんな短い距離じゃ、何も話したいこと話せないよな。チャットも通話も物足りないし……)

 彼女の存在が急に遠くなってしまうようで、その不安が起こす胸苦しさに息が詰まる。

(……いや、本当に今だけだ。今だけ乗り越えたら、その後は一緒にいられる。……あー、でも、引退したら引退したで会う時間減るし、大学合格して卒業して東京行ったら、ミチルが東京に来ない限りは遠距離になるし、仮に東京に来てくれたって先に俺がこっちに戻るから今度はそこでまた遠距離になるし、だいいちミチルがここに戻ってくるかもわかんないし……)

 どんなに考えてもなかなか二人で一緒にいられる時間が作れないことに、太陽は今から苛々して、洗ったばかりの髪をかきあげ、盛大にため息をつく。

(……おじいちゃんが昔聴いてた曲みたいに、別の人と結婚とか、そんなことないよな……)

 太陽は慌てて目を瞑り、『二十二才の別れ』の旋律が浮かんで来そうになるのを抑え込んだ。

 そしてふと、そもそものミチルの身の上について、自分があまり教えてもらっていないことに気が付き、より一層不安に駆られる。

(菊川グループって、テレビ番組で一社提供するくらいの大きい会社だし、そんなでかい家の一人娘だったら、許婚とかいるかもしれない……なんでその可能性を考えてなかったんだろう。許婚に出てこられたら、俺がどんなにミチルを好きでも勝ち目がないじゃんか……)

 改めて、自分がとんでもない相手と付き合っているという自覚が湧き、太陽は全身が痺れるような勢いで血の気が引くのを感じた。しかしすぐ、

(でも、……じゃあ、なんで、こんな地方の高校にミチルは来たんだ? 生まれも育ちも東京だって言ってたし、向こうにうちレベルの高校なんて山ほどあるだろうに……)

 幼稚園から中学まで、ずっと女子校に通っていたという話にも、彼は首をかしげる。

(多分、お嬢様学校なんだから、大学まで女子校ってコースになってるはずだ。そのレールをわざわざ外れて、ここに何をしに来たんだろう……)

 そこではた、と太陽は、これまでのミチルの言動を思い起こし、

(……もしかして、その全部から逃げてきたのか……?)

 全てのつじつまが合う考えにたどり着いて、思わず唾を飲む。

(……だったら、逃がしてやらないと……ミチルの行きたいところへ、どこまでも遠くへ)

 それがたとえ、お互いの手が離れてしまうようなことであっても構わないとさえ思いながら、太陽は強い確信と使命感を胸に、部屋の明かりを落として横になった。


-----------


 夏休み前に行われる三者面談の通知を手に、ミチルは深いため息をついていた。

(どうしましょう、部活のことがあるから、お父様とお母様を呼び戻したくはないし、……かといって、他に来てくれそうな方もいないし……)

 ふと、東京にいる祖父の前妻の子である義伯母一家のことが頭をよぎるが、

(絶対にいや。義伯母様と義伯父様はともかく、好親《よしちか》さんに出てこられるようなことがあったら、たまったものじゃないわ)

 幼いころからずっと自分に不愉快な嫌がらせばかりしてきた、大嫌いな従兄の顔が浮かびそうになって、ミチルは頭をぶんぶんと振った。

(興津先生にお話しして、二者面談という形にしていただけないでしょうか……ああでも、具体的に何をしたいということも決まってないし、何をお話すればいいか……)

 誰もいない居間の大きな座卓に突っ伏して、彼女は目を閉じる。

(わたしのしたいこと……)

 優しくこちらを見て微笑む太陽の面影が、まぶたの裏に現れる。

(先輩がご実家を継がれるというなら、わたしは先輩のお嫁さんになって、ずっとこの街で暮らしたい……毎日一緒に寝て、起きて、ご飯を食べて、先輩のお手伝いをして……)

 幸せな想像に、ふわりと心が温かく膨らんだ気がして、目を閉じたまま彼女は微笑む。

(もしも、何か仕事をするなら……そうだわ、楽器を教える教室なんかどうかしら。バイオリンと、ピアノと、エレクトーンの先生なんて……ああ、そんなのもすてき。剣道を教える先輩に、音楽を教えるわたし……それなら、東京の音大に行くのがいいわ。そうしたら、先輩と東京でしばらくの間は一緒にいられる。卒業したらこの街に帰ってきて、すぐ結婚したいわ)

