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終末保管局のリボン付き遺失物―落とし物に宿った感情が見える私が、先輩の喪失を受け取るまで―  作者: 明石竜


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第六章 古い鍵と閉ざされた音楽室

 旧校舎の立入禁止が解除されたのは、先週の怪異が収束してから四日後のことだった。

 表向きの理由は「安全確認が完了した」で、実際には依子さんが保管局の書類を動かして手続きを整えたらしい。詳しいことは教えてもらえなかったけれど、「大人の仕事ってそういうもんだよ」と棒付きキャンディをくわえながら言われたので、そういうものなのだろうと思った。

 解除されたその日の放課後、透子が来た。

 正確には、私の教室のドアのところに立っていた。新聞部の腕章をつけた、小柄な一年生。くりっとした目が廊下をきょろきょろして、私と目が合った瞬間に「あっ」という顔をした。

「高槻先輩ですよね。二組の」

「そうだけど、えっと」

「綾瀬透子といいます。新聞部の一年で」

「新聞部?」

「はい。先輩のこと、文学部の手紙の件で噂を聞いて。図書委員の三年生に話を聞いたんですけど、高槻先輩が動いたって」

「噂になってるの」

「なってます。あと旧校舎の件も、先輩が関わってたって」

 私は少し頭を抱えた。こういう形で広まってほしくはなかったのだけれど、木乃葉が言っていた通り、学校というのは情報が早い。

「記事にしたいとかじゃないです。ただ、また何かあったら教えてほしくて。私、学校の噂を集めるのが好きで、情報なら結構持ってます。交換、みたいな感じで」

「交換」

「先輩が動いてる間に、私が情報を集めておく、みたいな。あ、邪魔はしません。巻き込まれるのは嫌なので」

「巻き込まれたくないけど情報は集めたい?」

「好奇心と自己保存本能は別で動いてるので」

 なるほど、と思った。妙に理屈が通っていた。

「分かった。何か変な噂があったら教えて」

「ありがとうございます!」

 透子はぱっと笑った。屈託のない笑い方だった。鞄の中でルチルが動いた。何か言いたそうだったけれど、透子の前では黙っていた。

「早速なんですけど、旧校舎の音楽室、今日から入れますよね」

「そうだけど」

「昨日の夜から、また音がしてるって話で」

「ピアノの音?」

「はい。昨日の夕方、旧校舎の近くにいた二年生の男子が聞いたって。誰もいないのに音がしてたって」

 私は鞄の中のルチルを見た。鞄の中なので見えないけれど、気配がある。

「分かった。確認してみる」

「報告待ってます」

 透子は手を振って行ってしまった。颯爽とした後ろ姿だった。


 放課後、依子さんに連絡した。

「音楽室ね。把握してる。今日は私が動けないから、ましろちゃん一人で行ってみて。ただし」

「触らない、深追いしない」

「そう。状況確認だけ。ルチルがいるから大丈夫だとは思うけど」

「分かりました」

「あと、生徒会長が今日も旧校舎の近くをうろうろしてるって情報が入ってる。鉢合わせするかもしれないから、一応知っておいて」

「先輩が?」

「本人に聞いてみたら? 何か知ってるかもしれないし」

 依子さんは軽く言って、電話を切った。

 私は廊下に出た。ルチルが肩に乗ってきた。

「音楽室」

「うん。行く前に確認したいんだけど、旧校舎の怪異って、先週の手鏡と関係してる?」

「おそらく同じ根から来ている」

「根?」

「学校全体の怪異が、一つの大きな感情に引き寄せられるように集まっている。個別の案件に見えて、全部どこかでつながっている」

「その根っこが何なのかは、まだ分からない?」

「分からない」

