第72話
吹奏楽部の個人練習の音が所々から聞こえる西棟の階段を、半分飛び降りるようにしながらくるみは駆け下りる。
後ろから、くるみちゃん待って、という祐華の声が聞こえるような気がするが、振り返りたくなかった。
(もう嫌だ、あんな気持ち悪い目でわたしを見るような奴と、同じ空気を吸いたくない!……何もわかってないくせに、何も知らないくせに、……わたしたちがどれだけ二人で悩んで、考えて、それでも一緒にいるって決めたのか、何もわかってない人間に、あんな言われ方されてまで、あの中に居たくない!! もう、何もかも嫌だ!!!)
ずっと抱えていた不快という名前の爆弾に、下品な言葉で放火され、いまや心の中は焼け野原になっている。
耳の奥から、聞かされた言葉の一文字一文字すべてをほじくり出してしまいたいほどの不快感に、とめどなく吐き気がする。
自分を追いかけてくる友達の声がどんどん遠くなり、何もかもがどうでも良くなる。
そうして一階まで階段を降りたところで、くるみは興津と鉢合わせした。
「……牧之原? どうした、こんなところで?」
いつも通りに優しく問いかける彼に、緑郎から浴びせられた汚い言葉を聞かせたくなくて、くるみは何も答えず昇降口へとかけていった。
「……くるみ?」
ただならぬ様子に、興津は彼女を追いかけようとする。
そこへ、
「せ、先生……!」
息を切らせて祐華とミチルが走り込んできて、彼はその動作を止めた。
「藤枝、菊川!……いま、牧之原がここにいたんだが、何かあったのか?」
「くるみさん、……部室で、未角くんに、……」
ミチルがとぎれとぎれに説明するまでもなく、緑郎の名前を聞いた彼の顔色が豹変する。
「……あの野郎……!」
とうとう彼は緑郎への怒りをむき出しにした。
「先生、待って、先に、……くるみちゃんを……」
「わかってる。さっき昇降口に向かったのを見た。無理矢理にでも止めればよかった……」
興津は一瞬だけ歯噛みすると、
「学校の周りにいないか、自転車があるか見て来る。親御さんにも連絡をするから、君たちは部室に戻りなさい」
祐華たちにそう言い残して、教職員用の昇降口に向かって走っていった。
「お前、脳みそ下半身かよ。最低だな。同じ男として、恥ずかしいったらありゃしねえ」
太陽が心底蔑んだ目で緑郎を見る。
「そりゃ、セックスのことしか頭にないんじゃ、真面目に練習なんかしないよなぁ」
隆玄が聞いたこともないような冷たい声音でつぶやく。
「あ、あれは、だって……その、俺、先輩の目を醒ましてあげなきゃいけないって思ったんすよ! ていうか男と女なんてそうじゃないっすか、付き合ったら当然、そういうことするに決まってるじゃ……」
「気持ち悪いからそういう話しないで!! ほんっとデリカシーないわね!! 最低よ!!!」
ヒステリックな大声で叫んだ鬼の形相の紗雪に、緑郎は気圧されて二の句が継げなくなる。
「さゆ、落ち着いて。……未角君、あんな言い方ないと思う。人が誰かを純粋に好きだっていう気持ちを、さっきみたいな汚い言葉で踏みにじっちゃだめだ」
敦哉が嫌悪感で震える紗雪の肩をさすってなだめながら、据わった目で緑郎を睨んだ。
「よくもまあ、あそこまで下品な発言できるもんだね。キモい通り越して気持ち悪いわ、マジで。エロマンガの読み過ぎで頭沸いてんじゃねーの」
もう見るのも嫌だという表情で凛子が顔を背ける隣で、
「そもそも何言ってんの、キミ。先輩の目を醒まさせる? 随分烏滸がましいね」
ソフィアが呆れ顔で腕を組んだ。
「だってそうだろ!? 年上のおっさんなんかと付き合うより、俺と付き合った方が絶対いいって!! あんな可愛くて美人なのに、おっさんと付き合うなんてかわいそうだろ!? それに先生が生徒に手え出したら犯罪者じゃねーかよ!! 俺は犯罪者から先輩を救ってやったんだ!!」
