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第70話

「くるみちゃん、掃除終わった?」

「あ、……うん、終わったよ」

 ミチルと連れ立って教室に入ってきた祐華の問いかけに、くるみは力なく答える。

「……大丈夫ですか? ご気分が優れないとか……」

「そんなことないよ、……大丈夫」

 今朝からまったく元気のない様子の彼女に、ミチルと祐華は顔を見合わせる。

「ねえ、……無理だったら、部活お休みしたほうがいいわ。先輩と先生には、わたしから言っておくから」

 完全に覇気のないくるみに、祐華は労るような笑みを浮かべる。

「ううん、そんなんじゃないよ。心配しないで。……行こ」

 くるみはそう言うと、ロッカーの上からギグバッグを取り、気怠そうに背負う。

「……」

 廊下に出たものの、明らかに部室に行くことをためらっている彼女の背中を、祐華とミチルも追った。


(……付き合う前に戻っただけじゃない、バラバラに帰るなんて、普通のこと……)

 昨日、部室に最後まで残っていた時、興津から「しばらく一緒に帰るのはやめよう」と言われてしまったことに、くるみの心はすっかり弱っていた。

(見つかりそうになったの、たしかに怖かった。……わたしも、キスしたり触ったり、ハグしたまま離れなかったり、困らせてばっかりだった。これは自分が招いたんだ。しょんないこんなんだ。わたしを好きでいるだけで、先生は犯罪者扱いされちゃう。わかってる。わたしたちがどれだけ本気だって言っても、誰も信じてはくれないし、許してはくれない……)

 とぼとぼと歩く足元が綱渡りのロープに見えて、そのままふらりと何処かに落ちてしまいそうになる。

(それに、昨日ミチルちゃんから聞いた話が確かなら、本当に危険なことになる。未角くんがわたしと先生に目をつけたのなら、余計に危ない……あの子のことだから、先生の悪い噂立てるくらいは平気でやる。絶対に先生を守らなきゃ。わたしの勝手な気持ちで振り回しちゃだめ。先生、授業中すごく楽しそうだもの、きっとこの仕事が好きなんだ。辞めさせちゃうようなことは、絶対させない……)

 決意したその思いが苦しくて、ぎゅっと唇を噛む。

 興津と距離を取らざるを得なくなってしまったことに加え、執拗なまでに彼に逆らい、自分に欲望丸出しの不快な視線を送ってくる緑郎がいる部室へ仕方無しに向かうことに、くるみは喜びを見いだせなくなっていた。


「お疲れ様です」

 部室に入ると、太陽と隆玄がすでに自分たちの楽器の準備を始めていた。

「おっつー」

「お疲れ様、……くるみちゃん、顔色悪いけど大丈夫?」

「あ、え、そんなふうに見えますか?……お化粧うまくいかなかったかな、あはは」

「まーたメイクしてきたん? 先生に叱られるよ」

 太陽に心配され、隆玄にからかわれながら、くるみは中途半端な笑みを浮かべた。

(叱られてもいい、……話しかけてくれるんだったらなんでもいいよ……)

 昨日から一言も会話を交わせていない寂しさが、ずきりと胸を刺した。


「お疲れ様でーす」

「お疲れ様です」

 緑郎以外の一年生が、連れ立ってどやどやと入ってくる。

「お、ソフィアちゃん今日は遅刻しなかったね」

「んー、せっかく他のクラスの可愛い男の子と話してたのに、リンちゃんとさっちゃんに連行されちゃったんですよー」

 凛子に腕を引かれながら残念そうに言うソフィアに、

「もーソフィア氏、男子と話すよりも部活優先に決まっとるでしょうが」

 呆れ口調で凛子が返す。

「あともうちょっとでデートの約束まで行けたのになあ」

「だめだめ、逆ナンしてる暇があったら部室で練習っすよ!」

「もしかして、今までの遅刻の理由、それだったのか……?」

 二人の会話を聞いて、隆玄はぐったりと頭を抱えた。


「……お兄ちゃん、具合悪い?」

 血色のない顔をした兄の側に寄って、紗雪が小声で尋ねる。

「ん?……へーきへーき。なんでもないよ、ちょっとリアクションデカくしただけだって」

 ドラムの椅子に腰掛けてスティックを使って腕を伸ばしながら、隆玄は妹に笑う。

「俺の心配する暇あったら、自分の心配してろよ。大丈夫だから」

「……うん……あの、……ごめんね、お兄ちゃん」

「何が」

「……」

「なんでもないなら謝るなよ、ほら、あっちゃんとこ行きな」

 隆玄が妹の肩を叩いて促すと、紗雪はこくりとうなずいて、兄の言う通り敦哉の側に寄った。


(……部室の空気が悪い……これじゃ、りゅーげんも参っちゃうよな……)