 ルチルの声が少し短かった。嘘はついていないと思うが、全部話してもいないという感じがした。

「ルチル」

「なんだ」

「何か隠してるよね」

「隠していない。分からないと言っている」

「分からないことと、言わないことは別だよ」

 ルチルが静かになった。廊下の窓から西日が差していた。

「……今は言えない」

 初めて、そう言った。今まではごまかすか話を切るかだったのに。

「今は言えない、ということは、いつかは言える?」

「おまえが知る必要が出てきたときに」

「それって私が決めることじゃないの」

「今はあたしが判断する」

「なんで」

「知ることで、おまえが無茶をするからだ」

 いつもの偉そうな調子なのに、その一言だけは少し早かった。

 間に合わなかった記憶に追われている人みたいだ、と一瞬だけ思った。

 ルチルが私のことを心配している、というのは分かった。だから私は黙った。でも納得はしていなかった。


 旧校舎の正面から入った。今日は鎖がない。

 廊下は前回来たときより少し明るかった。日が傾いているので西日が窓から差し込んでいて、埃が光の中に浮かんで見えた。

 二階に上がったとき、音楽室の前で足が止まった。

 聞こえた。

 ピアノの音だった。

 旋律というほどのものではなかった。単音が、ゆっくりと、不規則に鳴っていた。誰かが鍵盤の上を指でなぞっているような、そういう音。

「核はここか」

 ルチルが言った。

「中に人はいる?」

「人間の気配はない。ただ」

「ただ?」

「何かが残っている。かなり古い」

 私はドアに手をかけた。開いた。

 音楽室は薄暗かった。グランドピアノが一台、部屋の中央に置かれていた。使われなくなって久しいのだろう、鍵盤の蓋が少し反っていた。

 でもピアノは鳴っていた。

 誰も触れていないのに。

 音は低い方の鍵盤から高い方へ、ゆっくり移動していた。旋律ではない。でもでたらめでもない。何かを探しているような、そういう動き方だった。

「触っていい?」とルチルに聞いた。

「待て。まず見るだけにしろ」

 部屋の中を見回した。

 窓際に椅子が並べてある。古い譜面台が隅に倒れている。黒板には何も書いていない。

 黒板の隅に、鍵が一つ掛かっていた。

 古い鍵だった。錆びていて、鍵穴の形が今のものと違う。どこのドアの鍵なのかも分からない。でも掛けてあった。わざと、そこに残してあるような感じで。

 「あの鍵。それだ」

 「核?」

 「核に近い。触れてみろ」

 私は窓際を通って、黒板の前に立った。鍵を手に取った。


 冷たかった。

 金属の冷たさとは別に、感情の重さがあった。

 流れ込んできたのは、「ここだけは閉めないで」という感情だった。

 切実な感情だった。懇願、に近かった。でも誰かに言っているわけじゃなかった。ただそこにある、そういう感情。

 記憶の断片が来た。

 音楽室で練習していた生徒たちの残像。合唱部だった。人数は多くなかった。十人かそこら。でも毎日ここに集まっていた。朝練もあった。放課後も遅くまで残った。

 その中に、仲の良い二人がいた。

 どちらも女子で、一人は明るくよく笑う子で、もう一人は少し静かで、でも歌うのが好きそうだった。二人は毎日一緒に来て、一緒に帰っていた。

 卒業式の前に、何か約束をしていた。また一緒に来ようという約束。この音楽室に。

 でも、来られなかった。

 静かな方の子は、卒業した後にここへ来た。でも音楽室は施錠されていた。旧校舎になって、もう使わないから、と閉めてあった。

 ここだけは閉めないでほしかった。

 来られるように。

 その感情だけが、鍵に残っていた。


 目を開けた。

「大丈夫か、おまえ」

「うん。今回は引きずられなかった」