「……証拠はあるの、それ?」
わめきたてる緑郎に、翔琉が不思議そうな顔をして問う。
「緑郎くんがどうして頭っから先生のことを『犯罪者』って決めつけてるのかわからんけどさ、証拠もないのにそういうこと言ったら名誉毀損になって、最悪訴えられるよ? まあ、まずお世話になってる先生を『犯罪者』呼ばわりするっていうとこが、まずオレ的にはなかなかびっくりなんだけどさ、例えば、牧之原先輩と先生が個チャでやり取りした画像とか、裸の写真送ったとか、キスしてるの見たとか、そういうのある?」
「……」
「ないんだよな? じゃあ言うのやめときな、それってただの妄想じゃん」
「!……」
何か言い返そうとして、結局何も浮かばなかった様子で緑郎はうつむく。
なんとも忌まわしい空気の中、ソフィアが今度は腰に手を当てて再び口を開く。
「先輩はあんたみたいのからいろいろ言われて、先生が困らないようにって気を遣ってたんだろうに、それを人前でバラせる神経、マジでどうかしてるとしか思えないわ。……しかも、あんなキモイこと、よく口に出して言えるね。先生にも失礼だし、くるみ先輩がこれで変な噂立てられたら、アンタどうしてくれんの? だいたい、最初からあれだけ拒否られてんだからさ、素直に諦めて別のことやった方が、ここまで酷いことにならずに済んだんじゃないの? なあ?」
「黙れ大女。俺は……」
「んだとコラ、こちとら大女で結構だよ。残念だねー、アタシより背が低くて。このチビ」
「ちっ……!?」
堪忍袋の緒が切れたソフィアにドスのきいた声で反撃され、緑郎は恐怖に顔を歪ませる。
「女だからって舐めんなよ、クソチビ。こっちが下手に出てりゃ調子に乗りやがって……」
「あああ、やめなよ、松崎さん!」
指の関節をボキボキと鳴らし、殴り掛かりそうだったソフィアを、敦哉が慌てて止める。
そのやり取りが落ち着いたころ、ずっと黙って緑郎を睨んでいた太陽が重々しく口を開いた。
「……未角、お前さっきから聞いてればずっと、『俺は』『俺は』ばっかだよな。お前、サッカーやってきたんなら、チームメイトや先輩後輩がいただろう。監督や先生の作戦をしっかり聞いて、臨機応変に仲間と協力し合ってやるのが、サッカーっていうスポーツじゃないのか? 自分ばっかり目立とうとして、誰にもパスを回さなかったり、指示を無視してプレイしてたら、試合にならないんじゃないのか?」
「……そんなの、俺について来れないやつらが悪いんすよ! 誰も俺のプレイを認めないから、だから試合に負けるんだ!! 俺は指示なんてなくたって、その場で試合の空気を読んでやってるんだ!! 俺が一番うまいんだから、俺に任せておけば絶対に負けないんだ!!」
「その『一番うまい人』が、今こうやって、サッカー部の人っちから見放されて、だーれも相手しなくなった理由、自分でわかってないっぽいな」
先ほどよりも冷たさと鋭さを増した隆玄の声に、緑郎はぐっと息をのみ込む。
「あのな、音楽も同じなんだよ。ひとりだけ目立とうとして勝手なことやったら曲にならない。バンドなんて特にそうなんだ。みんながお互いのことを認め合って、それぞれの演奏を聴きながら、楽しんでひとつの曲を仕上げていく。誰か一人が前に出過ぎてもいけないし、誰かがミスしたらカバーしたりフォローに回る。俺らは一つのチームなんだ。相手のことを思いやらないと成り立たない。その思いやりがないから、お前は『使えない』って判断されて、監督もコーチも迎えに来なくなったんだよ。仲間を思いやれない、自分に教えてくれる人や、対戦相手に敬意も払えない人間は、どこのチームでもお断りなんだ。いい加減わかれ」
そこまで話すと彼は戸口の方を見やりながら、
「……恋愛も同じだ。なあ、祐華ちゃん、ミチルちゃん」
