1 ハリヤー・ディラクール――父――何ということだ
――何ということだ。
私はその言葉を、声に出したのか、頭の中だけで繰り返したのか、自分でもよく分からなかった。
アガサがいない。
屋敷の中で、誰もその姿を見ていない。しかも、最後に確かに姿を見た者が一昨日の夜だという。
いや、リルは姿を見たわけではない。声を聞いただけだ。寝台のカーテン越しに。
では、いつからだ。
アガサはいつから、この屋敷にいなかった。
私はアガサの部屋をもう一度見回した。普段通りだった。
あまりにも普段通りで、それがかえって腹立たしかった。
壊された窓も、荒らされた引き出しも、床に落ちた宝石もない。誘拐犯が押し入ったのなら、何か一つくらい乱れていていいはずだ。
衣装部屋にあった外出着が数着ない。靴もない。鞄もない。
――つまり、準備があった。
その考えが浮かんだ瞬間、私はそれを一度脇へ押しやった。
準備して出たなどと、簡単に決めていい話ではない。誰かに脅された可能性もある。誰かが手引きした可能性もある。娘が自分の意思で出ていった、と考えるには、まず確認すべきことが多すぎた。
だが、確認すべきことの一つは、すぐ目の前にあった。
――ディオ・マダラール。
先日、アガサとの婚約を解消した相手だ。
解消、と私は考えていた。あくまで家同士の話として、改めて条件を整え直す余地はある。その程度のつもりだった。
だがリルは「お嬢様は気に病んでおられました」と言った。
――それほどのことだったか。
そう思いかけて、私は口の内側を噛んだ。そういう考え方をしたところで、今は何の意味もない。問題は、アガサ本人がどう受け取ったかだ。
あの娘は、昔から大きく騒がない。泣き叫んだ記憶も、わがままを押し通した記憶もほとんどない。幼い頃、気に入っていた花壇を工事のために潰すことになった時も、少し寂しそうな顔をしただけで、それ以上何も言わなかった。
あれは物分かりがいいのだと、私は見ていた。妻のマリーナもそう言っていた。
――この子は聞き分けがいい。だから、きちんと話せば分かってくれる。先のためになることなら、今少し辛くても受け入れてくれる。
その判断が間違っていたとは、まだ思えない。だが、今朝の部屋を見る限り、何かが私の知らないところで進んでいた。
「旦那様」
執事のサレクが、廊下から戻ってきた。
「門番の聞き取りですが、表門からお嬢様がお出になった記録はございません。裏門も同様でございます。ただ、商会の荷馬車が一昨日の夕刻、三台入っております。翌朝にも二台、倉庫側から出ております」
「積み荷は」
「布地、香辛料、茶葉の箱、それからワイホト向けの取引品でございます」
ワイホト。
その名を聞いて、私は一人の男の顔を思い出した。
――フライト・バンスワン卿。
隣国ワイホト王国の商人貴族で、バンスワン商会の一族に連なる男だ。私より十三歳下だが、若い頃から頭の回る男だった。
彼は十八の時、このマインカ王国へ修行に来て、私の元にもよく出入りしていた。海運、港税、倉庫管理、信用状の扱い、その手の話を吸収するのが早く、時にこちらが舌を巻くこともあった。
そのフライトが、今この屋敷に滞在していた。
いや、滞在していた、という言い方は正確ではない。数日前まで客として来ていた。昨日の朝、予定通りワイホトへ向けて発ったはずだ。
「フライト卿は昨日発ったな」
「はい。朝の六時過ぎでございます。馬車は二台。荷は、バンスワン商会のものとして確認済みです」
「人員は」
「卿ご本人と従者三名、御者二名。それから護衛が二名」
「女は」
サレクはわずかに眉を動かした。
「確認した限りでは、おりません」
「確認した限りでは、か」
「はい。商会の荷は箱も多く、全てを開けて見たわけではございませんので」
私は息を吐いた。
……馬鹿馬鹿しい。アガサが荷箱に隠れて屋敷を出るなど、考えたくもない。
だが考えたくないことを外していけば、仕事も家も回らない。
――フライトが関わったのか?
そう考えた時、すぐに否定したい気持ちが出た。彼は軽薄な男ではない。私の娘に不名誉なことをする男だとも思えない。何より、アガサとは昔から顔見知りだ。まだアガサが六つの頃から、あの男は屋敷に出入りしていた。
そう、アガサは、よく彼になついていた。
――フライト兄様。
まだ小さなアガサがそう呼んで、庭や書庫に後をついて回っていた姿を、私は覚えている。
フライトもまた、面倒がらずに相手をしていた。子供相手だからと雑に扱うこともなく、かと言って甘やかしすぎることもない。アガサが何か尋ねると、あの男はよく考えてから答えていた。
私はそれを、よい交流だと思っていた。
アガサはきょうだいの中でも、少し内にこもるところがある。年の離れた若い客人が話し相手になるのは、悪いことではなかった。
そしてフライトがワイホトへ帰った後も、時折手紙のやり取りがあることは知っていた。商家の娘として、他国の事情に触れるのはよい勉強になる。そう判断したのも私だ。
……その判断まで、今朝の件に繋がるのか。
私は馬鹿な、と頭の中で呟いた。
フライトは三十二。アガサは二十だ。年齢だけなら、貴族の婚姻としてあり得ない差ではない。
だが、あの男は私の友人で、娘にとっては昔からの兄のような相手だった。
――兄のような。
そこで、私は考えを止めた。
それは私がそう見ていた、というだけだ。アガサがどう見ていたのかは、知らない。
「旦那様」
サレクが、少し声を低めた。
「フライト卿へも使いを出されますか」
「出せ。ただし、追及の文面にはするな。まずは確認だ。アガサの失踪を知らせ、もし道中で何か不審なものを見たなら知らせてほしい、と書け」
「かしこまりました」
「それから、マダラール家への使いは急がせろ。ディオ本人にも話を聞く。父親を通してだけでは足りない」
サレクは一礼して去った。
私はもう一度、アガサの部屋へ目を向ける。机の上の本が気になった。
伏せられたままの本。こういう置き方を嫌う娘だった。栞を挟み、表紙を上にして置く。小さな頃からそうだった。
本を傷めると、家庭教師に叱られたわけでもないのに、妙に悲しそうな顔をしていた。だから、これは慌てて置かれたのだろう。あるいは、慌てて置いたように見せたのか。
私は本へ手を伸ばし、表紙を確かめた。旅行記だった。海の向こうの島々を巡った商人の記録。古い本で、子供の頃のアガサが好んで読んでいたものだ。
――何故、今それを読んでいた?
ふと、六つか七つの頃のアガサを思い出した。フライトが持ってきた異国の菓子を前に、目を丸くしていた。菓子そのものより、それがどこから来たのかを聞きたがっていた。
――海の向こうには、どんな町があるの?
アガサはそう尋ねていた。フライトは笑って答えていた。
――私も全部を知っているわけではないよ。だから行ける者は行き、見た者は書き残すんだ。
その時のアガサの顔を、私は長いこと忘れていた。
だが、今になって思い出したところで、ここに娘はいない。
私は本を閉じた。
まずはディオ・マダラールだ。
婚約の話を壊した若い男が、アガサに何を言ったのか。どのように言ったのか。そこから確かめなければならない。
娘が傷ついていたというのなら、その傷の形を知る必要があった。
だが私はその時まだ、傷をつけた者が一人とは限らない、というところまでは考えていなかった。