「成長している」

「褒めた?」

「事実を言った」

 私は鍵を持ったまま、音楽室を見渡した。ピアノはまだ鳴っていた。でも音が少し変わっていた。さっきより、何か寂しい感じだった。

「合唱部の子たちが、約束をしてた。この部屋でまた一緒に来ようって」

「その約束が果たされないまま、鍵に残っている」

「どうすれば収束する?」

「約束の感情を受け取るだけでは弱い。この場合、場所そのものに感情が根付いている。少し複雑だ」

「依子さんの封縫が必要?」

「か、あるいは——」

「あるいは?」

「本人が戻ってくれば一番早い。来られなかったから感情が残っている。来られたと分かれば、根が緩む」

「卒業した子が戻ってくる、って、どうやって」

「その前に」

 ルチルの声が変わった。低くなった。

「後ろ」

 振り返った。

 音楽室のドアのところに、人が立っていた。

 榊晴澄だった。


 晴澄さんは入り口で止まっていた。

 私を見て、少し目を細めた。驚いているのか、呆れているのか、判断できなかった。

「また旧校舎に」

「先輩こそ」

「生徒会の巡回」

「巡回範囲に旧校舎が入ってるんですか」

「今日から解禁されたから」

 晴澄さんはゆっくりと中に入ってきた。ピアノの音が続いていた。晴澄さんはそれを聞いて、足を止めた。

「弾いてる人は?」

「いない」

「でも音がしてる」

「はい」

「そう」

 驚く様子がほとんどなかった。前回もそうだった。この人は異常なことに対して、怖がるより先に「そう」と言う癖がある気がした。

「怖くないんですか」

「怖い」

 晴澄さんは言った。即答だった。

「でも怖いかどうかと、留まるかどうかは別の話」

「一人で来たんですか、今日も」

「志季は別の棟の点検中」

「呼んだ方がよかった」

「心配しなくていい」

「心配します」

 晴澄さんが私を見た。少し間があった。

「……あなたはいつもそういうことを言うのね」

「言いたいことは言う方で」

「嘘をついていない感じはする」

「つかないです、あまり」

 晴澄さんはピアノに近づいた。鍵盤の上に指を近づけて、でも触れなかった。音が自然に鳴り続けていた。

「怪談で、誰もいないのにピアノが鳴るって話があるじゃない。昔から旧校舎の噂にそれがあって、ずっと気になっていた」

「気になっていた、というのは」

「ここに来たことがある気がして」

 私は少し動きを止めた。

「旧校舎に、ですか」

「音楽室に。でも記憶がはっきりしない。夢かもしれないし、実際に来たのかもしれない」

「合唱部に入っていたとか」

「入っていない。でも」

 晴澄さんの手が、ピアノの鍵盤の縁に触れた。触れた瞬間に、ピアノの音が一瞬だけ大きくなった。

 そして晴澄さんの表情が変わった。

 整えていた顔が、わずかに揺れた。目が少し、遠くなった。どこか別のところを見ているような目だった。

「先輩」

「……なんでもない」

「頭痛ですか」

「なんで分かるの」

「顔に出てます」

 晴澄さんは手をピアノから離した。表情が元に戻った。完璧な顔に、また整えられた。

「たまにある。旧校舎に来るとなることが多い」

「以前からですか」

「中学くらいから。ここに来るとひどくなる気がして、最近は避けていたんだけれど」

「それでも来た」

「解禁されたから」

「それだけですか」

 晴澄さんが私を見た。

「……確かめたかったのかもしれない」

「何を」

「頭痛がするのが気のせいかどうか。それとも」

「それとも?」

「何かを思い出せるかどうか」

 私は鍵を持ったまま、晴澄さんを見た。感応が、また揺れていた。晴澄さんの近くに来るたびに起きるあれ。ルチルが言っていた、失くされた何かと深く結びついている場合のやつ。