先ほどから立っていた二人に声をかける。
「……そうね、隆玄先輩の言うとおりよ」
厳しい表情で、祐華が部室の中に足を踏み入れる。
「未角君はずっと、自分の欲求ばかり押し付けて、くるみちゃんがどれだけ嫌って言っても、迷惑だって言っても、聞く耳もたなかった。自分の好きな人がやめてって言ってるのに、全然話を聞かないで、嫌われてるってことさえ認めなかった。……くるみちゃんがどんな気持ちで、さっきの言葉を聞いてたかと思うと、わたしは絶対にあなたを許すことはできないわ。くるみちゃんがどれだけ先生の事を真剣に好きなのか、わたし知ってるから、あなたみたいな人にあんな言われ方されて、どんなに悔しかったか……!」
半分涙ぐんで歯を食いしばる祐華の隣で、目が笑っていない笑顔のミチルが口を開く。
「わたくしは興津先生がどんな方なのか、少なくともあなたよりは良く存じ上げております。とても誠実で真面目で優しい、良い先生です。くるみさんに慕われているからと言って、特別に贔屓もしないし、あなたが想像したような不埒な真似もなさらないでしょう。……よく知りもしないあなたから、あのような言われ方をされるのは、先生を尊敬している身としては非常に不愉快です。先ほどの罵詈雑言など、一言一句、先生のお耳に入れたくもありません。……未角君。下品な言葉の数々と非礼を、ここでお詫びいただけますね?」
相手が祐華とミチルだからか、緑郎はにやりと笑って再び言い返し始めた。
「何言ってんすか、あいつは教師で、先輩は生徒でしょ。てかそれ以前に、十歳以上も歳離れてるのに恋愛とか、マジありえないんすけど? それに、世の中には普通の正しい恋愛っていうのがあるじゃないっすか」
「おい、てめえ今なんつった?」
思わぬ方角から低い声が飛んできて、緑郎はそちらを腰が引けたまま見遣る。
「黙って聞いてりゃ、『普通の正しい恋愛』とは主語がでけえなあ、チビのくせによ」
先ほどから臨戦態勢のままのソフィアが、薄笑いを浮かべ、腕組みをして一歩ずつ緑郎に近づいていく。
「言ってみろよ、お前の中で何が『普通の正しい恋愛』なんだよ?」
「……い、いや……」
ソフィアのあまりの剣幕に、彼女を誰も止められず、部員たちはその場に立ちすくむ。
「なにか?『年の近い、日本人同士の男と女が付き合うこと』って言いたいのか?」
「……ま、まあそんなところだ……」
瞬間、ソフィアは緑郎の胸ぐらをつかんだ。
「アタシの親、十一歳離れてんだけど、お前喧嘩売ってる? しかも母親はブラジル人だっつったよな? 馬鹿にしてんの?」
「ひっ……」
最早殺気に近い怒りを放つソフィアに、緑郎は息を呑み、目を見開いてされるがままになる。
「お前みたいに『自分の中だけの正義と常識』を振りかざす奴、一番むかつくんだよ。お前、歳の差や国際恋愛だけじゃなくて、同性同士の恋愛も、敢えて結婚しない人も、全部間違ってるって言いたいわけだな?……スマホ貸せよ。どうせ学校に黙って個人情報だだ洩れのSNSやってんだろ、今言ったこと書き込んで大炎上させて、人生破滅させてやっからよ……!」
彼女がそう言いながら怒り心頭で腕に力を込めると、緑郎の身体は宙に浮いた。
「ま、待って! ソフィアちゃん、落ち着いて!」
「それはさすがにやり過ぎです!」
「手を離せ、とにかく! 暴力はやめろ!」
祐華とミチルに止められ、太陽が間に割って入って、二人は引き離される。
「だめだよ、ソフィアちゃん。そんなことしたら不利になるのは君のほうだ」
隆玄が無に近い表情で立ち上がり、ソフィアを宥めてから緑郎に向き直る。
怒りを押し潰しすぎて何もなくなった声で、隆玄は淡々と話し始める。
