第37話
休んでいいと言われてはいたが、くるみは翌日もいつも通りに学校に行った。
保健室で感じていた安心感は家路につくころには掻き消え、時間差で自分の身に何が起こりそうだったかを自覚すると、言い知れない恐怖と悍ましさが身体中を駆け巡り、くるみは帰宅してから一度だけ吐いた。
夕食もとらずにシャワーを浴び、さっさと入ったベッドの中で、グループチャットに送られてきたみんなの励ましと労りの言葉を繰り返し眺めながら、そこに興津の名前がないことが苦しくて、声をたてずに泣いた。
疲れ果てて眠っている間に自ら詫びに訪れた天竜たち教職員の話を聞き、ひとまず父と兄はそれに免じて怒りの矛先を収め、その上で家族全員がくるみのことを案じたが、彼女はとにかく興津に会いたくて仕方なかった。
むしろ、家にいると追い詰められた時の恐怖にまた焦点が合ってしまいそうで、学校で興津の存在をできるだけ近くで感じていたほうが、まだ気がまぎれると思った。
(先生の声が聴きたい。もう大丈夫だよ、って、抱きしめて欲しい)
それだけで、どんなに安心できるだろう。
今ここに彼がいないことが、何よりも辛くてたまらなかった。
やがて、真夜中になっても訪れない眠りのいたたまれなさに、彼女はスマートフォンの画面で、彼が愛してやまないQueenとビートルズのプレイリストを開く。
『ボヘミアン・ラプソディ』を聴きながら目を閉じると、彼の歌う面影が浮かび、布団の温かさに彼の腕のぬくもりが重なる。
(早く、夜が明ければいいのに)
幼いころに負った心の傷のせいで今でも眠れない彼の苦しみを、少しだけわかることができたような気がして、同時に身体の奥が痛くなるほど寂しくなる。
(先生、今夜も起きてるのかな……二人で抱き合って眠れたら、きっと怖くないのに)
せめてもの慰めに、いつも一緒に眠っている大きな猫のぬいぐるみを、彼だと思って胸元に柔らかく抱きしめると、くるみは少しだけ安心して息をつく。
そうして、『愛にすべてを』と『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』に続けて、『ヘイ・ジュード』が始まるころ、彼女はようやく浅い眠りについた。
翌朝、いつもより早く家を出て、コンビニに立ち寄ってのど飴を補充してから、十五分早く学校に着いたくるみは、自転車置き場から昇降口に向かうまでの間に職員室の窓を覗いた。
(……先生いるかな)
残念ながら彼の姿は見当たらない。がっかりしつつ、彼女は昇降口のほうを見る。
「あ」
服装チェックに立っている二人の教員の片方が探している人物であることがわかると、彼女は出来る限り平静を装いながら彼に近づく。
背中から古和土に引きずり倒されそうになった恐怖が蘇り、少しだけ足が竦む。
(……大丈夫、もう今日からは、何も怖がらなくていいんだ)
もうそこにはいないことをもう一度確かめ、興津のいる方に足を向ける。
(……今すぐ、髪を撫でて、抱きしめて欲しい……ううん、がまんがまん。何考えてるの)
背筋の伸びた立ち姿の愛おしさに、ひび割れるほど乾いた心は彼という潤いを求めてやまない。今すぐとは言えなくても、せめて放課後に少しでも触れ合えれば、今夜からは眠れる気がする。
(だけど、先生とそんなことしてるの見つかったら、本当にまずいことになっちゃう……)
自分の思いを汲んでくれているだけで彼にかけてしまう負担の大きさに、改めて心が痛む。
(絶対、怪しまれないようにしなくちゃ。卒業までずっと片想いのふりするんだ)
本当ならばもっと泣いて甘えてしまいたい気持ちを、ぐっと飲みこむ。
(先生を困らせちゃだめ。……そんなの覚悟してたでしょ、くるみ)
だんだんと近くなるネイビーのスーツ姿の彼に駆け寄ってしまわないように、一度足を止めて深呼吸する。
(……でも、昨日の先生、ヒーローみたいだった。安心した。……すごく嬉しかった……)
彼と付き合い始めてから、今までで一番きつく抱きしめられた感触はまだ消えない。
(先生、大好き)
くるみはまっすぐに、彼の元を目指して歩き始めた。
「おはようございます」
くるみの声がしたことに、興津はひどく驚いたようだった。
「!……おはよう、もういいのか?」
「はい、家にいるより、学校にいたいんです」
