第35話
「……」
くるみが目を開けると、有孔ボードと白いLEDの光が視界に飛び込んできた。
「……あれ、……先生は……?」
確かに抱きしめられていたはずなのに、いま自分がどこにいるかわからなくて、くるみは寂しさにぽつりと言葉をこぼす。
それでも身体を包んでいる温もりと、清潔な布の肌触りに、彼女はようやくここが保健室で、自分がいまベッドに寝せられているということに気が付いた。
「……くるみちゃん……」
傍らで祐華の声がして、くるみは首をそちらに向ける。
「祐華ちゃん……」
「……ごめんね、わたしが廊下で待ってるの、気付かれたから……」
それきり言葉が続かなくなった祐華はぼろぼろと涙をこぼし、嗚咽を堪えて歯を食いしばる。
「……泣かないで、祐華ちゃんのせいじゃないよ」
「でも……!」
「大丈夫。……祐華ちゃんこそ、あの時誰かに絡まれてたでしょ? 平気だった?」
声もなく、こくこくとうなずく祐華の手を取ると、くるみはそれをぎゅっと握った。
「目が覚めた?」
カーテン越しに声がして、くるみと祐華はそちらに目をやる。
「入るわね」
そう言って養護教員の朝比奈由佳里が、カーテンの隙間から身をすべりこませてきた。
「牧之原さん、大丈夫? 話は興津先生と軽音楽部の子たちから聞いたわ。大変だったわね」
朝比奈は深い労りを持った声音で、くるみに話しかけた。
「本当に何もされてない? 口止めされて言えない、ってことはないわね?」
「だいじょうぶです、……服を脱いで裸になれ、とは言われましたけど、実害はないです」
「!……惜しいわ。録音してたらよかったわね、それ。……まあ、そんな余裕なかったか」
くるみの言葉に祐華が息をのみ、朝比奈は悔しさをにじませつつため息をつく。
「……古和土先生は今、理事長先生のところに連れて行かれてるわ。前科があるから懲戒は免れないでしょうね。これからは安心して学校に通えるはずよ。無理そうだったら、別室登校扱いでここを使ってもいいって、教頭先生にも許可はもらってるけど……」
「いえ……」
くるみは首を横に振った。
追い回された恐怖を、興津の優しい抱擁と温かい身体の感触が上書きしてくれている。
(先生とみんなが、わたしを助けに来てくれた……)
左手の中にある祐華の手を、もう一度強く握る。
(それに、るなぴパイセンの言葉が、わたしに勇気をくれた)
相手のなすがままだったら、今頃どんな目に遭っていたかと思うと、さすがに恐ろしくなってくるみはわずかに身震いする。
(わたし、本当に運がよかった。あの時、先生の声が聞こえたから、最後まで戦えたんだ)
ほう、と息を吐くと、彼女はもう一度目を閉じた。
(……すごく怖かったし、疲れた。でも、わたし、やればできるじゃない)
金的をお見舞いした時に白目を見開いて崩れ落ちた古和土の姿が今頃になっておかしくなり、
(悪いことしたから当然だよ。……ざまあ)
くるみはくつくつと笑った。
「笑う余裕があるなら平気そうね」
朝比奈が、本当にくるみが無傷だという確証を得て、ようやく顔をほころばせる。
「でも、今回は無事だったからよかったものの、居残りだからって素直に行っちゃったのは良くなかったわ。これからはたとえ相手が先生であっても、絶対に男とは一対一にならないように気を付けなさいね」
「は、はい……」
その一言に普段の自分と興津の行動を思い出し、くるみの額には冷や汗が滲んだ。
「それと、金的は相手に近づくから諸刃の剣よ。足を取られたら自分の方が危なくなるから使わないように。状況によっては過剰防衛になることもあるからね、これでうまくいったからって、変な自信持っちゃだめよ」
「……わかりました、以後気をつけます」
手厳しいお説教に肩をすくめて返事をすると、くるみは祐華と顔を見合わせて笑った。
「さて、今日はもう、迎えに来てもらってお家で休みなさい。明日一日だけなら公休でいいって教頭先生言ってたからね、のんびりしたかったら今週いっぱいは学校休んで大丈夫よ」
「はい。……あの、朝比奈先生。興津先生は?」
彼が今どこにいるのかだけ聞きたくて、くるみは朝比奈に問う。
「今ごろ古和土先生と一緒に、理事長室にいるはずよ。そうそう、あなたをここまで運んできてくれたのは興津先生だから、あとでお礼言っておきなさいね」
「えっ……」
その言葉に、もう少しダイエットしておけばよかった、とくるみは心秘かに後悔した。
くるみに急所を蹴られた古和土は、あとから声を聞きつけてやってきた男子の軽音楽部員たちによってすぐさま拘束され、祐華とミチルが呼んできた他の教職員に引き渡された。
転んだ際に顎も打ったらしく、口の端から血をたらりと流し、まるで芋虫のように不格好に悶え苦しみながら声にならない声を上げ、激痛が過ぎ去った後の古和土は、まさかくるみに反撃されると思っていなかったのだろう、死んだ魚の目で、魂が抜けたように静かになっていた。
くるみを抱えて保健室に行く間、彼の呆けた顔を思い出し、興津は一つの懸念を払う。
(……テンパり過ぎて、くるみのこと、思わず下の名前で読んじゃったけど、あの様子ならきこえてなかったっぽいな)
安堵のため息をついた後、思ったよりも軽くてやわらかいくるみの身体を抱え直し、気を付けながら廊下を歩いて踊り場まで来たとき、不意に胸が詰まって、
(本当に、無事で良かった。……君のことは絶対、誰にも渡さないから……)
彼は周りに誰もいないことを確認してから、眠っている彼女の唇に無意識に口づけようとしたが、すぐに我に返って顔を離す。
(……っ、危なかった……何しようとしてるんだ、僕は……!)
