ある朝、令嬢アガサ・ディラクールは失踪した
伯爵令嬢アガサ・ディラクールが屋敷から姿を消したと知れたのは、朝食の席に彼女の椅子だけが空いていたからだった。
もっとも、その椅子は三日前から空いていた。
最初の日は、具合がすぐれないのだと伝えられた。二日目も同じだった。
ディラクール家では、子供達が幼い頃からそれぞれの予定で動く。長男ラリーは朝から事業所へ出入りし、次男ビリーは大学の寄宿舎と家を行き来し、三女キャリーと三男エルクもそれぞれの家庭教師や外出の予定を持っていた。長女メリアは既に嫁いでいる。
父ハリヤー・ディラクールは、朝食の席に誰がいるかでその日の家の気配を読む男だった。誰かが欠けていれば、体調か予定か、来客か、外出か、何かしら理由がある。理由さえ通っていれば、それ以上は問わない。
だから一日目、彼は「アガサはどうした」と尋ねただけだった。
「気分がすぐれないそうで、お部屋でお召し上がりになるとのことです」
給仕頭が答えた。
「そうか」
ハリヤーはそれで済ませた。二十歳になる娘が少し寝込むことなど、珍しくもない。先日、婚約の話で少々不快なこともあった。気落ちしているのだろう、くらいには考えた。
*
二日目も同じだった。
「まだ良くならないのか」
「はい。ですが、スープは少し召し上がっているようでございます」
「医師は」
「お嬢様が、少し眠ればよくなると」
その時も、ハリヤーはそれ以上踏み込まなかった。
*
そして三日目の朝。
アガサの部屋へ、温かいスープと柔らかいパンを載せたトレイを運んだ下働きの少女が、廊下で悲鳴を上げた。
最初に駆けつけたのは、近くの部屋を掃除していたメイドだった。
次に侍女が来た。さらに給仕頭、執事、家令、護衛の者が続いた。
人が人を呼び、女中頭が奥様へ知らせに走り、執事は旦那様を呼びに向かった。
アガサの部屋は整然としていた。
寝台の掛け布が乱れた様子もなく、夜着は椅子の背に畳まれていた。
化粧台の上には櫛も香油も残っている。宝石箱も、鍵のかかる小箱も、いつもの場所にあった。
……ただ、部屋の主の姿が見えなかった。
窓は内側から掛け金が下りていた。扉にも壊された跡は見当たらない。
衣装部屋を見に行ったメイドが、数着の外出着と、歩きやすい靴が消えている、と震える声で告げた。旅行用の鞄も一つ、見当たらない。
「何をしていた!」
ハリヤーが部屋へ入った時、最初に出た声はそれだった。
部屋の中にいた者達が、一斉に身をすくめる。普段から声を荒げる男ではない。それだけに、その一言はよく響いた。
「誰が最後にアガサを見た」
執事が答えるより早く、女中頭が一人のメイドを前へ押し出した。リルだった。
アガサと同じ二十歳。かつてアガサの乳母が連れてきた娘で、幼い頃から彼女の側にいた。現在は正式にメイドとして働いているが、屋敷の者は皆、アガサ付きの娘として見ていた。
リルは泣いていた。少なくとも、そう見えた。
目は赤く、頬も濡れている。両手はエプロンの前で握られ、指先が白くなっていた。女中頭に促されて一歩前へ出ると、深く頭を下げた。
「申し訳ございません、旦那様」
「お前が食事を運んでいたのか」
「はい」
「いつからだ」
「六日前からです。お嬢様が、食堂へ出るのは少し辛いとおっしゃいましたので」
「何故、すぐ知らせなかった」
リルは一度唇を噛んだ。言葉を探すように見えた。ハリヤーにはそう見えたし、部屋の者にもそう見えただろう。
「お嬢様が、あまり大げさにしないでほしいとおっしゃって…… 先日のこともございましたので」
「先日のこと」
ハリヤーの声が低くなる。
リルはさらに頭を下げた。
「ディオ・マダラール様とのお話でございます。お嬢様は、ずいぶん気に病んでおられました」
「気に病む?」
「はい。お食事も、いつもより少なくて。夜もあまり眠れていないご様子でした」
「それを何故、私に言わない」
「お嬢様が、旦那様には心配をかけたくないと」
その言葉に、ハリヤーは一瞬黙った。
アガサは幼い頃から、感情を大きく表に出す子ではなかった。何か気に入らないことがあっても、まずは聞き分けようとする。相手に合わせようとする。ハリヤーはそれを、分別がある、と見ていた。
「最後にお前が見たのはいつだ」
「一昨日の夜でございます」
「一昨日?」
部屋の空気が変わる。ハリヤーはリルを見据えた。
リルは震えたまま続ける。
「スープをお持ちしました。お嬢様は寝台のカーテンを下ろしておられて……声は、ございました。少し疲れたので、明日の朝は起こさないでほしいと」
「昨日の朝は」
「トレイを扉の前に置いておくように、と前の夜に言われておりました。昼も、同じように。夕方に取りに参りましたら、スープは少し減っておりましたので、わたしは……」
「見ていないのか」
リルは息を詰める。
「……はい。申し訳ございません」
「昨日一日、お前はアガサを見ていない」
「はい」
「声も聞いていない」
「はい」
ハリヤーは目を閉じた。怒りを抑えたようにも、何かを計算しているようにも見えた。
部屋の者は誰も動けない。遠くで、夫人に知らせを受けたらしい者達の足音がした。
「つまり、アガサは一昨日の夜から既にいなかった可能性がある」
リルは答えなかった。答えられないように見えた。
「旦那様」
執事が低く声をかける。
「門番へ確認を取らせております。昨夜から今朝まで、お嬢様のお姿を見た者はいないとのことです。ただ、荷馬車や商会の出入りは日中にもございますので」
「全て確認しろ。裏門もだ。屋敷内の者も一人ずつ聞け。アガサの部屋に出入りした者、廊下で何か聞いた者、見た者、全員だ」
「かしこまりました」
「それから、マダラール家へ使いを出せ」
執事がわずかに顔を上げる。
「マダラール家へ、でございますか」
「先日の件が関わる可能性がある。ディオ・マダラールが何を言ったのか、正確に聞く必要がある」
ハリヤーはリルへ視線を戻した。
「お前はここに残れ。後でまた聞く」
「……はい」
リルは消え入りそうな声で答える。その声も、震えていた。
恐怖だとハリヤーは思った。大切な主人を見失った若いメイドの恐怖。責められることへの恐怖。自分の失態が屋敷中に知れることへの恐怖。
誰も、それ以外のことは考えなかった。
アガサ・ディラクールの部屋には、朝の光が静かに入っていた。窓辺の小さな机には、読みかけの本が伏せられている。栞も挟まれないそれは、少し席を外しただけのようだった。
だが鞄はなかった。
外出着も、靴も、いくつか消えていた。
――そして、部屋の主だけが戻らない。




