自分で選ぶという罰
夫は、一晩ほとんど眠れなかった。
天井を見つめ、時間だけが過ぎていく。
母の声も、妻の気配もない夜は、思った以上に広く、冷たかった。
「……変わらなきゃ」
そう呟いた声は、決意というより、追い詰められた人間の独り言だった。
朝、彼は珍しく早く起きた。
シャワーを浴び、スーツに袖を通す。
鏡に映る自分の顔は、どこか他人のようで、落ち着かなかった。
「今日は……俺がやる」
何を、とは言えない。
ただ“自分で決める”という行為を、人生で初めて試そうとしていた。
会社に着くと、上司に呼び止められる。
いつもなら、曖昧に笑って流す場面だ。
「この案件、どう思う?」
問われた瞬間、頭が真っ白になる。
今までなら、
・母ならどう言うか
・妻ならどう判断するか
それをなぞるだけだった。
でも今は、誰の声もない。
沈黙が長引く。
上司の眉がわずかに動く。
「……自分は、こちらの案で進めたほうがいいと思います」
口に出した瞬間、胸がざわついた。
自信はない。
でも、初めて“自分の言葉”だった。
結果は、失敗だった。
その判断は見事に外れ、午後には修正指示が飛び、
周囲の視線が痛いほど刺さる。
「最近、どうしたんだ?」
「らしくないな」
“らしい”とは何だ。
胸の奥で、小さな怒りと不安が絡み合う。
帰宅途中、コンビニに寄る。
弁当棚の前で立ち尽くす。
何を食べたいのか、わからない。
今までは、
母が決め、
妻が用意してくれた。
自分の「好み」すら、実は知らなかった。
家に帰ると、電気の消えたリビングが迎えた。
テーブルには何もない。
音もない。
スーツを脱ぎ、ソファに座る。
その瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
「……無理だ」
思わず声が漏れる。
自分で考えること。
自分で選ぶこと。
自分で責任を負うこと。
それが、こんなにも重いなんて。
彼は初めて理解した。
妻が去った理由を。
母が彼を離さなかった理由を。
守られていたのではない。
守らせていたのだ。
「……ごめん」
誰に向けた言葉かもわからないまま、
彼は顔を覆った。
自分で決断しようとして、失敗する。
それは成長の一歩であるはずなのに、
彼にとっては、世界が崩れるほどの恐怖だった。
だが同時に、逃げ場も、代わりも、もうない。
その夜、彼は初めて気づく。
助けてもらえないことと、
一人で生きることは、同義ではない。
ただ――
“今まで何もしてこなかった人間”には、
そのスタートラインが、地獄の底に見えるだけなのだと。




