第七章 ましろの拾い癖
木乃葉が私の拾い癖に気づいたのは、中学一年の秋だった。
帰り道に財布を拾った。中身は入っていなかったけれど、写真が入っていた。家族の写真だった。触れた瞬間に感情が来て、私は道の端でしばらく動けなくなった。
それを木乃葉に見られた。
「ましろ、大丈夫?」と声をかけられて、気づいたら木乃葉が隣にしゃがんでいた。
「拾ったから、警察に届けようと思って」
「顔色悪いけど」
「大丈夫」
「嘘っぽい」
木乃葉は一度だけそう言って、それ以上聞かなかった。一緒に交番まで歩いてくれた。財布を届けて、外に出たとき、「ましろって、よく落とし物拾うよね」と言った。
「うん」
「なんで?」
「見えると、無視できなくて」
「見える?」
「見えたら、っていう意味で」
木乃葉は「ふーん」と言って、それ以上聞かなかった。
それが木乃葉だった。踏み込まない優しさ、というのを、その頃から持っていた。
今日は木乃葉と二人で昼を食べていた。
屋上が開放されている日で、日当たりのいい場所にシートを敷いた。十月の中頃で、風が少し冷たかったけれど、日の当たる場所は温かかった。
木乃葉はいつものように、明るい話題を次々に出してくる。クラスの男子の話、昨日のドラマの話、購買のパンが品切れになってた話。私はそれを聞きながら、弁当を食べていた。
「ましろ、最近よく旧校舎の方に行ってるよね」
唐突に言った。
「うん」
「何かあるの?」
「少し調べ物」
「調べ物」
木乃葉は繰り返した。信じていないわけではなく、どこかで察している感じがする言い方だった。
「文学部の手紙の件も、ましろが動いてたんでしょ」
「少し関わっただけ」
「旧校舎の件も?」
「少し」
「少し多いね」
「そうかな」
木乃葉はお弁当箱の蓋を閉めて、私を見た。まっすぐな目で見る。この目をされると、嘘がつきにくい。
「ましろって、昔からそうじゃない。放っておけないやつ」
「そう?」
「小学校の頃、教室で泣いてた子のそばに、気づいたらいたじゃない。声をかけるわけじゃなくて、ただそこにいる、みたいな感じで」
「覚えてない」
「ましろは覚えてないと思う。無意識でやってたから」
「そんなにやってた?」
「結構。落とし物も、毎回拾ってた」
木乃葉はそれを責めているわけでも、からかっているわけでもなかった。ただ事実を言っていた。
「そういう子だと思ってた。でも最近、ちょっと違う気がして」
「違う?」
「なんか、目的があって動いてる感じ。前は無意識っぽかったけど、今は何かを見ながら動いてる感じ」
「……そう見える?」
「うん。悪い意味じゃないよ。ただ、ましろが変わったのかなって思って」
私は空を見た。雲が少なくて、青い空が広かった。
「変わったのかな、自分でも分からない」
「何かあったの?」
「少し、自分の体質と向き合う機会があって」
「体質?」
「落とし物を拾うと、変な感じがするやつ。気持ち悪いとかじゃなくて、何かが流れ込んでくる感じ」
木乃葉は黙った。長い沈黙ではなかった。
「そういうのがあるんだ」
「うん」
「それって、しんどい?」
「たまに」
「ましろが教えてくれなかったのは、なんで?」
「言ってもうまく説明できなくて。おかしいと思われたくなかったし」
「おかしくないと思う」
木乃葉は即答した。迷わなかった。
「そういうのがある人もいると思うし、ましろが嘘をつくような子じゃないのは分かってるから」
「……ありがとう」
「お礼を言われることでもないけど。ただ、しんどかったら言って。何もできないかもしれないけど、隣にいることはできるから」
木乃葉の言い方は、過剰じゃなかった。「何でもする」とか「絶対助けになる」とか、そういう大きな言葉じゃなかった。隣にいることはできる、という言い方が、木乃葉らしかった。
「うん」
「あと、榊先輩と最近よく話してるじゃない」
「見てたの」
「学校狭いから自然と目に入る。先輩、完璧な人って感じがして、話しかけるの勇気いらない?」
「いる」
「でも話せてる」
「なんか、話しかけちゃう」
「なんか、って。ましろらしいね」
木乃葉が笑った。
「そう?」
「放っておけないから、ってこと?」
