第51話 それは天城が作った選択肢です
死者たちの階層でも、壁が明るくなっていた。
白河レナは、崩れた街路の中央に立っていた。
足元には、黒い文字が流れている。
伝説。
追悼。
ありがとう。
死んだ探索者。
永遠の白河レナ。
だが、その中に、別の言葉が混じり始めていた。
未帰還。
生存ログあり。
帰還対象。
白河レナは死亡ではない。
帰ってこい。
足首を縛っていた文字が、少しだけ緩む。
レナは振り返った。
「集まってください。壁の近くに」
羽村サキが、瓦礫の陰から出てきた。
「外、騒がしい」
「久我さんたちが見ています」
「見られると、足が重い」
「はい。でも、今の見方は違います」
レナは、壁に浮かぶ文字を見た。
羽村サキ。
中層下部。
帰還前確認。
赤いマグカップ。
未帰還。
サキの輪郭が、少し濃くなる。
彼女は自分の手を見た。
「名前が、はっきりする」
別の未帰還者も顔を上げた。
誰かの名前。
誰かの帰還前映像。
誰かが家族に送った短いメッセージ。
死に様ではない。
帰る前の顔。
帰るつもりだった言葉。
それが壁に浮かぶ。
レナは声を張った。
「名前が呼ばれた人は返事をしてください。知らない映像には近づかないで。帰る前の記録だけを見てください。死んだ時の映像は見ないで」
未帰還者たちがざわめく。
「自分の名前が出たら、隣の人にも知らせてください。読めない名前は勝手に決めない。違う名前で呼ばない。消えかけている人から中央へ」
サキが、少しだけ笑った。
「探索者みたい」
「探索者です」
「S級は言うことが違う」
「ランクは関係ありません。全員で帰ります」
壁の端に、別の記録が浮かんだ。
氏名照合中。
帰還前映像。
コンビニのおにぎりを買う手元。
探索者タグ、破損。
声だけが残っている。
『帰ったら、これ食べる』
誰の声か、まだ分からない。
だが、未帰還者の一人が震えた。
「それ、俺の声かもしれない」
レナはうなずいた。
「離れないでください。名前が戻るまで、ここに」
その言葉を言った瞬間、階層が揺れた。
壁の配信画面が一つ割れる。
黒い石の地面に、細い亀裂が走った。
サキの顔色が変わる。
「これ、まずくない?」
レナは壁の向こうを見た。
新宿駅地下。
人の流れ。
黒い階段。
都市の光。
自分の座標が濃くなるほど、階層の輪郭も強くなる。
強くなった輪郭が、地上側を押している。
レナは唇を結んだ。
「久我さんに、つなぎます」
*
通信は、ノイズ混じりだった。
久我の画面に、白河レナの輪郭が浮かぶ。
前より鮮明だった。
白い探索スーツは汚れている。
肩に傷。
袖は裂けている。
顔にも血の跡がある。
だが、立っていた。
生きている人間の呼吸をしていた。
「久我さん」
「はい」
「私が濃くなるほど、外が危ない」
久我は、首都側のログを見た。
深層圧、上昇。
新宿地下異常範囲、拡大。
白河レナ固定点、安定化。
第零階層外縁、地上側伸長。
「確認しています」
「なら、私は残ります」
ナツの手が止まった。
ハルカが顔を上げる。
レナは続けた。
「私が帰れば、都市が危ない。なら、私は残ります」
久我は返事をしなかった。
レナの声は揺れていない。
だから苦しかった。
「私は、また誰かを帰せない探索者になるくらいなら、ここに残ります」
サキが、画面の奥で何か言おうとした。
レナが片手で止める。
「久我さん。私を帰すために、誰かを死なせないでください」
久我は、画面を見た。
深層。
帰還ゲート。
白河レナが大型配信前に言った言葉。
今日も帰れますよね。
帰すのが俺の仕事です。
久我は、短く言った。
「それは、天城が作った選択肢です」
レナの目が揺れた。
「え?」
「都市を守るために誰かが人柱になる。あなた一人が残れば、他の人間が助かる。その形は、天城が用意したものです」
レナは、すぐには返せなかった。
画面の奥で、サキが息を止めている。
薄い輪郭の未帰還者たちが、レナの背中を見ている。
ここで自分が残ると言えば、誰も責めない。
きっと、また美談になる。
その形が、今だけ罠に見えた。
「でも、現実に外が」
「はい。危険です」
久我は逃げなかった。
「だから、避難を進めています。観測も分けています。死亡シーンは見せません。帰還ルートだけを固定します」
「それでも」
「あなたが残る前提では組みません」
レナは黙った。
久我は続けた。
「今度は俺が帰します」
短い言葉だった。
だが、部屋の空気が変わった。
「あなたも。あなたが連れてくる人たちも」
レナの顔が、少しだけ崩れた。
泣く前の顔ではない。
踏みとどまるために、奥歯を噛む顔だった。
「……全員は、無理かもしれません」
「はい」
「戻れない人もいます」
「はい」
「それでも、名前は戻します」
「はい」
レナは息を吸った。
背後で、サキたちが彼女を見ている。
レナは振り返らなかった。
「久我さん」
「はい」
「今日も、帰れますよね」
久我は、一秒だけ目を閉じた。
それから答えた。
「帰すのが、俺の仕事です」




