1 婚約を破棄したい
重厚な扉越しにも響く王の声に、カリナは震え上がった。
「——婚約破棄、だと?」
扉の向こうは、ここオルニア王国の王宮の一室。今は若き国王レナードと王妃、二人の間に生まれた幼い王子、王女たち。そして近臣やその家族を招いての、私的なお茶会が開かれている部屋である。着飾った十数人の紳士淑女たちが笑顔でさざめき合い、王子・王女たちの可愛らしい声が時折混ざる。
そんな優雅で平穏な午後の一時であったのだが、ほんの一瞬で、緊張の空気が室内を支配した。
皆の視線は、怒りの形相で立つ国王レナードと、その対面で微笑んでいる王弟ユークに注がれている。隣室の控えの間から扉の隙間ごしに覗くカリナも、その姿から目が離せない。緊張で扉にかけた手のひらが汗で濡れ、背筋は先程から細かく震えていた。
ユークは淡い金髪の巻き毛を指先でくるっと回しながら、まあまあ、とレナードの前に両手を軽く挙げた。
王弟ユーク。年齢は十八歳。レナード王の八歳年下の実弟である。
「そんなに怖い顔しないで、兄さん」
「せずにいられるか。お前は今『聖女』ローサ嬢との婚約を——破棄したい。そう言ったのだぞ!」
レナードの怒声に、さすがにユークも顔をぎゅっとしかめ、手で耳を覆う。
しかし、つぶった目をパッと開き、人懐こい笑顔をもう一度浮かべ、再度、はっきりと言い放った。
「うん。そう。僕ね、他に愛する人がいるんだ」
「ふざけるな!!」
額に青筋を浮かべ、太い腕を伸ばしてユークの襟元を掴みあげ、その体を吊り上げる。
殴られる、室内に居合わせた者たちや隣室のカリナも皆がそう思ったが、ユークは襟を掴む兄の拳を素早く両手で掴み、その動きを抑え込んだ。相変わらず顔はへらへらとした笑顔だったが、その手には血管が浮かぶほどに力が込められていた。
「ふざけてないよ」
「お前……!」
「兄さん、怖いって」
困ったように口を尖らせるユークの顔を睨みつけながら、やがてレナードは手を下ろした。
室内の緊張の糸は、一瞬それで緩んだ。兄弟たちの殴り合いにはならぬようだと、皆、やや安堵したようにほっと息をついている。
が、扉のこちら側では、カリナの動悸は高まるばかりである。レナードとユークの会話が進むにつれ、この扉を開いて、隣室に飛び込まなければならない時が近づいてくる。
そんなカリナの、極限まで高まった緊張をよそに、王とその弟はもう一度あらためて向き直った。レナードは苦い表情のままだが、ユークは話を続けた。姿勢はレナードに相対していても、その瞳は潤み、中空を見上げている。その姿はさながら愛の喜びを歌い上げる吟遊詩人のようだった。
「僕は真実の愛を見つけたんです」
「なんだと?」
「『麗しの君』——僕は僕の女神たる彼女を、そう呼んでいます。姿、心映え、気品、どこをとっても最高の女性です。彼女以外の女性と結婚なんてとんでもない。だから、ローサ嬢と結婚はできません。兄さんからこの婚約は断ってください」
「……馬鹿者が」
レナードは口元を歪めて吐き捨てた。
「何が真実の愛だ。お前は自分の身分を分かっているのか。お前はこのオルニア王国王家の血を引く者として、そして俺の片腕として、この国の行く末を担うものだ。たとえ王位を継ぐことはなくとも、生涯をこの国に捧げる立場にあるんだぞ」
「でも、僕は」
「でもも、だってもあるか! ……どうやら、俺はお前を甘やかしすぎたようだ」
ユークは苦笑をこぼす。
「兄さんが僕を甘やかしてくれたことなんてありました?」
「母上がお前をやたらと着飾らせて、かわいいかわいいと褒めそやしていたところを、止めるべきだった」
「母上は娘が欲しかった、っていつも言ってましたもんね。僕のこのくりくりのお目々と柔らかい金の巻き毛がお気に入りでしたよ。おっきな髪飾りをつけられて、化粧もさせられたことあったなあ」
「父上もそれを見て面白がっていただけだ。俺が諫めるべきだった。両親がそんな調子なら、俺が剣を握らせ、馬に乗せ、狩りに行かせるべきだった」
「兄さんのせいじゃありませんよ。僕が、可愛い末っ子すぎたのがいけないんです」
ユークは笑顔を浮かべた。その愛らしさが、幼い頃から両親の心を蕩けさせたのであろう。しかし兄のレナードはそれに流されることはない。
「——だがそれは子供の時の話だ。お前はもう十八歳。立派な成人だ。王族としての義務は負わねばならん。『聖女』と、聖女を擁する『神殿』との縁組は、それの最たるものだ。どんな女に誑かされたかは知らんが、ローサ嬢との婚約破棄など認めるわけがないだろう」
「でも、愛のない結婚なんて、僕は耐えられそうにないんですけど……」
「くどい!」