 頭の中でどんどん広がっていく未来絵図に、彼女はくすくすと笑いだす。

(あとは車の免許を取って、CMで見たあの可愛い軽自動車を買って、街中を乗り回して、ときどきお義姉さんと一緒に買い物に出かけて……道場には大井先生もいらっしゃるでしょうから、きっとその頃にはご結婚されてる、興津先生とくるみさんのお話も聞いたりして……)

 自分の想像力の逞しさに安心して、ミチルは目を開ける。

(やりたいこと、いっぱいあるじゃない。何も思い浮かばないなんてうそ。……自分の気持ちに素直になれば、いくらでも夢は描ける……)

 頬杖を付いてもう一度座卓の上の通知を見ると、彼女はそれを折りたたんで手に取り、立ち上がって居間を出る。

(そう、自由になりたくてこの街に来たんだから、自由に生きよう。……わたしはもう、籠の鳥じゃない)

 自分を縛り付けるものすべてを振り切ってしまうことを胸に、ミチルは寝室に向かった。


-----------


「あ、もうこんな時間か……」

 消灯五分前を知らせる『パッヘルベルのカノン』のオルゴールがスピーカーから流れてきて、翔琉はギターを弾く手を止め、アンプのボリュームとゲインを落としてから、机の脇のスタンドに立てる。

(……今日の曲はすごく中身が重たかったけど、ギター弾くのは、やっぱり楽しかったな)

 婿入りして旅館を継がなければ今でもバンドマンだった、と言ってはばからない父の遺伝子がここにきて目覚めたのだろうか、翔琉は長年親しんできたサッカー以上に、ギターを弾くたびに訪れる、血沸き肉躍る感覚に日々打たれていた。

(さすがにこの間、五時間ぶっ通しで弾いてたのは自分でもびっくりしたけど、リプレイ見てTRPGのエアプしてるくらいなら、本物に触れたほうがずっといいよな)

 最近見る動画が、ギターの基礎練習やテクニックのレクチャーばかりになり、それをひとつひとつ身体に染み込ませていくほどに自分の技術が上がっていくことが嬉しくて、つい寝食を忘れそうなほどのめり込み始めていることに、翔琉は自分でも驚いていた。

(まあ、でも、ちゃんとご飯食べて、宿題して、トイレ行って風呂入って寝るのは忘れないようにしよう。健康第一。人として、日々やるべきことはしないとな……)

 中庭ライブの直前の日曜日、夕食のことを忘れて練習に励んでいた際に、寮母の呼びかけに気が付かずに弾き続け、マスターキーで部屋のドアを開けられた上に軽く叱られたことを思い出しつつ、彼はアンプのスイッチを切った。

(……でも、よかった。中庭ライブも今日も、本番でこけたりつまづいたりしなくって)

 練習中に何もないところであやうく何度も転びそうになり、そのたびに友人や先輩や興津に心配されたことが頭をよぎって、ベッドに寝転がりながら翔琉は自分の情けなさに小さく自嘲の笑いをこぼす。

(なんか、ギター弾いてるときはすげー集中してられるから、ちょっとだけしゃきっとする気がするんだよな。本当に気のせいかもしれないけれど。……やっぱ、父さんの血かなあ、これ)

 昔から物覚えだけはいいが、実家の手伝いをすれば「危ないからお前は何もするな」と止められるほどミスが多く、サッカーでは両手両足の指でも足りないほどのオウンゴールをやらかし、友達と話していてもなぜか笑われてしまうことばかりで、ひょっとして自分は何もまともにできないのではないかと思い始めていた翔琉にとって、ギターだけが今はただ一つの取り柄になろうとしている。

 門前の小僧習わぬ経を読む、というのだろうか、物心ついたときからステージで演奏する父の手元と足元を見て積み重ねてきた記憶は、思わぬ形で花開く気配を見せていた。

(やってみよう、三年間。どこまで上手くなれるのか、オレは自分の限界が知りたい)

