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第37話

「えっ」

「くるみちゃん……?」

 部室に入ると、昨日の今日だというのにくるみが登校してきていたことに、上級生たちはひどく驚いた。

「あの、昨日はありがとうございました。ご心配おかけしました」

「いやいやいやいや!!!そういうのいいから!!!!」

「むしろ今日お見舞いに行こうかって相談してたくらいなのに!!!」

「大丈夫!?無理してない!!?」

 頭を下げたくるみに、三人は慌てて立ち上がり側に寄る。

「大丈夫です、本当にすみませんでした」

「謝らなくっていいよ、……いや、本当に、何もなくてよかった……」

 紘輝の言葉に、後ろの二人だけでなく教室ではこの話題をあえて避けていた祐華とミチルも、ようやく息を吐いてうなずく。

「しかしグルチャ、あのタイミングでよく流せたねぇ。マジでファインプレーだったっけ」

 驚きと安心と、種々の感情が入り混じり過ぎた笑顔で隆玄がくるみを見た。

「後ろをついて歩かされた時に、隙を見て……気が付いてもらえてよかったです」

「そうか……教えてくれて本当に良かった、あれのおかげで興津先生も早く呼べたし」

 太陽も心の底からほっとしたように、肩の力を抜いて微笑んだ。

「そうそう。あのとき、祐華さんが真っ先に西棟に向かわれたんですよ」

 くるみの右隣のミチルがそう言って、左隣りにいる祐華を見遣る。

「だって……まさかクラスの子に絡まれてた間に、いなくなっちゃうって思ってなかったから……何かあったらわたしのせいだって……」

「ううん、祐華ちゃんのせいじゃないよ。たぶん祐華ちゃんが絡まれなかったとしても、別の場所に連れてかれてたと思うから」

 その言葉に少し救われたのか、祐華の表情が凪いだ。

 くるみは祐華に微笑むと、今度は太陽に向き直る。

「あの、太陽先輩。わたしからも後で個チャしますけど、るなぴパイセンによろしく伝えてください。教えてもらったこと、本当に役に立ちましたって。過剰防衛だ、って朝比奈先生には叱られちゃいましたけど」

「え、もしかして金的教えたの、瑠菜だったのかよ!?」

 太陽のリアクションに、その場にいた全員がどっと笑った。


 ひとしきり笑ったところに、

「お疲れ様、みんないるかな」

 いつも通りの荷物を背負った興津がやってきた。

「お疲れ様です」

 みんなは口々に挨拶をする。


(……顔見たら、うっかり泣きついちゃいそう……)

 甘えたい気持ちを必死に戒めてから、くるみは意を決して興津の方を振り向いた。


「……」

 サイドから流した暗い茶色の髪に、柔和だが凛々しい目元と、綺麗に通った鼻筋。薄い唇の上にある、きちんと整えられた口髭。広い肩と、自分をいつも抱きとめてくれる胸。

 彼を構築するひとつひとつのパーツに余すところなく触れたいという想いが、肺の奥をずきずきと刺して、目の奥から涙を押し出そうとする。

(絶対だめ。みんながいるから、がまん)

 くるみは一度唾を飲んで、興津に昨日自分を運んでくれた礼を言おうと口を開いた。

「あの……」

 しかし、それは上手く形を成さないまま、結局は涙が目の端から滲んで零れ始める。

「……っ、せんせ、わたし……っ」

「いいよ、牧之原。無理はするな。気持ちが落ち着くまで、座って休んでいなさい。話したいことがあったら、あとで聞くから」

 彼はそう言うと、くるみを近くの椅子に座らせて、ぽんぽん、と優しく頭を撫でた。


(……ああ、今だったら、『スタンド・バイ・ミー』、心の底から歌える気がする)

 心許ないときや不安に潰されてしまいそうなとき、自分にとって『誰よりも側にいてほしい人』は間違いなく彼なのだと、くるみはなかなか止まらない涙をハンカチで受け止めながら、その背中を見ていた。


 みんなのチューニングが済み、くるみが泣き止んだころ、

「……あ、そうだ。明日、俺、部活の後に駅ビルの中の楽器屋行くんすけど、紘輝先輩ちょっとついてきてもらえないっすか? 太陽もいいかな? できれば一緒に来てほしいっけ」

 隆玄がドラムセットの後ろから上級生二人に声をかける。

「楽器屋? なんか買うのか?」

「スティックでも新調すんの?」

「いや、買うのは俺じゃなくって妹なんすよ。急にアコギが欲しいって言い出したんで、いいの見繕ってやってほしいなと思って。俺、弦楽器と管楽器は全然ダメなもんで」

 隆玄はそう言って、指先でくるくるとスティックを回す。

「いいけど……いっそ、全員で行くってのもアリだよな」

 そう言って紘輝はくるみたちを見る。

「祐華、お前も来るだろ」

 兄の言葉に、祐華は楽し気にうなずいた。

「うん。久しぶりにウィンドウショッピングしたいかも」

「あ、わたしも行きます。どんなものが置いてあるか見てみたいです」

 ミチルがぱっと手を上げて、きらきらと目を輝かせる。

「くるみちゃんはどうする?」

「えっと、……」

 くるみは一瞬だけ、興津が一緒に来てはくれないかと期待する。しかし、

(……多分、会議とか、他の仕事があるんだろうな)