その一言で、レナードはもう話を打ち切ろうとした。片手を上げて、白けてしまったお茶会の場を解散させようとする。そんな兄に対し、ユークは「待って」と止めた。
「今日、実はここに呼んでいるんです」
——瞬間、扉のこちら側で、カリナの背筋がびくりと震えた。
「……なんだと?」
「僕の『麗しの君』です」
レナードは眼光鋭くユークを睨みつけた。しかしユークのにこやかな笑顔は消えない。
「会ってもらえませんか? 彼女に。——僕の、愛しい恋人に」
「——出番です」
背後からそう囁かれても、カリナは身動きできなかった。扉にしがみついたまま全身が硬直している。手にも背中にも、じっとりとした汗がにじんでいる。着せられているドレスは着たときよりも重く感じ、呼吸は浅くしかできず、目の前にチカチカと星が飛んでいる。
カリナはガクガクと震えながら、後ろを振り返った。
視線のすぐ先には、一人の男が立っている。
「あ、あのぉ、エリュシオンさん……、やっぱり、無理かと……」
「何を言ってるんですか、カリナさん。ここまで来て。さあ行きますよ」
エリュシオンという名のその男は薄く笑っていたが、片眼鏡の奥の青い瞳は氷のように冷たい。
カリナはぶんぶんと首を振った。
「いや、絶対……絶対バレますって!」
「大丈夫。ユーク王子が慣れていますから。あの人、子供の頃から何百回とレナード王のお叱りをくぐり抜けてきてるんです。躱し方、欺き方、そりゃあ見事なものですよ」
微笑みを浮かべたままのエリュシオンは、ゆっくりとカリナの手を取り、両手で柔らかく包みこんだ。
血が通っていないかのような冷たい手だ、と一瞬カリナの気がそれた。エリュシオンは囁く。
「あなたは王子の隣で微笑んでいるだけでいいんですよ。レナード王に気に入られようとか、きちんとした振る舞いをしようとか思わなくていいです。——聖女様との婚約破棄を決断させるほどにユーク王子を夢中にさせた愛人——『麗しの君』を演じていただければ」
「……え、演じるだけ……」
「そうです。それだけです。いいですね?」
「は、はい……」
小さく頷いたカリナに、エリュシオンは満足そうに口元を緩め、さあ、と扉の向こうに導こうとする。
扉を押し開けるために手をかざし、僅かな隙間をゆっくりと開けていく。
このまま部屋に入り、ユークの腕に己の腕を絡め、しなだれかかるだけ。エリュシオンの指示はそれだけだった。世慣れぬ王子を誑かしたふしだらな悪女として、派手すぎるほどに紅を引いたその唇を突き出すだけでいい。
しかし半開きとなった扉の向こうに、実際のレナード王とユーク王子の姿を見て、カリナは再び身を震わせた。
「……や、やっぱり! 無理ぃ!」
せっかく半分ほど開いた扉をまた音もなく閉めようとする。
寸前で、ちらりとこちらを窺ったユークと目が合った気がしたが、それどころではない。
「……何をしてるんです。こら、暴れないで」
「いや、無理です。そんなの、私、演技とか、無理って!」
「無理じゃありません! やっていただかないと」
再度扉を開こうとするエリュシオンの手を抑える。それを跳ね除ける。また抑える。押し問答は互いの手と腕と頭を抑え込むような、物理的な押し合いになった。
が、とうとうエリュシオンがカリナの両手をガシリと掴んだ。思わず声が出そうなほど強く。
至近距離でカリナを見つめるその視線は冷たくも熱を帯びている。うーうーと半泣きで唸るカリナに、エリュシオンは最後の切り札を出した。
「貴女、帝国に、留学したいんでしょう?」
帝国留学。
その言葉に、カリナははっと表情を改めた。
「帝国……留学」
情けなく下がっていた口角にぎゅっと力を入れ、思わず小さく声を漏らす。
カリナが夢見る隣国エルダニア帝国。
その都には、周辺国で唯一と言える『大学』があるという。
年齢性別身分を問わず、能力あるものはすべて受け入れ、学びたいだけ学ばせてくれるエルダニアの帝都大学。
そこには膨大な書物を揃える帝都図書館が隣接している。古今東西の歴史資料、古代文学、気象学や地質学、天文学——。
留学し、帝都大学の学生として、一生で読み切れぬほどの書物に埋もれて暮らしたい。
それはカリナの人生をかけた夢だ。
そんなカリナの表情を見て、エリュシオンは片眼鏡の奥でまた目を光らせた。
「約束したでしょう? 私達は学費を用意し、身元保証人ともなり、貴女をエルダニア帝国に送り出してあげる。その代わり、貴女にはユーク王子の愛人を演じてもらう」
と、エリュシオンはカリナの手から両手を離し、そのまま勢いよくカリナを隣室の方へ振り向かせる。
「さ、お願いします。王子が望み通り婚約破棄できるよう——」
そして同時に開いた扉の先へ、有無を言わせずその背をドン! と押し出した。