 涼やかな双眼が決意に燃えた瞬間、部屋の電気が消え、翔琉は思わず体をすくめてしまった。


-----------


 毎週見ている金曜夜の映画の時間が終わり、松崎家は全員が就寝の準備を始める。

 はずなのだが、ソフィアの妹たちは全くその気配がない。

「アイリス、なに今からゲームはじめようとしてるの! アンタ明日部活あるんでしょ、さっさと寝る支度しなさい!」

 当たり前のようにゲーム機の電源を入れたソフィアのすぐ下の妹のアイリスに、ポルトガル語で母親の雷が落ちる。

「えー、今日このあとチームマッチなんだもん、ランク上げとかないと」

 母の小言を無視して、アイリスはソファに寝転がりながらゲームの通信対戦を始める。

「出たー、アイリスねーねのゲーム中毒。ちゃんと寝ないから肌荒れひどいんじゃん、これ以上ニキビ悪くなっても知らないよー。うーわ、間近で見たら肌ザラッザラじゃん」

 まだ小学五年生だというのに口の利き方だけはやたらとひねくれて大人びた、アイリスの下の妹のレオナが、小ばかにしたように母と同じ言語で姉を煽った。

「うっさい、小学生のうちからメイクしてるアンタの方がよっぽどだよ」

「どうせ中学校入ったらできなくなるんでしょ、今のうちに楽しんどかないと」

 ゲームでなければ問題ないとでも言いたげに、レオナはテレビのリモコンで動画サイトを開くと、登録しているチャンネルの新着動画を開く。

「アンタ、ほんっと生意気。中学入ったら絶対先輩に目ぇ付けられるよ」

「やられたらやり返せばいいんだよ、所詮一歳か二歳しか違わない人間相手なのにビビりすぎ。ソフィアねーねみたいに胃に穴が開くまでガマンなんて、アタシ絶対しないから」

「あー、二人とも、なんでもいいから、もう寝ようか? パパは寝るぞ?」

 日本語ではない言葉を半分ほど聞き取りながら言い争う姉妹を、父親は苦笑いと共に諫める。

「ねーねたちばっかおきててずるい、アタシもまだねむくないよ! パパ、アタシもにゃんことおさかなのどうが見たいー!」

 一番下の妹のナダリアがすっかりむくれて、日本語でごねながら地団太を踏む。

「だめだめ、ナダリア! ドンドンしたら下の人に迷惑だからやめようね。ほら、アタシと一緒に寝よっか」

 ウレタンマットの上でよかった、と心底ほっとしながら、ソフィアはナダリアを抱き上げ、狭いリビングでなおも言い争いを続ける二人の妹を見遣る。

「アイリスとレオナもさっさと寝な、寝不足だと熱中症で倒れるよ。あと、この時間にその声のボリュームでケンカしないで、またクレームきちゃうでしょ。次引っ越すときはパパが家を建てるときだけにしたいんだから、追い出されるのは困るの。勘弁してよね」

 長姉にぴしゃりとそう言われて、仕方なしといった風情で二人は口をつぐむ。

「パパ、ママ、おやすみ。ほら、ナダリアもキスして」

 二人で順番に、両親の頬に顔を寄せて音を立てるだけのキスをすると、ソフィアは寝室に妹を連れて引っ込む。


「ねーね、高校ってたのしい?」

「楽しいよ、いろんな勉強できるし、友達もたくさんいるし、部活だってあるし」

 壁一枚隔てると、先ほどの喧騒が嘘のように静かになるマンションの中、玄関から入ってすぐの部屋に二つ置かれた二段ベッドの片側の下段に二人で寝そべりながら、ソフィアは静かに妹に答えを返す。

「ナダリアは、小学校楽しい? クラスにも慣れた?」

「うん、うちみたいに外国人の子、いっぱいいるし、日本人のおともだちもいるし、わかんないことあったら先生もおしえてくれるから、ぜんぜんこまらないよ」

「そう、よかった。意地悪はされてない?」

「だいじょうぶ。みんななかいいよ。休みじかんは、つくし学きゅうの子も、友だち学きゅうの子もいっしょにあそんでる。ケイドロとかサッカーとかキックベースなら、ことばがわかんなくても、ルールがわかればいっしょにあそべるから、けっこうべんり」

「ふうん……」

 嬉しそうに微笑む妹の言葉に、ソフィアはふっと小さな息を吐く。


(アタシ、やっぱちょっと運が悪かったのかな)