 そう思って刹那まばたきをしてから、それでもやはり孤独が怖くてにこりと笑う。

「わたしも行きます。お年玉入ったらエレアコ買う予定なんで、その下見がしたいです」

 一人で家に帰るより、みんなといる方が絶対に気がまぎれるだろうことは間違いない。

 それに、隆玄の妹がどんな子なのかも少し興味があった。

(同じアニメ見てたみたいだし、話が弾むといいな)

 そんなことを思いつつ、そろそろ自分のギターのチューニングをしようと椅子から立ち上がったその時、

「先生も来ませんか? 明日、何も予定がなければですけど」

 いいことを思いついたと言わんばかりに、紘輝が満面の笑みで興津に話を振った。

(うえっ!?)

 変な声を上げそうになったのをぐっと抑え込み、くるみは自分の前で五弦ベースを抱えて座っている、興津のつむじを見る。

「そうだな……ちょうど新しい弦を買わないといけなかったし、楽器屋だったら引率という名目も立つから、同行しようか」

 背中越しの彼の言葉に、くるみは思わず紘輝の方に顔を向ける。

「じゃあ、決まりですね」

 紘輝はそう言うと、くるみにウインクしてみせる。

(うああ……わたし、紘輝先輩に足向けて寝られないよ……!)

 くるみはその場でめちゃくちゃに踊り出したくなるほど高揚した。


「りゅーげん、麗ちゃんも誘うの?」

 太陽が麗の名前を出すと、隆玄はすっかり目じりを下げて嬉しそうに笑う。

「うん、一応ね。誘っても来てくれるかわかんないけど。……そうだ。どうせならさぁ、お前も瑠菜ちゃん連れてこいよ、部活終わりの時間だったら、向こうも学校終わってるだろ? そしたらくるみちゃん、直接会って話ができるしさぁ」

「えっ、後輩が先輩呼び出しちゃっていいんですか!?」

 なんだか不遜な気がして慌てるくるみに、太陽と隆玄が吹き出す。

「いいよいいよ、そういうの気にしなくて。あいつ賑やかなの好きだから。ちょっと待って、バイト入ってなければ絶対来ると思うもんで、今訊くでね」

 太陽はそう言ってポケットからスマートフォンを出し、画面をタップし始める。

「結構な大人数ね。でもあそこのお店、ワンフロア全部だから迷惑にはならないかしら」

 肩まで伸びた髪を揺らして、祐華がくすくすと笑う。

「そんなに広いんですね、キーボードもありますか?」

 今から楽しみで仕方のない様子のミチルが身を乗り出す。

「あるある。チラ見したことあるけど、けっこうな数だったよ。……お、返事来た。来るってさ」

 ミチルの隣に移動しながら、太陽が瑠菜からの返事を知らせた。

「あの、じゃあせっかくなんで、お兄ちゃんも誘ってみましょうか?」

 賑やかしついでにと思ってくるみがそう言うと、祐華の頬が途端に真っ赤に染まる。

「慎先輩、バイトとか大丈夫なの?」

「あー、お兄ちゃん、土日は基本家で寝てますから。バイトは平日の夕方だけ、うちの近所の工場でしてるので」

 くるみは太陽に答えつつ、ポケットからスマートフォンを取り出す。

(……なんか、さっきより元気出たかも)

 慎へのメッセージを入力しながら、くるみはようやくいつも通りの笑顔を取りもどした。


 金曜日の午後は無事終わり、くるみは帰り支度をできるだけゆっくりと行う。

(……やっぱりちょっとだけ、先生に甘えたいな)