少し間があった。
「……それだけじゃない気もするけど、うまく言えない」
木乃葉はそれを聞いて、何か言いかけた顔をした。でも言わなかった。代わりに「そっか」と言って、お茶を飲んだ。
それが木乃葉だった。
放課後、保管局に寄った。
依子さんが書類を整理しながら、私を見て「どうした、顔色ふつうだけど、何かあった?」と言った。
「少し聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「私の体質って、危ないですか」
依子さんは手を止めた。棒付きキャンディを口の端で転がしながら、少し考えた。
「何で今日それを聞く?」
「木乃葉に、体質のことを少し話して。今まで言えてなかったから」
「言えなかった理由は?」
「おかしいと思われるのが怖くて。あと、うまく説明できなくて」
「今日は言えた?」
「少しだけ」
依子さんは書類を脇に置いた。それから私と向き合った。
「危ないかどうか、というのは、二つの意味がある。感応自体のリスクと、おまえの性格のリスク」
「性格のリスク」
「感応は、感じやすい体質だということ。それ自体は中立。でも感じやすすぎると、他人の感情に引きずられる。おまえの場合、感情が強いものに触れると負荷が大きい。それが一つ目のリスク」
「二つ目は?」
「放っておけない性格」
依子さんはそう言った。優しい声だったけれど、はっきりしていた。
「感応を持つ人間は、見えてしまうから動いてしまう。それ自体は仕方ない面もある。でも放っておけない気持ちが判断を鈍らせると、危ない場面に踏み込みすぎる」
「自分でも分かってます」
「分かっていても止められないのが、おまえだろう」
「……はい」
「正直だね」
依子さんは少し笑った。
「危ない、と答えるなら、そう。危なくない、とは言えない。でも危なさを知ったうえで動くのと、知らないで動くのは違う。おまえは今、知ろうとしている。それはいいことだと思う」
「依子さんは、最初から危なさを知ってましたか。この仕事を始めたとき」
「知らなかった。だからひどい目にあった」
あっさりと言った。
「ひどい目に?」
「引きずられた、人の感情に。封縫の使いすぎで、一週間動けなかったこともある。無茶してた」
「それで、どうやって止めたんですか」
「止め方を覚えたというより、限界を覚えた。自分がどこまでやれるかを知った。あとは」
依子さんは窓の外を見た。
「信頼できる人ができた。限界を言える人」
「それが真壁さん?」
「それだけじゃないけど、含む」
「真壁さんに言えるんですか、限界」
「言えるようになった。最初は言えなかった。怖かったから」
「怖い?」
「弱いと思われるのが。できないと思われるのが。この仕事に向いてないって言われるのが」
私は黙った。その怖さは、分かる気がした。
「でも言えるようになったのは、あの人が怒らなかったからだよ。限界を言ったとき、怒らなかった。ただ対処した。それで怖くなくなった」
「真壁さんが怒らなかった」
「意外でしょ」依子さんがにやっとした。「あの見た目で怒らないから。私情を持ち込まない人は、感情的に責めないんだよ。問題を問題として扱う」
「ちょっと見直した」
「そう言ってやって」
「直接は無理」
「だよね」
依子さんが笑った。
「ましろちゃんには、限界を言える人はいる?」
「ルチルは言えると思う。木乃葉も、今日少し話せた」
「榊さんには?」
「……どうして先輩が出てくるんですか」
「最近、名前が出やすいから」
「出やすいって」
「おまえの話の中で、自然に出る。意識してないと思うけど」
私は少し黙った。
「先輩には、まだ言えないと思います。状況が複雑だから」
「状況というより、自分の中が複雑なんじゃない?」
依子さんはそれだけ言って、書類の整理に戻った。それ以上言わなかった。
保管局を出たあと、夕方の商店街を歩いていると、ルチルが現れた。
どこにいたのかは分からない。気づいたら肩の上にいた。
「依子さんと何を話していた」
「体質の話。危なさの話」
「聞かせてもらっていた」
「知ってた」
「盗み聞きではない。把握が仕事に含まれる」
「似たようなものでは」