 同じ小学校に通ったはずなのに、妹の話と自分の過ごした時間の内容の落差があまりにも激しすぎて、苦笑いが口の端に浮かぶ。

(アタシの学年は、日本人だけじゃなくって、フィリピンとかベトナムとかでも、がっつり国ごとにグループが出来ちゃってたもんね。支援学級の子っちもビビっちゃって、全然教室から出てこなかったし、外国籍学級の子なんて、顔も知らないまま卒業しちゃったっけ……)

 その国の子供同士で、まるで代理戦争のように毎日小競り合いが起きていた空気が、そのまま中学校まで持ち上がってしまい、五年生ごろから急に母の若い頃そっくりにぐんと背が伸び、体形も日本人離れした丸みを帯びたのが悪目立ちしたおかげで、特に日本人のグループの女子から陰湿な嫌がらせをされ、二年生の半ばに胃炎を起こして入院までしたことをつい思い出してしまって、ソフィアは苦い気持ちが口元まで満ちてくる。

(みんながみんな、意地の悪い子ばかりじゃないとは思うけどさ、……心配だな。三人とも、この先、外国人のハーフってだけで嫌な目に遭わないか……)

 特に血気盛んなレオナがトラブルを起こしそうで、想像しただけでひやひやする。


(……狭いな、この街。アタシはもっと、広いところに行きたい)

 うとうとし始めた妹の髪を撫でて、ソフィアは目を閉じる。

(アタシは、本当のアタシの姿を、この街では見せられない。見せることはまだできない。……誰にも文句言われないようなすごい人になって、絶対に脅かされないだけの力を持たなければ、アタシは自分の好きな人を、堂々と想うことさえできない……)


 毎週末、同じ学年の男子や先輩、他所の学校の男子生徒というように、毎回相手を変えながらデートをすることはとても楽しい。

 楽しい――そう思えるように、と願いながら、積極的に男子生徒やその友達に声をかけ、部活動が休みの日曜日、そうして時間を過ごすことに、この頃ようやく慣れつつある。

 中学時代には『日本人』の生徒から指さされて眉をひそめられていた肌の色も、悪目立ちしていた体型も、『これが自分だ』と愛せるようになり、むしろ誇れるようになって、制服こそ着崩しはしないが、ボディラインが出るコンシャスな服装をまとうことも、高い背丈をさらに高く見せるヘアスタイルも、すべてが自分のアイデンティティだと、胸を張っていられるようにもなった。

 こうして自分を磨いて、出会いを重ねていくうちに、いつかどこかで、本気で好きになれる『男の子』に出会えるはず――そう思いながら、いつか来るその時を待ちわびて、次に遊ぶ約束を交わし、浅く広くソフィアの世界は広がっていく。


 しかし、部室に足を運ぶたび、心の奥底が狂おしくざわめく。

 どうしても目で追ってしまう、可憐な一輪の花のような『その人』がいるのを確かめるたびに――


 決して自分の方を向くことのない、長く滑らかな黒髪と、線の細いシルエットの綺麗な女の子。

 彼女が恋い慕う、背の高い男性教師が羨ましくてたまらない。

 自分に見せる親愛の情の微笑みと、彼女が彼にだけ向けている、恋する乙女の甘美な微笑みを、取り換えてくれないかとさえ思う。

 今まで何度か女の子に対してこういった気持ちを持つことはあったが、その中でも今回は特に強烈だった。


(……言えないな、困らせたくないもの。くるみ先輩には、興津先生と幸せになって欲しいから)

 自分など割って入ることのできない睦まじさに、ソフィアの胸はちくりと痛んだ。


 すうすうと寝息を立て始めた妹の頬にそっとキスをして、彼女は身体を起こすとベッドを抜け出して上の段に昇る。

 古い毛布を体に巻き付けてから、枕元に投げっぱなしのヘッドフォンを被って、父から譲ってもらった古いポータブルCDプレイヤーの再生ボタンを押すと、オフタイマーをかけて目を閉じる。


(いいな、興津先生。あんなかわいい子に好かれて、ほんと羨ましい……くるみ先輩のこと不幸にしたら、絶対許さないから)


 理不尽な嫉妬と憎悪を追い出すように両頬を軽く手のひらで叩いてから、ソフィアはThe Whoの『リアル・ミー』を子守唄に、縛るもののない夢の世界に落ちていった。

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