それでも、鼻先で香った甘い果実のような彼女の髪と肌の匂いにどぎまぎしつつ、彼は慎重に階段を降り始めたのだった。
くるみを朝比奈に引き渡してから、興津がそっと理事長室の中に体を滑り込ませると、
「君は病気だよ、古和土君。まずその自覚を持つ必要がある」
理事長の天竜孝蔵が、ぼさぼさの髪の古和土に険しい顔で言い放っていた。
「君は自分の行動を客観視するべきだ。こういうことになるのをわかっていて、何度も繰り返し、自分の感情や欲求に振り回されるのは異常だ。しかも、何度も訓告や懲戒を受けているというのに、君は生徒や職員への過剰で一方的なコミュニケーションを改める様子がない。君がどうしてこの仕事に就いたかは知らないが、少なくともうちでは、もう雇わないよ」
何も応えないままの古和土に、天竜はなおもゆっくりと、有無を言わさぬ口調で続ける。
「君は、同僚の女性や生徒と『友達』のつもりでいたようだが、言い返してこなさそうな相手を狙って、追い詰めて、性的な要求をするのは『犯罪』だ。相手の心身を傷つけ、尊厳を踏みにじるようなことを平気でする人間は、どんなに教え方が巧かろうが『教師』じゃない。……いいか。『女子生徒に不当な呼び出しをして、鍵のかかった教室で一対一になる』。もう、それだけで、君をここから追い出す理由は充分だ。わかるな?」
くるみを追い回していた時の勢いが嘘のようにおとなしくなった古和土は、天竜の言葉に無言でうつむき、何も答える様子はない。
「前の代の理事長は、君を随分と重用していたようだがね、君は授業も指導も、生徒に害が多すぎて、クレームが山ほど来てるんだよ。……貴様を支持していた常任理事は、この件で引責辞任を勧める方向で話を持っていく。貴様の氏名も公表する。二度とこの仕事はさせない。無期限の停職処分だ。身の振り方をどうするかは、辞表を書くまでの間に考えろ。……以上だ」
天竜が顎で示すと、控えていた瀬戸と藁科に連れられて、古和土は理事長室から出て行く。
「安倍君」
「はい」
少しだけ緩んだ天竜の声に、興津のすぐ前にいた安倍が、伸ばす必要のない背筋を伸ばす。
「牧之原さん、スクールカウンセリングがあるから、相談するようにって言ってあげてね。金的できるくらいタフな子だけど、助けが来たら、気絶するくらい怖かったわけだし」
「はい」
安倍の首がうなずいた。そして、
「興津君も今回はありがとう、まさに間一髪だったみたいだね」
「あ、はい!」
我が事のように聞いているうち、急に天竜から話を振られ、興津も必要以上に背筋を伸ばした。
「なんにせよ、最悪の展開にならずに済んでよかった……だが、恐ろしい目に遭った心の傷は、そう簡単には消えないだろう。落ち着きを取り戻すまでの間、安倍君や朝比奈さんと一緒に、あの子の様子を見守ってあげて欲しい。くれぐれも、無理はさせないように」
「はい」
無論だ、という気持ちで興津がうなずくと、天竜は大きなため息を吐いて額に手を当てた。
「……あの子のお兄さんがここに通っていた頃に、あいつのセクハラで辞めた先生が出た時点で、私がもっと厳しい処分を下していれば、今回のことは防げたかもしれない。こちらでのことが片付いたら、牧之原さんのお宅にすぐお詫びに向かう。許していただけるかはわからないが、こちらの誠意は精一杯、見せなければならない」
「……わかりました」
痛恨の極みの表情を浮かべた天竜に下がるように仕草で促され、興津は他の教員たちと共に背を向ける。
その耳に、
「……間に合って、本当に良かった」
何かを深く悔いるような、しかしどこか、天竜自身が救われたような響きを持ったかすかなつぶやきが聞こえて、興津も同じ思いで一瞬だけ足を止め、すぐに理事長室を出て行った。




