第五章 渡されなかった手紙
文学部の部室は、本館の四階にある。
普段ほとんど人が来ない場所で、放課後になると廊下がしんと静まり返る。図書室の隣で、本の匂いが廊下まで漏れてくる。私はそこをたまに通ることがあって、その匂いは嫌いじゃなかった。
でも木曜日の放課後に木乃葉から「文学部の棚で変なものが見つかったって」と聞いて、その匂いが少し変わって感じた。
「変なものって?」
「手紙が大量に出てきたらしくて。棚の裏側から」
「誰かが隠してたの?」
「そうみたい。でも差出人の名前がないし、宛先もないやつが大部分で。文学部の子たちが読んだら、なんか夜になると誰かに会いに行きたくなるって」
「夜に?」
「うん。放課後の遅い時間に、校舎の中をうろうろしてる生徒が最近増えてて。それ全員、その手紙を読んだ子たちだって」
私は鞄の中でルチルが動いた気がした。鞄の中にいるのか外にいるのか、ルチルは気分で変えるのでよく分からないのだけれど、今日は中にいたらしい。
「高槻」
ルチルに小声で名前を呼ばれた。
「分かってる」
「何? ましろ」
「なんでもない、ひとりごと」
放課後、文学部の部室に行った。
ルチルは鞄の中に入ったまま来た。部室のドアを開けると、中に三人の部員がいた。本棚を整理していた二人と、机に座って何かを読んでいた一人。
「あの、すみません。文学部の部室ですよね」
「そうだけど」
読んでいた子が顔を上げた。二年生くらいに見えた。
「最近、棚の裏から手紙が出てきたと聞いて。少し見せてもらえませんか」
「なんで?」
「気になって」
「あなた、文学部じゃないよね」
「高槻ましろといいます。二組の」
「……手紙ねえ」
本棚を整理していた一人が振り返った。少し困ったような顔をしていた。
「持ち主が分からなくて困ってたところではあるんだけど。読んだら変な気持ちになるし、でも捨てるのも気が引けて」
「変な気持ち、というのは」
「なんか、誰かに会いに行きたくなる。特定の誰かじゃなくて、自分でも分からない誰かに」
「昨夜も、気づいたら廊下に出てた。どこかに向かおうとしてたみたいで、でもどこかは分からなくて」
別の子が言った。
「手紙を見せてもらえますか」
私がお願いすると、しばらく迷ったあと、棚の整理をしていた子が引き出しから束を出してきた。
かなりの量だった。便箋や大学ノートのページを切り取ったもの、チラシの裏に書いたもの、それぞれ別々の筆跡で、別々の人間が書いたのは一目で分かった。でも全部共通しているのは、宛先がないこと。「あなたへ」と書いてあるものもあるけれど、名前がない。
「触っていいですか」
「どうぞ」
一番上の一通を手に取った。
薄かった。
一枚目は、感情の濃度が低かった。書いた人は遠くにいて、感情も時間とともに薄れている。誰かへの小さな感謝、という感じだった。
二枚目も薄かった。
三枚目を手に取ったとき、少し変わった。
四枚目で、はっきり分かった。
これだ、と思った。
便箋が二枚。丁寧な字で、でも途中から少し乱れていた。最後まで書こうとして、最後まで書けなかった、という感じが字にあった。
流れ込んできた感情は、最初からずっと一色だった。
好きでした。
それだけだった。それだけなのに、どれだけ濃いのかと思うくらい、その感情が満ちていた。
女の子の感情だった。相手のことを、ずっと考えていた。一緒に帰ったこと、笑った顔、図書室で隣に座ったこと、小さな記憶が積み重なって、それが全部この四枚目の便箋に溶けていた。
そして相手もまた、女の子だった。
好きだった。言えなかった。
卒業式の日に渡そうと思っていたけれど、できなかった。人が多くて、それだけじゃなくて、怖かった。変に思われたら、嫌われたら、今まで積み重ねてきたものが全部壊れてしまう気がして。
結局、手紙は渡されなかった。
相手は卒業して、どこかへ行った。
手紙だけが、ここに残った。
目を開けた。
「大丈夫?」
部員の子が話しかけてくれた。
「はい。少し、集中してしまって」
「顔色悪い」
「大丈夫です」
手紙を持ったまま、少し考えた。依子さんに連絡すべきか。でも今夜また校舎をうろうろする生徒が出る前に、何とかした方がいい気がした。
「この手紙の束、もう少し預かってもいいですか。一日だけ」
「え、なんで?」
「持ち主を探したい」
「持ち主ってどういう意味、差出人がいないんだけど」
「それでも」
部員たちが顔を見合わせた。それから「まあ、いいけど」と言ってくれた。
私は手紙の束を鞄に入れた。鞄の中でルチルが動いた気がした。
廊下に出てドアを閉めてから、ルチルが鞄から出てきた。肩の上に乗って、小さな声で言った。