くるみは彼を見つめる。
(学校にいたいんじゃないの。あなたの側にいたい、それだけ)
「……そうか、無理はするなよ」
誰よりも深い労りを持った声が胸の奥まで染みて、くるみはようやく少しだけ心の中に淀んでいたものが晴れた気がした。
「はい。……ありがとうございます。じゃ、また放課後」
「ああ」
彼と短い微笑みを交わすと、くるみは靴箱へと駆けていった。
「……と言うことで、古和土先生は今日からお休みとなります。代わりに非常勤の……」
一時限目の授業の代わりに行われた全校集会の壇上で、校長が古和土の『病気による長期休職』と、それに伴って非常勤だった英語講師が正式に常勤に採用されたという話をしている間、生徒たちはそれをおとなしく聞くわけもなく、隣や前後同士で古和土についてひそひそと会話していた。
彼が学校に来ない理由が『病気休職』ではなく、事実上の『懲戒処分』であることはうすうすみんな気が付いているらしく、頬に貼っていた大きな絆創膏も古和土が巴にセクハラした際に、巴が彼を殴った痕を隠すためのものだということや、行き過ぎた馴れ馴れしさが、実際はかなりの生徒から疎まれていたこと、襲われかけた生徒――それは他でもないくるみのことなのだが――がいたことも、彼らの間にはすでに伝播していた。
(下手に休まなくてよかった。こういう時にいないと真っ先に疑われるし、すぐに話に尾ひれがつくから)
疑われるも何も、危険な目に遭ったことは事実であることに間違いはないのだが、それでも余計な詮索をされたり、ありもしない話を作られて不名誉な噂を立てられるのは不愉快だ。
くるみは彼らに交じって、自分に起こったことをまるで他人事のように話しながら、内心ほっとしていた。
(もうこれ以上、今年は何も起こらないといいなあ……)
教室に戻りながら、くるみは雲一つない澄み切った冬の青空に染まる、薄いガラスの窓を見る。
入学してからずっと、イベントの合間にトラブルばかりが起きて、そこにテストが何度も挟まり、あまりの目まぐるしさに息つく暇もない。
(あとは後期の中間試験と冬休みと、その後に期末試験。それで静かに終わって欲しい……)
一時限目の残りの時間は自習で、そのあとは二時限目に数学があり、体育が二時間続いた後、昼休みがあって、生物と国語の授業がある。
そして、今日の放課後からは何ものに怯えることもなく、興津とのスキンシップを交えながら、ゆっくりとギターの練習ができる。
もうすぐ『スタンド・バイ・ミー』の弾き語りも完璧になりそうだ。その次に歌うなら、いったい何の歌にしようか。
くるみは久しぶりに訪れそうなのどかな日常に、やっと安堵の息をついた。
(……何であの人たち、わたしの居た中学校の名前なんて、聞いて来たんだろう)
集会の後、教室の窓際でアイドルのコンサート用うちわを作りながら話に花を咲かせている、自分に絡んできた同級生たちを見て、祐華はもやもやとする。
(あまり思い出したくないな、……いいことなんて、何もなかったから)
彼女は深いため息をつくと、机に突っ伏して目を閉じ、青い冬の空が眩しい窓ガラスから顔を逸らす。
(慎先輩、今ごろ授業に出てるのかな……)
彼の母親によく似た目と、父親譲りの凛々しい眉鼻を思い出して、祐華の頬は熱くなる。
毎日のようにやり取りするようになった個別チャットの内容は、他愛のないものばかりだ。
それでも祐華にとっては、彼のくれる言葉のひとつひとつが、どんな宝石よりも美しかった。
定期テストの席次を張り出すという古い習慣の残る中学校で、いちばん最初に5番という順位になってしまった祐華は、その日から学習塾に通う子たちに目の敵にされるようになった。
小学生の頃から勉強はできる方だった祐華の、学校で習ったことをおさらいしただけで叩きだされたその成績に、自分たちは毎日夜遅くまで勉強させられているのに遠く及ばないという嫉妬からはじまった、至極つまらない『いじめ』だった。
はじめは話しかけても無視されたり、給食やグループワークの時に机を離されたりするだけだったが、ものを隠されたり、壊されたり、提出物を集めようとしても出してもらえないという嫌がらせが増えていった。
