第5話 イトラ
外の景色以外は、地上の家と変わらないほど快適な室内。
一人掛けのソファへ案内した天使に片膝をついて、とりあえず休憩しようと飲み物を尋ねた。
「真のおすすめは?」
おすすめ…。天使の好きな味ってなんだろう。
甘い?苦い?なんて考え始めて、違和感に気付く。
僕、名前言ったっけ…?
「どうして、名前…」
「君の家族がそう呼んでいたから」
確かに言ったかもしれないけれど、5年前のことだ。
それに…。
「ガラス越しでも聞こえてたの?」
「意識したらね、人間よりは遥かに耳が良い」
耳の形は人間と変わらないけれど、「聞こえていたからガラスも叩いた」と天使は言う。
僕のめでたい思い込みは、どうやら事実だったらしい。
そしてなにより、5年前に聞いた名前を覚えてくれていたことが嬉しかった。
「…じゃあ君の名前は?」
だから、僕もずっと聞きたかった天使の名前を聞くと、薄い口唇が開いて「~~~」と教えてくれる。
ちゃんと口元を見て発音しようとするが、開きかけた口はすぐに閉じる。
音としては聞こえるのに舌が回らないし、そもそも多くの人間は声を一度に一つしか出せない。
「ごめんね、僕は君たちの言葉を発音できない」
天使は不思議がることもなく知っていると頷いて「だから、真が呼びやすい名前を考えて」と言った。
「…僕が?」
戸惑うのも当然だろう。
だって、天使に名前を呼ばれたとき初めて知ったんだ。
自分の名前なんて興味はなかったけれど、天使に呼ばれるとこんなにも嬉しいのだと。
生まれてから呼ばれ続けた名前は、しっかり自分の一部なのだと。
「名前は大切なものだと思うけれど、僕が決めていいの?」
再び頷いた天使に、思わずにやけてしまいそうになる。
じっくり考えようと、テーブルにラムネを用意して僕は対面のソファに座った。
結局、おすすめの飲み物は思いつかなかったが、日本を発つ前に懐かしさからラムネを買っていたことを思い出したのだ。
「面白い飲み物だね」
ラムネを飲むのは初めてらしく、カラカラとビー玉を転がしながら飲む天使。
天使が持つとラムネまで輝きを増している、なんてを思いながら名前を考える。
本当は天使の住む世界で呼ばれている名前の意味を聞きたかったけど、うまく伝わらないからと教えてくれなかった。
「んー……」
様々な名前や言葉が浮かんでは消えていく。
悲しいことに、僕の知識ではしっくりくる名前がない。
でも、それならばと思い付いたものが一つ。
「イトラ、はどうかな」
天使は自分で「イトラ」と繰り返してから、分かったと頷く。
名前の意味は聞かれなかったので、聞かれるまでは僕だけの秘密にしておくことにしよう。
カラン、とビー玉とガラスのぶつかる音だけが響く機内。
「イトラ」
特に理由はなく、天使の名前を口にした。
呼ばれた天使はどうしたのと、手を止めて僕を見る。
それは、目の前の生命体の名がイトラになったという証明で。
今度は上がる口角を隠しもせず見つめ返した。
「目的地到着まではまだ時間がかかるんだけど、これからどこに行くか聞かないの?」
「うん、どこだっていいから」
少しの間をおいて絞り出した質問に、空になったラムネ瓶からビー玉を取り出そうと振っているイトラは本当に興味がないようだ。
「…イトラはどこから来たの?」
「地球の外だよ」
その答えに驚きはなく、何となくは察していた。というか、それくらいしか説明がつかなかった。
「人間だと辿り着けず死んでしまう場所」
なら地球から観測できない星なのかと聞くと、そうでもないと言う。
地球のカメラや人間の目が観測できないものは宇宙に多いのだと。
「これ、うまく取れないんだね」
机にラムネの瓶を置いたイトラはすぐに飽きてしまったらしく、青だけが見える外を眺め始めた。
まるで自分が光を生んでいるような瞳は、外の景色よりも眩しく感じられる。
人間だと視認もできないイトラの故郷。なら、ききっとイトラの故郷を見ることはできないけれど、
「でも、いつか遠くからでもイトラの星が見れるといいな」
そんなことを口にすると、「……そうだね」とイトラはゆっくりまじろいだ。
ちなみに、天使は宇宙空間でも呼吸ができるらしいが、長時間生身で漂っているのは体に負担がかかるらしい。そのため、美術館に来た天使たちは落ちてきたシルバーの機体、イトラたちはそのまま”シルバー”と呼ぶものに乗ってきたと教えてくれた。
「イトラは故郷が恋しくならない?」
「ならない。今は用もないからね」
天使にはほぼ寿命が存在せず、故郷の星もあと数十億年以上は生き続ける予定だという。
ほぼ、というのは塵も残さず肉体を消されてしまえば、自身が消滅する可能性がないわけではないのだと。
でも、基本は不老不死みたいなものだという認識で良いらしい。
「真、ワインはある?」
故郷の話で思い出したと、イトラは赤ワインを所望した。
風味の似たものが故郷の星にもあるらしく、地球の味も嫌いじゃないと言うから、どこかで飲んだことがあるのだろう。
ワイングラスで揺れる赤を飲むイトラに、酔った感覚なんて知らないのに酔いそうになる顔を仰ぐ。
僕と違い、実際に飲んでいるイトラはアルコールが全く効かないようで、くるりとグラスを回したりして味や香りだけを楽しむらしい。
どこで知ったのか、はたまた無意識なのか分からないが、イトラは所作も美しく洗練されている。
しばらくワインを味わうイトラを眺めて、僕は1つのお願いをした。
「ねぇ。羽、触ってもいい…?」
イトラはグラスを横に置き、どうぞ、と躊躇することなく右肩を前に出す。
傷つけないようにそっと指先で触れると、シルクのように柔らかく滑らかな触り心地がした。気持ちよくて掌全体で撫でてみると、翼には骨のような硬さも温度もないことが分かる。
職人が丹精込めて作った作品が、まるで生きているように感じられることがあるが、そういう類のものに見えた。
「重い?」
一つひとつの羽は小さく薄いけれど、大きさでいうとイトラの身長の半分以上もある。
「重くないよ、感覚的には腕に似ている」
見てて、と言うとイトラは翼の形を変えた。
この世界でいう、悪魔のような翼に。