 去年の夏の終わりから妙に神経質になっている気配はあったが、この間から明らかに調子を崩している隆玄を見て、太陽は心のなかでため息をついた。

 人数が増えれば仕方のないことなのだが、一箇所巨大な歪みがあるだけで、良くなったはずの事象すべてが災いに引きずられる気配がして、彼はその居心地の悪さに身じろぎする。

(普段おちゃらけてるけどさ、なんだかんだでりゅーげん、根っこは優しすぎるくらい気い遣いで繊細なんだよな。……だから俺が吹奏楽辞めた時、知らん顔しないで、話聞いてくれたし……)

 彼の叩くドラムの音色にもそれは現れている。彼はどんなに激しい曲でも極めて几帳面かつ丁寧で、決して勢いだけで押し切らずに、きっちりと複雑な技巧をごまかさずに叩く。

 紘輝のパワフルで豪快なギターと、祐華の生真面目でしっかりしたベース、ミチルの鮮やかな鍵盤に、自分の譜面を外せない不器用なギター、そして、くるみの特徴的だが聴くものを魅了してやまない歌声――それらを全て、底から支えてくれていた彼のドラム。

 すべての調和が取れていたあの空間を、演奏したときの胸の熱さを、懐かしく感じる。

 去年が出来すぎていた、と言ってしまえばそうなのだろう。

(……みんなが仲良くって、バランスが取れてて、ここに来るのが毎日楽しみだった。……でも、今はどこもかしこもがたがただ。りゅーげんは疲れ果ててるし、くるみちゃんも先生もしんどそうだし、他の子っちはあいつの方ちらちら見て話してて……こういうの、俺、ほんと嫌いなんだよ。見てるのも嫌になる)

 あまりの雰囲気の重さに、ここが同じ空間だとは思えない気分で、太陽はその圧に抗おうと歯を食いしばる。

 そうして、どこで歯車が狂い始めたのかを、手の内で白いピックを弄びながら思い返した。

(……りゅーげんがおかしくなったのは、……文化祭終わって、定演の前後くらいからだ。あの頃から、口数増えて、麗ちゃんにべたべたして、ほとんど張り付くみたいに世話焼いて……あとはそう、あの二人だ。紗雪ちゃん見るたんびに暗い顔する。敦哉くんも同じだ。今も……何かいちいち、あの三人の話には、含みがある……)

 めまいがするような、つかみ所のない不安――おそらく、三人の中だけでの『隠し事』がある――その予感が的中しそうなことと、そうであるなら、なぜ隆玄が自分に打ち明けてくれないのか、太陽はひどく焦れて悔しくなり、無意識にピックを握りしめる。

 が、すぐに、『自分にさえ話せないようなこと』なのかも知れないと思い直し、彼は三人の顔を交互に見る。

(何があったのかはわからないけど……俺のことで、去年はしんどい思いさせちゃったから、かわりに俺が頑張らないと。あいつは祐華ちゃんやミチルの手に負える相手じゃない。先生もきっと、昨日の話がくるみちゃんから行ってるだろうから、今までみたいには行動できなくなる。……このまま空中分解しなければいいけれど、……正直、俺ももう逃げ出したい……)

 千々に乱れる思考の隅から、得体の知れない何かが自分たちを蝕んでいるようで、背筋に冷たいものが走る。

 それを振り払うように太陽は首を横に振って、いよいよ大袈裟なため息をつくと、ストラトキャスターにシールドを挿してアンプの側に寄った。


「うーっす」

 部室に雑な挨拶をしながら緑郎が入ってくると、誰もが口をつぐんで目を逸らす。

 一気に氷点下まで冷めた空気に、緑郎の舌打ちが響いて、泥水が混ざるように部屋の中は濁って張り付く。

「……あっちでチューニングしましょ」

 祐華とミチルは彼からくるみを遠ざけるように、背中をかばいながら対角線上に移動する。

 その後姿をにやにやしながら眺める緑郎に、太陽は体が痺れて動けなくなるような恐ろしい胸騒ぎを感じた。


「……森くん、そのギター……」

 不意に、入口のすぐ近く、角が削れたハードケースを開けた翔琉の隣で、凛子が息を呑む。

「うん、父さんが結婚する前に買ったやつなんだって」

 バーストの美しいレスポールを抱えて、彼は満面の笑みを浮かべる。

「いや、気が付かないっすか!!? それ、『いせバン』の主人公が持ってるのと同じモデルっすよ!! このボディカラーの左利き用は生産終了でプレミアついてて、血の涙を流して諦めたんすよ……! ほあああ、眩いっ……! 今の自分にこのギターは眩すぎる……ッ!」

