第九章 雨の日のバス停
十月の終わりに、雨が続いた。
三日間降り続けた雨で、通学路のあちこちに水たまりができた。傘を差して歩くのが億劫で、でも止まないから仕方なく差して、それでも裾が濡れる。そういう三日間だった。
透子から連絡が来たのは、その三日目の放課後だった。
「先輩、久瀬ヶ丘駅の北口から少し行ったところに、変なバス停があるらしくて」
「変な、というのは」
「雨の日だけ現れるって噂で。普段はそのバス停、存在しないんです。でも雨が降ると出てきて、そこで待ってる人は帰れなくなるって」
「帰れなくなる?」
「バスが来ない。来ないのに、待ち続けてしまう。気づいたら何時間もそこにいた、みたいな話が去年もあったらしくて。今日も雨だから、また出てるかもしれないと思って」
ルチルが耳元で「行く」と言ったので、依子さんに連絡した。
「今日は私も行く。六時に北口で待ってて」
そう言ったきり、電話が切れた。
北口に着いたのが五時五十分で、依子さんはすでにいた。今日は傘ではなく、フードつきのコートを着ていた。棒付きキャンディはさすがに傘の中でないと難しいのか、今日はポケットにしまっていた。
「場所は透子から聞いた。北口から西に二百メートルくらいのところ」
「今日出てますか」
「さっき確認したら、出てるね。人が一人、待ってる」
「誰かが巻き込まれてる」
「急ごう」
雨の中を歩いた。傘を差しながら、水たまりを避けながら。ルチルは私のコートのフードの中に入っていた。濡れるのが嫌らしい。
「ルチル、雨苦手なの?」
「毛が濡れる」
「じゃあ中にいて」
「言われなくてもそうしている」
フードの中がもそもそと動いた。
二分ほど歩いたところで、見えてきた。
古いバス停だった。錆びた支柱に、色あせた標識。路線名が書いてあるはずの部分が、読めないくらい薄れていた。
そのバス停の前に、人が一人立っていた。
傘を差して、バスが来る方向を見ていた。ずっと同じ方向を、微動だにせず見ていた。
近づいて、顔が見えた。
「先輩?」
榊晴澄だった。
「先輩」
もう一度呼んだ。
今度は反応があった。晴澄さんがゆっくり振り返った。でも目の焦点が合っていなかった。私を見ているのに、私を見ていない目だった。
「……高槻さん?」
「はい。大丈夫ですか、ここで何を」
「後輩が、帰ってこないと連絡があって。探しに来たら」
「ここにいた」
「バスを待っているんだと思って。一緒に待っていれば、来るかと思って」
「いつから待ってますか」
晴澄さんは少し考えた。
「……分からない。四時ごろには来ていたから」
今は六時を過ぎていた。二時間以上、ここで待っていた。
依子さんが私の横に来て、小声で言った。
「怪異に取り込まれてるね。本人の意志で待ってるんじゃなくて、感情が場所に縛られてる状態。かなり強い」
「封縫が必要ですか」
「核がどこかを確認したい。バス停の支柱か、標識か」
ルチルがフードから少し頭を出して、言った。
「支柱だ。根が深い。かなり古い怪異だ、これは」
「古い?」
「何年も前から、ここに根がある。雨の日だけ顕在化していたが、最近力が増している」
「最近、というのは」
「学校周辺の怪異が活性化してからだ」
依子さんが「やっぱりつながってるね」とつぶやいた。
「先輩を先に解放できますか」
「できる。ましろちゃんが核に触れて感情を受け取れば、一時的に弱まる。その間に榊さんを連れ出せばいい」
「封縫はその後?」
「根が深いから、今日で完全に収束はできないかもしれない。ただ、人が閉じ込められてる状態は解ける」
「分かりました」
支柱に近づいた。錆びた金属が、雨に濡れて光っていた。ルチルがフードから出てきて、私の肩に乗った。
「慎重にやれ」
「うん」
「古い根は、深いところまで続いている。入りすぎるな」
「分かった」
支柱に手を触れた。
冷たかった。
金属の冷たさと、雨の冷たさと、もう一つ別の冷たさがあった。
感情が流れ込んできた。
待っていた。
ずっと、待っていた。
雨の日に、ここで待っていた。来るはずだった。来ると言っていた。雨でも待ってるから、と言っていた。
でも来なかった。
待ち続けた。何時間も、何時間も。バスが来るたびに、でも乗れなかった。乗ってしまったら、来たときに会えないから。もう少し待てば来るから。
でも、来なかった。
雨がやんでも、来なかった。
次の雨の日にも待った。また来なかった。
何度待っても来なかった。
「待つ側は、置いていかれるよりつらい」
感情の中に、声がした。
声ではなかった。でも、そういう感情だった。
待っている間、置いていかれることを選んだ側より、待ち続ける側の方がずっとつらい。来ないと分かっていても、来るかもしれないという気持ちが消えないから。
待つことをやめられなかった。