そのうち、『祐華だったらいくらいじめてもいい』という空気はいつの間にかクラス中、果ては学校中に広まり、祐華はどこにも居場所がなくなった。
幸い、教員たちは成績の良い祐華の味方になってくれた。
彼女は一年生と二年生の大半を保健室で過ごしたが、担任は二人ともそれを出席扱いにしてくれた。部活には籍だけ置いて参加はせず、筆記テストも保健室や図書室で受けた。
しかし、教師たちにまで見放されたら、という恐怖から、彼女の順位はそれ以降も一桁から下がることはなく、結果としてますます嫉妬と憎悪を買った祐華は、教室に戻るきっかけをどんどん無くしていった。
学校の行き帰りや家族と出かけたときでさえ、たとえほかの土地の学校の生徒であっても、自分と同じセーラー服や、詰襟の男子生徒を見るたびに、通りすがりに何か言われたりされたりはしないか、と常に怯えながら暮らしていた。
祐華が唯一息をつける場所は家だった。
職人らしく頑固だが根は優しい父と、穏やかでしっかり者の母と、小さなころから元気いっぱいな兄は、まともな学校生活が送れなくなってしまった祐華に何も言わず、ただ見守ってくれていた。
特に兄の紘輝は、小学五年生の時に買ってもらった小さな青いエレキギターでいろいろな曲を演奏して、祐華にあれこれと好きなバンドの話をしてみたり、歌を歌ったりしてくれた。
自分のせいで肩身の狭い思いをしているかもしれないのに、そんなことはおくびにも出さず、紘輝は祐華を励まし続けてくれた。
紘輝は高校入学と同時に、中学校時代からずっと入りたがっていた軽音楽部に入部した。
貯金で買った新しいギターを嬉しそうに自慢しつつ、真面目に練習する奴が少ないから半分帰宅部なんだけどな、などと愚痴も言いながら、それでも楽しそうな兄が羨ましかった。
特にこれといった楽器に触れることもなく、生きづらい心情に寄り添ってくれる暗く重たい歌を聴き、時折口ずさむだけの自分とは真逆の世界にいるようで、ひたすら眩しかった。
四月の半ば、兄は突然、軽音楽部の先輩を家に連れてきた。
凛とした顔立ちの中にどこか女性のような柔らかさのある、兄より少し背の低い少年は、今日も今日とてやっとの思いで帰宅した祐華に、気さくに声をかけてくれた。
部室だとちゃんと練習できないから、とよくわからないことを言って、自宅の居間で向かい合って、アンプも繋がずギターを弾きながら、ハーモニーにもならない声で歌うわびしいセッションに、祐華は久しぶりに笑いが込み上げ、秘かに鼻歌を歌った。
その時、不意にその少年が振り向き、その灰色がかった黒い瞳に吸い込まれそうな気がした。
そして、
「こっちにおいで。知ってるなら、一緒に歌おうよ」
彼が笑顔と共にそう声をかけてくれた時、祐華は生まれて初めての恋に落ちた。
言われるがまま彼の隣に座り、渡された楽譜の歌詞を見ながら、三人で一緒に『風になりたい』を歌うと、聞こえるはずのない打楽器やコーラスが聞こえる気がした。
そこに、仲良くしてくれる友達や、誰かと笑いながら過ごす休み時間や、みんなで一緒に盛り上がる体育祭や文化祭――本当は自分が欲しくてたまらなかったものが見えて、楽しいはずなのに寂しくなってしまった。
歌い終わってから、それまでずっと堪えていたものが爆発したように、祐華は声を上げて泣いてしまった。
隣にいた少年は嫌がりもせず、彼女が泣き止むまで、ただ黙って側にいてくれた。
それが、祐華が慎と初めて会った日の出来事だった。
それからしばしば、兄は慎を家に連れてきて、セッションの合間に動画サイトでMVを見て語り合い、音楽談議に花を咲かせては、なんだかんだでそこに祐華を巻き込んだ。
そんな日々の中で、祐華は慎の持っている楽器――ベースの音を聴かせてもらい、スピーカーアンプから耳に突き刺さったその分厚い音に心を奪われた。
「祐華ちゃんもベース、弾いてみる?」
笑顔と共に差し出された慎のベースは、思っていたよりは軽く、想像よりは重たかった。
弦を自分の手で最初にはじいたとき、胸の奥が熱くなって、思わず顔がほころんだ。
自分の中に暗く凝っていた感情を、この音にならぶつけられる気がして、その日から祐華は慎に真剣にベースを教わり始めた。
一週間も経たないうちに、祐華は自分の楽器が欲しくなって、思い切って両親に頼んでみた。