「未角、俺から見れば、お前のほうが間違ってる。お前は自分の欲望を満たすことばかりで、くるみちゃんの幸せを考えていないし、理解しようともしてない。お前の恋愛には相手がいない。全部ひとり相撲で、そこにくるみちゃんが存在してないんだよ。いちばん大事にしなきゃいけない『相手の感情』を全部無視して、まるでトロフィーみたいにあの子を自分のものにすることだけ考えて、汚い欲のはけ口と、自分を飾り立てるアクセサリーのひとつくらいにしか思ってないんだ。そんな自分勝手で傲慢な行動が正しいだなんて、俺は絶対に思えない。ここまで人をないがしろにするやつがいたなんて、信じられない気持ちでいっぱいだよ。……人をぞんざいに扱う人間とは、俺は付き合わない主義なんでね。もうこれからは業務連絡以外、話しかけないでくれ」
その言葉にミチルがうなずき、静かに、冷ややかに言葉を発する。
「……あなたはご自分のわがままを通すために、どれだけたくさんの人が迷惑を被ったか、考えたことがありますか? サッカー部の監督や興津先生だけではありません。あなたの才能を信じて送り出してくださったうえ、楽器を買うお金を出してくださったお身内の方も、推薦してくださった中学校の先生も、あなたが連絡もしないで楽器屋さんに行ってしまったときに、心配して探してくださった沢山の先生方も、あなたが来ることを待っていたサッカー部のみなさんも、その方たちすべての心を踏みにじっているんですよ。そうやって、ここに来てもまだ、真面目に練習をするわけでもなく、毎日先生の仰ることに逆らって、くるみさんやわたくしたちに迷惑をかけている。……正直に申し上げます。あなたとは、もう関わり合いになりたくありません。あまりにも品位に欠ける方とは、わたくし、お付き合いいたしませんの」
顔を背けたミチルの隣で、太陽がもう何度目かわからないため息をついて、緑郎に言い放つ。
「お前は俺の尊敬する人を謂れのない言葉で侮辱した。それだけで嫌いになる要素は充分だ」
祐華がうつむいて、緑郎を見ないようにしながら口を開く。
「くるみちゃんのことが本当に好きなら、ここに無理矢理入部なんてしないで、サッカー部にいたって、変わらずに好きでいられたはずよ。……相手のことを本当に大事に思うんだったら、たとえ自分と結ばれなくても、その人の幸せを願うことだってできるはずだわ。だから、これからずっと、死ぬまでくるみちゃんの片想いの邪魔をしないで。あなたが出来ることは、もうそれしかない。……あなたを二度と、くるみちゃんと直接話はさせない。謝っても、絶対に許さない」
上級生四人に見放され、緑郎は初めて、自分がくるみを傷つけていたことに気付いたようだった。
助けを求めるように彼は同級生たちを振り向くが、
「いや、何見てんの? フツーに無理だから。オタクってバカにしたの、許してないからね?」
凛子がそう言って視線の先からさっと外れる。
「……気持ち悪い。こっち見ないで」
紗雪は心底嫌そうな顔をして、敦哉に庇われながら兄の側に寄る。
「いまからでもサッカー部戻ったら? ギター真面目に教わる気、ないんでしょ」
背中越しに敦哉が、苛立ちを隠さない言葉を投げつける。
「……サッカー部に帰ったところで、居場所なんてあるかな。どれだけの人を裏切ってきたのか、思い知ったらいいよ。ま、自分の後始末は自分でつけてよね。……でもさ、くるみ先輩が戻ってこなかったら、どう責任取るつもり? 人のこと、どんだけ邪魔すれば気が済むの?」
普段の口調に戻り、ソフィアが辛辣な言葉を吐く。
「とりあえず、腹いせに事実無根の噂を流すようなことはやめときなよ。本当に裁判になるからさ。大人を舐めると痛い目に遭うよ。……まあ、きみの態度を見る限り、何言ってもオオカミ少年みたいになりそうだけどね」
翔琉が冷たく言い放つ。
この場に最初から自分の味方がいなかったことを、緑郎は思い知って、膝からくずおれた。