それが、ここに残っていた。
受け取った、と思った。
あなたがここで待っていたこと。来ると信じていたこと。来なくても、来るかもしれないと思い続けたこと。それが嘘じゃなかったこと。ちゃんとここにあった。見つけた。受け取った。
支柱の力が、少し緩んだのが分かった。
「今です」
依子さんから言われると、私は支柱から手を離して、晴澄さんの方へ走った。
「先輩、行きましょう」
「でも、後輩が」
「後輩さんはもう大丈夫です。このバス停から離れてください」
晴澄さんの手を取った。
雨の中で、傘越しに、晴澄さんの手を引いた。
晴澄さんは最初、少し抵抗した。バス停から離れることを、体が拒否しているような感じだった。でも私が引き続けると、一歩、また一歩と動いた。
バス停から五メートル離れたところで、晴澄さんの目の焦点が戻った。
「……あ」
「先輩?」
「ここ、どこ」
「北口から少し歩いたところです。バス停がありましたよね」
晴澄さんが振り返った。
バス停は、まだそこにあった。依子さんが封縫作業を進めていた。白い糸が雨の中で光っていた。
「いた。あそこで待っていた」
晴澄さんが言う。
「はい」
「何時間?」
「二時間くらい」
晴澄さんが目を閉じた。それから開けた。
「後輩は?」
「依子さんが確認しています。たぶんもう帰っている」
「そう」
晴澄さんはゆっくりと息を吐いた。雨が傘を叩く音が続いていた。
「手を引いてくれた」
「気づいてましたか」
「途中から。でも離せなかった。自分の意志で動けなかったから」
「怪異の影響です」
「知っている。でも、手を引かれていると分かったから、余計に離せなかった」
私は少し黙った。
その言い方は、怪異の影響だけじゃないように聞こえた。でも確認するのが怖い気がして、しなかった。
しばらくして、晴澄さんが言った。
「待つ側は、置いていかれるよりつらい」
「え?」
「今、ここで待っている間、そう感じた。来ないと分かっていても、来るかもしれないと思い続けて、でもやめられない。そっちの方がつらいと思った」
私は晴澄さんの横顔を見た。
「先輩は、誰かを待ったことがありますか」
「……ある気がする」
「気がする、というのは」
「はっきり覚えていない。でも感覚だけある。ずっと待っていた、という感覚。誰かを。でも誰かが思い出せない」
雨が少し強くなった。傘が重くなった。
「来なかったんですか、その誰かは」
「分からない。来たのかもしれないし、来なかったのかもしれない。記憶がないから」
「でも感覚は残ってる」
「待っていた感覚だけが、ずっとある」
晴澄さんの声が、いつもより少し低かった。整えていたけれど、整えきれていない部分があった。
私は思った。
この人は、誰かを待っている。今も、まだ待っているのかもしれない。来ない誰かを。あるいは来るかどうかも分からない誰かを。
「先輩」
「なに」
「その誰か、思い出せたら、どうしたいですか」
晴澄さんが私を見た。雨の中で、傘越しに。
長い沈黙があった。
「分からない」
「分からない、ですか」
「怖い気がする。思い出したら、何か壊れる気がして。だから思い出したいのか、思い出したくないのか、自分でも分からない」
「壊れるとしても、知りたいですか」
「……あなたはいつも、そういう聞き方をするのね」
「どういう聞き方ですか」
「逃げ道がない聞き方」
「すみません」
「謝らなくていいと言っているのに」
「では謝りません」
「それも違う」
雨の中で、晴澄さんが少し笑った。雨に打たれながら笑う顔は、普段の整えた顔とは少し違っていた。水に濡れたものが本来の形を見せる、という感じがした。
「知りたい、だと思う」
晴澄さんが穏やかな声で言った。
「怖くても」
「怖くても?」
「壊れるとしても。知らないままでいる方が、もっと怖い気がして」
「そうですか」
「あなたに言わせたのかもしれない。さっきの聞き方で」
「言わせたつもりはないですが」
「でも言ってしまった」
「言ってよかったですか」
「……たぶん、よかった」
依子さんが戻ってきた。傘を差しながら、「封縫、半分まで進めた。今日の雨でこれ以上活性化はしないと思う。完全な収束は次の雨の日に」と伝えた。
「後輩さんは?」
「もう帰ってた。怪異の影響が切れたら自分で動けたみたい。連絡したら大丈夫って返事が来た」
「よかった」
依子さんが晴澄さんを見た。
「大丈夫ですか、榊さん」
「はい、ご迷惑をかけました」
「迷惑じゃないですよ。あの怪異は強いから、巻き込まれても不思議じゃない」
「慣れた言い方をするんですね」
「慣れてます。あなたもそのうち慣れるかもしれないけど、慣れなくていいとも思う」
依子さんが笑った。
「どういう意味ですか」
「怪異に慣れると、人の感情にも慣れてしまう。それは少しもったいないから」