 凛子がその場に崩れ落ちる。

「え、なに、そこまで?」

「あー、リンちゃんいちいちオーバーだから、気にしないでいいと思うよ。……でも、良いギターだね、ピカピカだ」

「はは、先生にだめって言われなきゃいいけど。中古は中古だしね」

 ソフィアに言われて、翔琉は苦笑しながら頬をかいた。

「こっちはボディが丸いんだね」

 紗雪と一緒に寄ってきた敦哉が、興味深げにキャラメル色のボディを眺める。

「うん。音もぜんぜん違ってね、昨夜、早速弾いてみたら、緑郎くんのよりも太くてズシッとくるけど、やわらかい感じなんだ。同じギターでもここまで違うんだって驚いたよ」

 楽しそうに語る翔琉の後ろで、

「……高校生にもなって『パパ』のお下がりかよ、だっせえ」

 それを横目でちらと見た緑郎が、鼻で笑って毒づく。

「あれ? 緑郎くん、自分の親のこと『パパママ』呼びなんだ?」

「あーら可愛い、アタシのまねっこ?」

「ちっ、違えよ!!」

 嫌味のつもりでわざと使った言葉を翔琉に真に受けられ、更にソフィアに追い打ちをかけるようにからかわれて、緑郎はあっという間にふてくされて沈黙した。


「……あ、そうだ、言うの忘れてた。今日、先生、会議で来るの遅くなるって言ってたもんで、来るまで各自、音出ししててくれって」

 隆玄がはたと思い出したように、みんなに声をかける。

「そろそろ中庭ライブの曲も決めないとな。結局一年生はどうするんだろ」

「先週の時点では、できれば全員、なんらかの形で参加させたいとは言ってたけど、難しいかもなぁ……あ、先生来たら政宗のことも話、しとかないと」

「面白い子だったね、磐田くん」

「だろ? 俺もそう思った」

「なんじゃそりゃ。小学校から同じ塾なんだろ、クラスも一緒なんだし」

「いやぁ、あいつもあんな性格だからさ、俺からは話しかけづらかったんだよ。……今日、見学に来るんかなぁ。あんま来てもいいこんないと思うから、出来れば来ないで欲しいけど」

 太陽と会話をかわしつつ、ばらばらで見るに堪えないモザイク模様のような部室を見渡して、隆玄は大きなため息をついた。


(……くるみ先輩に話しかけるなら今だな)

 興津がやってこないうちならくるみに近づけると踏んで、緑郎はずかずかと彼女のいる方に歩き出す。

(先輩の目を醒まさせて、あいつから遠ざけるんだ。そうしたら俺のものになる)

 緑郎は自信満々に笑みを浮かべ、気配に気づいた祐華とミチルに睨まれるのを無視し、怯えるくるみに話しかけた。


「先輩、オレ、先輩の好きな人わかりましたよ」

 ぎく、とくるみの身体がこわばり、大きな目が更に大きく見開かれる。


「当てて見せましょうか。……興津先生。違いますか?」

 口をきゅっと真一文字に結んで沈黙したくるみに手応えを感じ、緑郎は更に続けた。


「ははは、マジで当たりかよ。ウケるなあ」

 緑郎はひとり、手を叩いて大笑いすると、さらにくるみに言葉を浴びせる。

「先輩、結構チョロいんですね。あーんなおっさんにコロッとだまされて、もう全部『あげちゃった』んでしょ? はは、もったいないなー」


「……は?」

 低い声がくるみの喉奥から漏れ、それまで怯え一辺倒だった顔色が変わる。

(見てろよヒゲジジイ、これでお前は終わりだ。先輩に現実を、俺が教えてやる)

 的を得たことに高らかに脳内で勝利宣言して、緑郎は自分の中でこれぞと思ったとどめの言葉を畳み掛けた。


「てか、あんなおっさんのどこがいいんですか。見る目なさすぎですって。結婚とかそーゆーエサにつられて、テキトーに嘘つかれて、都合よく遊ばれてるだけでしょ。先輩が若いうちにおいしいとこだけつまみ食いしたら、確実にポイされますよ? それに、教師の給料なんてたかが知れてるし、俺の方がずっと金持ってるから、どこにだって遊びに行けるし、サッカーやってたから体力だってあんな年食ったおっさんなんかより全然あるし、いろいろ満足させられ……」


 緑郎の話の間にくるみはエレアコのストラップを肩から外すと、傍らにいたミチルに押し付け、カバンだけを持って部室を飛び出していった。


「……あれ?」

 目論見の外れた緑郎が、きょとんとした顔でくるみの去った部室の出入り口を振り向く。


「……」

 なにか言うのも汚らわしい、という目で祐華とミチルが緑郎を睨むと、それぞれ楽器をスタンドに立て、くるみが走り去った廊下に飛び出していく。

 乱暴にストラップを外してギターをスタンドに置き、今にも緑郎を殴りに行きそうな太陽を、怒りで顔を蒼白にした隆玄が腕で制する。

 緑郎の言葉を聞いていた一年生全員が、軽蔑の眼差しを送る。


「……な、なんだよ。俺なんか悪いこと言ったか?」

 流石に針のむしろのような空気に耐えきれず、緑郎がややヒステリックに聞く。


「……きっしょ」

 凛子の吐き捨てるような声と氷のような目が、その場にいた全員の総意となって緑郎の動きを止めた。

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