ルチルが尻尾を立てた。
「含まれる、と言った」
「はい、はい」
商店街の八百屋の前を通った。今日は里芋が安かった。里芋の煮物が好きなので、少し気になった。ルチルが「何を見ている」と言ったので「里芋」と答えたら黙った。
「幼い頃から、そういう体質だったのか」
しばらくして、ルチルが言った。
「うん。小学校の頃は感情が強くて、知らない落とし物を拾うと泣き出したりしてた。他人の悲しみか怒りが流れ込んできて、自分のものと混線して」
「家族はどう言っていた」
「優しすぎる、って。困りごとだって分かってたから、心配はしてくれてたけど、どうすることもできないから」
「本人が一番きつかっただろう」
「小学校の頃はそうだった。中学に入ってから少し慣れてきて、今はある程度コントロールできてる」
「完全ではないが」
「完全ではない」
ルチルは黙った。商店街のスピーカーから、夕方の音楽が流れていた。
「なくした側が置いていかれる感じが嫌、と言っていたな。依子に」
「聞いてたなら知ってる」
「正確にはどういう意味だ」
「落とし物って、落とした人は気づいて、探して、見つかればよかったってなる。でも落とされたもの自体は、落とされた場所にそのままいる。その感じが」
「その感じが、何だ」
「なんか、いやだ」
「落とされた側の感情が残っているから、おまえには見えるのだろう」
「そう。だから尚更」
「放っておけない」
「うん」
ルチルが尻尾をゆっくり揺らした。
「おまえ自身には、そういう経験があるか」
「落とされた経験?」
「置いていかれた経験」
私は少し歩くのを遅くした。
「……あるかもしれない。はっきりとは言えないけど」
「はっきりとは?」
「昔、何かがあった気がする。強い喪失感を覚えた記憶があるんだけど、何を失くしたのかが思い出せなくて」
「思い出せない?」
「うん。なんか、すっぽり抜けてる感じがする。感情だけ残ってて、出来事が見えない」
ルチルが動きを止めた。
肩の上で、尻尾が一瞬止まった。
「……そうか」
「そういう経験ってある? 記憶が抜けてるやつ」
「ある、かもしれない」
「ルチルも?」
「あたしは少し構造が違うから、単純に比較はできないが」
「構造が違う」
「気にするな」
「気になる」
「後にしろ」
また後回しにされた。でも今日はそれほど気にならなかった。ルチルが「そうか」と言ったときの声が、少し変わっていたからだ。驚いていたわけではない。でも何かが動いた、という感じの声だった。
「ルチル」
「なんだ」
「私が失くした記憶って、関係してると思う? この学校の怪異に」
長い沈黙があった。
夕方の商店街を人が行き来していた。自転車が通った。子どもが走っていった。
「分からない」
ルチルは言った。
「でも、ないとは言えない」
「それって、知ってることがあるけど言えない、ってこと?」
「……今は言えない」
また、そう言った。でも今日の声は少し違った。今まで「言わない」という意志があった気がするのに、今日は「言えない」という感じが強かった。
知っていることがある。でも言うことができない何かがある。
私はそれ以上聞かなかった。
家に帰って、夕飯を食べて、風呂に入って、机に向かった。
宿題をやりながら、ぼんやり考えていた。
自分が失くした記憶というのが、本当にあるのかどうか。感情だけが残って、出来事が見えない、というのは確かだった。幼い頃、強い喪失感を覚えた記憶がある。泣いた記憶がある。でも何のために泣いたのか、誰かがいなくなったのか、何かがなくなったのか、そこだけが霧の中にある。
他人の感情には敏感なのに、自分の過去にだけ靄がかかっているのは、おかしな話だと思っていた。でも今まで深く考えなかった。深く考えると、なんとなく、怖い気がしていた。
落としものを見ると放っておけない性格は、もしかしたらそこから来ているのかもしれない、と思った。置いていかれた経験が、自分の中にあるから。置いていかれたものを、自分が拾わずに誰が拾うのか、という感覚が、根っこにあるのかもしれない。
「失くしたものを、なかったことにしたくない」
ぽつりと言ってみた。