二つ返事で買ってもらったパステルピンクのベースを、紘輝や慎と一緒に楽し気に爪弾く姿に、母親よりも父親の方が喜んでいたことを祐華は知らない。
慎と出会い、音楽に触れるようになってから、瞬く間に小学生の頃の素直な明るさを取り戻した娘を見て、両親もまた救われていたのだ。
やがて、互いに打ち解けていくうちに、祐華は慎の家族の話と、彼が幼い頃から受けてきた様々な仕打ちを聞くようになった。
母がファンから何年もストーキングされて日常生活もままならず、行くのを楽しみにしていた幼稚園にもついには行けずじまいで、小学校も通えずそのまま中学卒業まで引き籠り、どこに行くにも車で送り迎えされ、高校に入ってから初めて普通の人と同じ暮らしができるようになった、と、笑いながら語った彼は、とても悲しかった。
お互いの抱えた苦しみの重さは違っても、同じような心の傷を負った彼とならそれを分かち合えるような気がして、祐華はますます慎への想いを募らせた。
そして、彼を追いかけたい一心で祐華は二年生の末に聖漣高校の受験を決め、内申点のために最後の一年間を保健室から教室に戻って過ごした。
運よく担任は自分の味方に付いてくれたが、好奇の目に晒される息苦しさと、何をされるかわからない恐ろしさに変わりはなく、夜毎、朝が来ることに怯えつつ、それでも今の自分には慎がいて、部屋に帰ればベースがある――ただそれだけを支えに、祐華は歯を食いしばって『いじめ』に抗い、戦い抜いて、地獄のような中学校生活から抜け出したのだった。
(……やなこと思い出しちゃった……)
不意に蘇ってきた記憶に、胸が苦しくなる。
幸い同級生に同じ中学出身の子はいないが、いつか自分をいじめた誰かと道ですれ違ってしまわないか、いまだに怯えている。
今は紘輝と一緒に登下校しているからそこそこの安心感はあるが、部活を引退してしまった後はひとりで帰ることも増えるだろう。そうなったときにもしもどこかで鉢合わせたら、自分がどうなるかわからない程度には、まだ心に負った深い傷は癒えていなかった。
そしてその傷は、クラスメイトに用があって話しかけるときも彼女をためらわせ、円滑なコミュニケーションの邪魔をしている。
そも、慎への強い恋慕の感情があったからこそ、入学式でくるみに話しかけることができただけであって、その下地がなければ自分から彼女と会話をしようとは思わなかっただろう。
(……くるみちゃんとミチルちゃんがいなかったら、わたし、友達なんて出来なかったかもしれない)
小学生の時以来呼ばれていなかった下の名前を、高校に入っていちばん最初に呼んでくれたくるみを、祐華は心密かに親友とさえ思っていた。少し突拍子もないところはあるが、彼女のまっすぐで何事も真剣に楽しんでいる姿勢は、常日頃から見習いたいと思っている。
お嬢様育ちなのに決して偉ぶらず、上品で優しくて、誰とでも分け隔てなく接するミチルも、自分の中では人としてこうありたい、という目標だ。
この間出会った瑠菜も、とても頼りになる、格好いい先輩だ。派手な見た目で初対面の時は思わず逃げたくなったが、素直で明るく屈託のない人柄は憧れだった。
(……わたし、何にも取り柄がないな)
ここに来てから、麗のように自分以上に成績の良い生徒が増えたおかげで悪目立ちはしなくなったが、その代わりに自分の中のひとつの個性が死んだ気もしている。
(そう思うと、わたしに残ってるものって、あまりないかも。……慎先輩に出逢わなかったら、わたしいったい、どうなってたんだろう……)
兄がギターを弾いていなければ、慎を家に連れてこなければ、その慎にベースを弾かせてもらっていなければ、自分の人生は果たしてここまで好転しただろうか。
聖漣高校に合格した後、友達ができて、おまけに部活で人前に立って演奏したり歌ったりしていることを、去年の今ごろの自分が聞いたら嘘だと思うだろう。
(……こんなに人生楽しくて、本当に大丈夫かな……あとから全部夢でした、とか、そうならないでほしいな……)
目を開けると、窓から射しこんでくる、天に昇りきる前の日差しが眩しい。
まだ窓際でうちわを作り続けている少女たちを見ないようにしながら、祐華は隣のクラスにミチルを呼びに行った、気丈に振る舞うくるみの姿を探した。