「四枚目のやつ」
「うん」
「あれが核だ。その手紙に残った感情が、周囲に干渉して夜の徘徊を引き起こしている。"誰かに会いに行きたい"という感情が、読んだ者に伝播する」
「受け取れば収束する?」
「単純ではない。この場合、感情の源がまだここにある。書いた人間が」
「え、卒業したんじゃ」
「書いた時点の感情がそこまで強く残っていれば、本人は卒業していてもまだ何かに縛られている可能性がある。あるいは」
「あるいは?」
「本人がまだここにいる」
私は立ち止まった。
「まだ、久瀬ヶ丘高校の生徒?」
「可能性はある。書いたのが最近だった場合」
「どうやって分かる」
「おまえが感応を使うしかない。ただし、丁寧にやれ。あの手紙の感情は濃い。飛ばされるな」
「飛ばされる、って」
「感情の中に引きずり込まれるということだ。今日のおまえにはまだ早いかもしれない」
「でも夜になると徘徊が起きる。それは止めないといけないよね」
ルチルが黙った。
「……正論だ」
「じゃあやる」
「できるかどうか確認してからにしろ」
「できるかどうかはやってみないと分からない」
「そういう判断が一番危ない」
「ルチルが止めてくれるんじゃないの?」
「止めるために言っている」
「大丈夫」
「根拠は?」
「なんとなく」
ルチルが尻尾を強く揺らした。怒っている時の動き方だということは、もう分かっていた。
「……なんとなくで動くな、と毎回言っているのに、毎回なんとなくで動く」
「直感は大事だよ」
「直感と無謀は別物だ」
「わかった、じゃあ気をつけながらやる。それでいい?」
ルチルはしばらく黙って、「気をつけながら、という意味を理解しているなら」と言った。
「理解してる」
「本当に引きずられそうになったら、あたしが呼ぶ。そのときは手を離せ」
「分かった」
「約束しろ」
「約束する」
「おまえの約束は信用できないが、一応聞いておく」
「信用できないって何」
「放っておけない性格のやつの約束は、感情が勝った瞬間に破れる。おまえはそういうやつだ」
否定できなかった。
空き教室を借りた。
四枚目の便箋を両手で持って、目を閉じた。
ルチルが隣にいた。音はしないけれど、気配がある。
受け取る、と思った。全部じゃなくていい。でも、ここにある感情を、ちゃんと見る。
好きだった感情が、また流れ込んできた。
今度はもう少し深く入った。感情の輪郭だけじゃなく、記憶の断片が見えてきた。
図書室。本を返しに行く日、いつも少し早めに来るのは相手に会えるかもしれないから。声をかける口実を探すのが習慣になっていた。声をかけると笑ってくれた。その笑顔のために一週間過ごしていた。
文化祭。出し物の準備で遅くなって、二人だけになったとき、何か言えるかと思った。でも言えなかった。「お疲れ様」だけ言って帰った。帰り道でずっと後悔した。
卒業式。式が終わって、校庭で写真を撮っているあの子を遠くから見ていた。手紙を持っていた。渡そうと思っていた。でも人が多くて、人が多くて、それだけじゃなくて、怖くて。
気づいたら相手はもうどこかへ行っていた。
手紙だけが手の中に残った。
後悔が、じわりと重かった。
言えなかった言葉の重さというのは、時間が経っても軽くならないのだということが、この感情を通じて分かった。言えなかった側がずっとそれを持ち続ける。相手は知らない。知らないまま、どこかで別の毎日を送っている。
ここだけに、言葉にならなかったものが残っていた。
受け取った、と思った。
あなたがそこにいたこと。あの人を好きだったこと。言えなかったこと。渡せなかったこと。ちゃんとここにあった。見つけた。
手紙が、少し軽くなった気がした。
目を開けたとき、教室の外が暗くなり始めていた。
「戻ってこられたか」
「うん」
「引きずられそうになっていた」
「一回だけ、少し」
「気づいていたか」
「気づいてたから戻れた」
ルチルが「そうか」と言った。短く。でもその短さに、少し安堵が混じっているような気がした。
「手紙の持ち主は、まだここにいると思う」
「根拠は?」
「感情が新しかった。古い後悔じゃなくて、今もまだ引きずってる感じ」
「……なるほど」
「相手の女の子のことを、今もまだ思ってる。だから感情が薄れていない」
ルチルは尻尾を揺らした。
「どうする」
「本人を探す。ただ、名前が分からない」
「手紙から何か手がかりはあったか」
「図書室。よく行ってた。あと文化祭の出し物で、二人だけになったって断片があった」
「文学部か」
「かもしれない。あるいは図書委員」
「絞り込め」
「今日中に?」
「夜になると徘徊が起きると言っただろう」
「じゃあ急がないと」