晴澄さんは依子さんを見た。
「冬月さんは、どうして慣れない方がいいと思うんですか」
「慣れてない方が、ちゃんと受け取れるから。感情を」
晴澄さんはそれをしばらく考えているようだった。
「受け取る、というのは、あなたたちがやっていることですか」
「そうです。遺失物に残った感情を、回収する。回収する、という言い方をするけど、実際には受け取ることに近い」
「捨てるわけじゃなくて」
「捨てません。保管します」
「なくならないんですね、感情は」
「なくならない。形が変わるだけ」
晴澄さんは雨の方を見た。バス停がまだそこにあった。依子さんの封縫が施されて、今は静かだった。
「あのバス停に、誰かが待っていた感情が残っているんですか」
「はい」
「それを、あなたたちが保管する」
「します」
「……それは、少し安心する」
そう言ってから、晴澄さんは自分で口にした言葉に驚いたみたいに、少しだけ目を伏せた。
まるで、今の言葉が自分のどこから出てきたのか、本人にも分かっていないようだった。
「安心?」
「なかったことにならない、ということが」
依子さんが私を見た。私も依子さんを見た。
晴澄さんは雨の中で、バス停を見続けていた。その横顔が、さっきの「怖くても知りたい」という言葉を繰り返しているような顔だった。
帰り道は三人で少し歩いて、晴澄さんと別れることに。
晴澄さんは「今日はありがとう」と私に向かって言った。依子さんにも言ったけれど、私に向かって言った部分の声の温度が、少し違った気がした。
「榊さん、また何かあれば」
「言えないと思いますが」
「言えなくてもいいですよ。こっちから行きます」
依子さんがそう言うと、晴澄さんは少し目を丸くした。それから小さく笑って、傘を傾けて歩いていった。
雨の中で、その後ろ姿が遠くなった。
「いい子ね」
依子さんが言う。
「はい」
「怖くても知りたい、か」
「聞こえてましたか」
「聞こえてた。ましろちゃんが引き出したんでしょ」
「引き出したつもりはないですが」
「でも引き出した」
依子さんが傘を傾けて空を見た。雨はまだ続いていた。
「先輩が待っていた誰かについて、ましろちゃんはどう思う」
「まだ分からないですが」
「感応は何か言ってた?」
「バス停の怪異から受け取ったのは、待ち続ける感情でした。でも先輩の近くにいると、いつも感応が揺れる。それは別のものかもしれないし、つながっているのかもしれない」
「ルチルはどう思う?」
ルチルが私のフードの中で動いた。
「言えることと言えないことがある」
「言えることだけ教えて」
「榊晴澄が待っている誰かは、この学校の怪異の核に近い」
「近い、というのは?」
「中心にいるかもしれない。あるいは、中心そのものかもしれない」
依子さんが黙った。
「それは知ってて言ってる?」
「知っている部分と、推測している部分がある」
「知っている部分は言えない?」 「今は言えない」
依子さんはキャンディをポケットから出して、くわえた。雨の中で、じっと考えていた。
「ましろちゃん」
「はい」
「榊さんのことを、どう思ってる?」
「放っておけません」
「それだけ?」
「……それだけじゃないかもしれないですが、まだうまく言えないです」
「うまく言えなくていいと思うよ」
「なんでですか」
「言葉になる前の気持ちの方が、本物のことが多いから」
依子さんはそれだけ言って、「先に帰るね」と言って歩いていった。傘が雨の中に消えた。
私とルチルが残った。
「ルチル」
「なんだ」
「先輩が待っている誰かのこと、知ってる?」
フードの中でルチルが動いた。
「……知っているかもしれない」
「教えてもらえないことも分かってる。ただ聞きたかった」
「なぜ」
「ルチルが知ってるなら、その誰かはいた、ということだから。先輩が待っている誰かは、本当にいた。それだけ確認したかった」
ルチルが長い間黙った。
雨が続いていた。
「……いた」
小さく言った。
「いた、と言えるだけ言える」
「それで十分」
「十分か」
「うん」
私は傘を持ち直して、歩き出した。
ルチルはフードの中で、何も言わなかった。でも体温があった。小さいのに、温かかった。
先輩が待っている誰かは、いた。
いたのに、いなくなった。
なぜいなくなったのかは、まだ分からなかった。でもそれが、この学校の怪異のすべての根にあるのだということが、今夜の雨の中で少しだけはっきりした気がした。
帰り道に、赤信号で立ち止まった。
水たまりに街灯が映っていた。
ルチルの首の赤いリボンが、雨に濡れて少し色が滲んでいた。
なぜかそれを見たとき、胸の奥がちくりとした。
何かを思い出しかけている感覚だった。
でも思い出せなかった。
信号が青になって、私は歩き出した。