自分でも知らなかったけれど、これが自分の信念なのだと気づいた。今日初めて、言葉になった。
机の隅で、ルチルがいつの間にかいた。目を開けていた。
「聞こえた」
「聞いてたの」
「いつも聞いている」
「見張ってるみたいで怖い」
「見張っていない。ただ、そばにいる」
ルチルの声が、いつもより少し柔らかかった。夜は声が変わる気がした。
「それでいいのか」
「え?」
「失くしたものを、なかったことにしたくない。それが、おまえの動く理由か」
「……そう、だと思う。今日初めてちゃんと言葉になったけど」
「それが信念になることは、強さになる。ただ」
「ただ?」
「その信念は、おまえ自身の喪失から来ているかもしれない。そうだとしたら、おまえが一番見ていないのは、おまえ自身の失くしものだ」
私はペンを持ったまま、黙った。
「自分の失くしものを、自分でなかったことにしていないか、ということだ」
「……ルチルは、私が何を失くしたか、知ってる?」
「知っているかもしれない。知らないかもしれない」
「どっちなの」
「今は分からない、と言っておく」
「また曖昧に」
「曖昧にしか言えない理由がある」
「それを言ってほしい」
「今は言えない」
「それ今日何回言った」
「数えていない」
「私は数えてる。四回」
「……そうか」
ルチルがまた、短く言った。それから目を閉じた。眠るらしかった。
「おやすみ」と私が言ったら、「ん」とだけ返ってきた。
翌朝、登校すると晴澄さんが昇降口の前にいた。
書類を持って、通り過ぎる生徒に何か確認しているようだった。文化祭の準備か、何かの調査か。
私が通り過ぎようとしたとき、晴澄さんが顔を上げた。
目が合った。晴澄さんは何か言いかけたみたいに唇を動かして、それからやめた。
いつもの整った表情に戻るまでのほんの一瞬だけ、ひどく疲れた人の顔をしていた。
「おはようございます」と私が挨拶すると、「おはよう」と晴澄さんは返してくれた。それから少し、間があった。
「昨日の旧校舎の件、冬月さんという人から連絡があった。鍵の処理は保管局で対応するって」
「そうですか。ご連絡ありがとうございます」
「あと」
晴澄さんが少し目を伏せた。
「昨日、一緒に旧校舎を出てくれた。歩く速度を落として、隣にいてくれた」
「……気づいてたんですか」
「気づいていた」
「言えばよかったですか」
「言わなくてよかった」
晴澄さんは私を見た。いつもの整えた顔だったけれど、その中に、昨日音楽室で見た「整えようとする前の顔」の名残がある気がした。
「なくした側が置いていかれる感じが嫌、と言ってたわね。先日」
「はい」
「あなたは、置いていかれたことがあるの」
私は少し驚いた。踏み込んだ質問だった。
「……あるかもしれない。はっきり思い出せないけど」
「思い出せない」
「感情だけ残ってて」
晴澄さんはしばらく黙った。朝の昇降口を、生徒たちが通り過ぎていった。
「私も、そういうことがある」
穏やかな声で言った。
「感情だけあって、何に対する感情なのか分からないことが。最近、頻繁に」
「それは」
「あなたに言うつもりはなかったんだけど」
晴澄さんが目を伏せた。
「なぜか言ってしまった」
「聞いてよかったですか」
「……分からない。でも、言ったら少し楽になった気がする」
その言葉を、私は大事に受け取った。言葉にしなかった。ただ、受け取った。
「また何かあれば」
「言わないと思う、たぶん」
「言わなくてもいいです。でも、隣にいる速度くらいは合わせます」
晴澄さんが私を見た。
また何か言いかけた顔をして、また言わなかった。
でも今度は、少しだけ表情が動いた。整える前の、柔らかいところが、ほんの一瞬見えた。
「……変な後輩」
「よく言われます」
「褒めていない」
「分かってます」
「でも」
晴澄さんは書類に目を落とした。
「悪くはない」
それだけ言って、また生徒への確認作業に戻った。
私は昇降口を入りながら、胸のあたりが少し温かいような、少し苦しいような気持ちだった。
言葉にしなかったことが、また一つ増えた気がした。
でも今日はそれでいいと思った。
まだ、言葉になる前の何かが、ゆっくりと形を持ちつつある段階だから。