「先輩」

「なに」

「この音楽室に、合唱部の子たちが約束を残してた。また来ようって」

「……そう」

「片方は来られなくて、鍵に感情が残ってた。ここだけは閉めないでほしいって」

「それで鍵が怪異化している、ということ?」

「はい。来られなかった側の、後悔みたいなものが」

 晴澄さんはしばらく黙った。ピアノの音が続いていた。

「来られなかった理由は分かった?」

「旧校舎になって、施錠されたから。来ようとしたけど、入れなかった」

「それで終わった約束」

「はい」

 晴澄さんは目を伏せた。

「そういう終わり方をするものが、嫌い」

「約束がですか」

「終わり方が、向こうの事情で決まってしまうことが。こちらは来るつもりだったのに、来られなくなったことが」

 個人的な話をしているときの声だ、と思った。

「先輩にも、そういうことがありましたか」

 晴澄さんが顔を上げた。

「踏み込みすぎ」

「すみません」

「謝らなくていいと言っているのに、謝る」

「じゃあ謝りません」

「……それはそれで違う」

 少しだけ、晴澄さんの顔が緩んだ。笑うというよりは、整えていたものが少し解けた、という感じだった。

「あなたと話していると、ペースが狂う」

「すみ——いえ」

「いい意味で、とは言っていないけれど」

 でも悪い意味でもない、という顔に見えた。私には。


 鍵の収束についてはルチルと相談した結果、依子さんに後日封縫してもらうことになった。合唱部の卒業生を探して連絡を取るのは時間がかかるし、本人が来られない可能性もある。感情の根が古いから、封縫で時間をかけて薄めるのが現実的だということだった。

 晴澄さんには、依子さんが後日対処すると伝えた。詳しい説明はしなかったけれど、晴澄さんは「分かった」と言った。

 帰り際、音楽室を出るときだった。

「消えた」

 ルチルが低い声で言った。

「え?」

「黒板を見ろ」

 私は振り返った。

 黒板の右端に、白墨で書いたような文字があった。

 名前だった。

 誰かの名前が、そこに書いてあった。

 でも私が「先輩、あれ——」と言いかけた瞬間に、文字が薄れていった。ゆっくりと、まるで誰かが消しているように、右から左へ。全部消えた。

 あれは収まったんじゃない、と直感した。

 もっと奥へ引っ込んだだけだ。この学校のどこかに、まだ名前を呼ばれたがっているものがいる。

 晴澄さんが黒板を見た。

 私は晴澄さんの顔を見た。

 晴澄さんは何も言わなかった。でもその顔が、さっきとは違う崩れ方をしていた。整えようとする前の、素のところで、何か揺れていた。

 頭痛、だけじゃない気がした。

 何か、思い出しかけているような顔だった。

「先輩」

「……平気」

「頭痛が」

「少し。大丈夫」

「無理しないでください」

「してない」

 でも廊下に出るとき、壁に少し手をついていた。私は何も言わなかった。言うと意地を張るだろうと分かっていたから。

 代わりに、少しだけ歩く速さを落として、隣を歩いた。

 晴澄さんは気づいているのかいないのか、何も言わなかった。

 ただ、歩く速さを合わせてくれていた気がした。


 旧校舎を出て、本館の方に戻る途中で、ルチルが耳元に来た。

「あの名前、見えたか」

「消えるのが速くて、全部は」

「何文字か読めたか」

「二文字か三文字。でもはっきりは」

「そうか」

「ルチル、あの名前、知ってる?」

 ルチルは答えなかった。

「知ってるよね」

「……黙れ」

「やっぱり知ってる」

「黙れと言っている」

 ルチルの声は、怒っているようでもあり、別の何かを含んでいるようでもあった。私はそれ以上聞かなかった。

 晴澄さんが、前を歩いていた。少し速度が戻っていた。頭痛が引いてきたのかもしれない。

 振り返りもせず、真っ直ぐ歩いていた。でも本館の入り口に入る前に、一度だけ立ち止まって、振り返った。

 私と目が合った。

 何かを言いかけた顔だった。言葉を探しているような。

 でも結局、何も言わずに中に入っていった。

「……先輩らしいな」

「何がだ」

「言いかけてやめるとこ」

「おまえも人のことは言えない」

 ルチルにそう言われ、私は少し黙った。

「そうだね」

「さっさと帰るぞ」

「うん」

 私は本館の入り口を見た。もう晴澄さんの姿はなかった。

 黒板に一瞬だけ現れて消えた名前のことを、ずっと考えていた。

 あれは何の名前だったのか。

 誰かの名前が、この学校から消されようとしている。

 その感覚だけが、夜になっても消えなかった。


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