 わずかな時間でもいいから話がしたくて、先に部室を出て行った友人たちを敢えて見送る。

 果たしてその願いは叶い、

「牧之原、少し話をしようか。……あっちの教室でいいかな?」

 こちらもわざと支度を遅らせたのだろう、興津が荷物を持って立ち上がる。

「……はい……」

 何の気兼ねもなく頬を染めて、くるみはうなずく。

 部室の明かりを消して廊下に出るころには、既にみんなの声は階段の下で響いていた。


 カーテンが閉め切られ、夜の帳に暗く沈んだ、冷たい教室の中に二人は連れ立って入る。

 そしてそれぞれに荷物を机の上に置くと、

「くるみ……!」

 先に堪えきれなくなった興津が、くるみの身体を壊れそうなほど強く抱きしめた。

「……先生、苦しい……」

「ごめん、でも、……」

 彼はそう言って彼女をきつく腕に抱きながら、ぼろぼろと涙をこぼして泣き始める。

「本当に、あんな奴に何もされなくってよかった……!」

「先生……」

 彼が自分をどれだけ心配していたのか、絞り出すような声がそれを物語っている。

 くるみは興津の背中に腕を回して、彼の胸に全身を預けた。

「先生、泣かないで。もう、先生以外の誰とも二人きりにならないから」

「うん……」

「助けに来てくれて、わたし、すごく嬉しかったです……本当に、怖かった……昨夜、全然眠れなくって……」

「そうか……辛かったね」

 興津は少し腕を緩め、くるみの長い黒髪を撫でた。

「でも、……先生が抱っこしてくれたから、きっと今夜は眠れる……」

 彼の身体の温かさとコロンの匂いに、くるみも涙を流しながら、ようやく息をついた。


 しばらくして、互いの涙が落ち着くと、興津は腕を緩めてくるみを見つめる。

(いっそのこと、僕だけのものにしてしまいたい)

 なめらかな髪も、長い睫毛の大きな瞳も、薔薇色に染まった透き通る頬も、やわらかそうな唇もすべて、今ここで自分が余すところなく触れてしまいたい気持ちでいっぱいになる。

 しかし、

(……いや、絶対だめだ。冷静になれ、大地。本当ならこうして抱きしめてしまっている時点で、僕も懲戒処分なんだぞ。……僕まであいつと同じところに落ちてたまるか……!)

 昨日、理事長室で見た、情けない古和土の背中を思い出し、興津は自分の中で爆発しそうだったものをぐっと抑え込んだ。


「……先生……」

 見つめられたのをキスの誘いだと思ったのか、くるみが腕の中で目を伏せる。

「……だめだよ、くるみ。約束しただろ?」

 彼はそう言うと、小さく笑って腕を解いた。

 それでも、そうしてやりたい気持ちだけは伝えたくて、彼女の頬の涙の跡を指でそっと拭う。

「……そうですね。ごめんなさい」

 くるみも目を開けて寂しそうに笑うと、彼から身体を離す。

「先生にいなくなって欲しくないから、がまんしなくちゃ」

 彼女は涙の残る目で彼を見つめて、小さく首をすくめる。

「……うん。……教師失格だな、僕は。本当なら、こうして二人きりになることも、抱き合うことも駄目だってわかってるのに……」

 ため息をついて、興津はカーテン越しの窓枠に寄り掛かる。

「いえ……わたしこそ、仕事の邪魔っていうか、……もしかしたら、首になるかも知れないのに、こんな綱渡りみたいなことさせちゃって……」

 その左隣に並んで、くるみもため息をついた。

「難しいですね、わたしたちって」

「うん。……僕は『教師』で、君はまだ『生徒』だってこと、忘れないようにしないとね」

「……はい」

 隣でうなずいたくるみの頭を、興津は優しく撫でる。

「……それでも、先生が好きです、わたし。ごめんなさい」

「謝るな。……僕も君が好きだ。僕こそごめん、君の気持ちに、中途半端にしか応えてあげられなくて」

「そんなことないです。……こうしていられるだけで、じゅうぶん幸せです」

 そう言ってくるみが興津にそっと寄り添うと、彼は彼女の肩を抱く。

 互いのコート越しに感じられるやわらかい熱が、冷え切った教室の中に溶けていった。


 ややあって、彼は彼女の身体から手を離した。

「……そろそろ行こうか。もうすぐ施錠の時間になる。一緒にいるところを他の先生に見つかったらまずいから、先に帰りなさい」

「はい」

 そう返事をして、なぜかくるみは彼の左手を取る。

「?」

 最後に手を繋ぐつもりなのか、と興津が彼女のなすがままに自分の手を預けると、くるみはいたずらっぽく笑って、彼の左手の甲に小さな音を立ててくちづけを落とした。

「!」

「……唇じゃないからセーフ。でも、ファーストキス、だから。……また明日ね、先生」

 柔らかで温かい唇から耳触りの良い声で甘い言葉をこぼすと、くるみは自分の荷物を持って、すでに半分夜になった廊下を駆けていった。


「……困った子だ」

 顔を真っ赤にした興津はそう呟いて、手の甲をしばらく見つめると、彼女の唇が触れたところに思い切って目を閉じながら、自分の唇を付ける。

(僕からは返せない。……でも、これでいい。僕の初めてのキスも、君にあげたことにする)

 彼女のリップクリームだろうか、かすかにバニラのような匂いがする。

 そこに彼女がキスしたのだという確かな証拠に、思わず頬が緩む。そして、

(……何やってんだ僕は。変態か)

 そこまでしてから、ふと冷静になった彼は、頭を軽く振って自分を正気に戻すと、自分の荷物を背負い直して、真っ暗になった教室を後にした。

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