図書室に行くと、まだ開いていた。
図書委員が返却作業をしていた。カウンターに三人いて、そのうちの一人が、私を見た瞬間だけ手を止めた。
気づいた、と思った。
感応じゃない。ただの直感だった。その子の手が、一瞬だけ止まったこと。私が手紙の束を鞄に入れているのを、どこかで知っていたかのような、そういう止まり方だった。
「少し話せますか」
近づいて言った。その子は少し目を伏せた。
「……何の話」
「手紙のこと」
長い沈黙があった。カウンターの後ろで、他の委員が本の整理を続けていた。
「外で話しますか」
私は言った。
図書室の外の廊下に出た。
その子は三年生だった。名前を聞いたら、小声で答えてくれた。
「書いたのは、去年のことだから」
「はい」
「卒業式に渡せなくて、そのまま文学部の棚に置いてきた。正確には、置いてきてしまった、って感じで、捨てるつもりで置いて忘れてきた」
「でも捨てられなかった」
「……うん」
廊下の窓から夕暮れが見えた。もう少しで日が落ちる。
「その人、今どこにいますか」
「別の高校。ここの高校じゃなくて、最初から別の学校で。でも図書館が同じだったから、一年くらい会ってた。毎週」
「今は?」
「今は会っていない。なんとなく、もう会えない気がして」
「なんで」
「言えなかったから。言えないまま会い続けても、どんどん苦しくなるだけだって思って。だから自分から離れた。でも気持ちは離れなくて」
私はしばらく黙った。
「伝えたい、と思いますか。今も」
「……分からない。怖い」
「怖いのはどっちが怖いですか。伝えて何かが変わることが怖いのか、伝えないまま何も変わらないことが怖いのか」
彼女が顔を上げた。
「なんでそういうことを聞くの」
「知りたかったから」
「……意地悪な聞き方」
「すみません」
「でも」
彼女は窓の外を見た。
「伝えないまま、の方が怖いかもしれない。最近」
「そう思うなら」
「でも怖い」
「同時に怖くても、いいと思います」
私はそこで少し迷って、言った。
「言葉にしなかった気持ちは、消えない。それは今日分かった。消えないなら、持ち続けるか、出すか、どちらかしかない。どちらが自分に向いてるか、本人にしか分からない」
彼女はしばらく黙っていた。
「手紙、返してもらえる?」
「はい」
鞄から四枚目の便箋だけ取り出して渡した。
「送ってみるかもしれない。まだ連絡先は持ってるから」
「それでいいと思います」
「うまくいかなくても?」
「それでも、出した手紙は届く。返事がなくても、届いた事実は残る」
「……なんか変な子だね」
「よく言われます」
彼女はわずかに笑った。泣きそうな顔で笑う、というのはこういう顔のことだと思った。
翌朝、依子さんに連絡したら「昨夜の徘徊は起きなかったよ」と返事が来た。「よくやった。手紙の残りは預かりに行くね」とも書いてあった。
ルチルは登校中の私の肩の上で、尻尾をゆっくり揺らしていた。
「昨日の案件の話だが」
「うん」
「おまえは今回、何を受け取った」
「言えなかった気持ちの重さ」
「それだけか」
「……刺さった。また」
「自分自身に、か」
「うん」
「どういう点が」
私は少し考えた。通学路に朝日が差していた。木の影が長く伸びていた。
「言葉にしないことを、なんとなく選んでることがある。傷つくのが怖いとか、変に思われるのが怖いとか。手紙の子と違う部分もあるけど、似てる部分もある気がして」
「何を言葉にしていない」
「いろいろ」
「具体的に言え」
「それは……言いたくない」
ルチルが黙った。しばらくして、「そうか」と言った。
「責めていない。ただ確認した」
「うん」
「感応持ちは他人の言えなかった感情を受け取りやすい。それが自分の言えない感情と混線しやすい。今のおまえには特に気をつけてほしい」
「どうして今のうちに、って言うの?」
ルチルはしばらく間を置いた。
「今後、もっと濃いものに触れることになる。そのとき、自分の感情と他人の感情の境界が曖昧だと危ない」
「もっと濃いもの」
「今の学校の案件は、まだ入り口だ」
私は前を向いて歩いた。学校の屋根が見えてきた。
「ルチル」
「なんだ」
「今後、って言うけど。ルチルは最初から、ある程度知ってるんじゃないの。この学校で何が起きてるか」
ルチルが一瞬だけ、動きを止めた気がした。
「どうして」
「なんとなく」
「……なんとなく、ばかりだな、おまえは」
「当たってる?」
「学校に着く。話は終わりだ」
ごまかされた、と思った。でも今日は追いかけなかった。
校門を入ったとき、渡り廊下の向こうに晴澄さんの姿が見えた。朝の点検をしているのか、生徒会の腕章をつけて、廊下を歩いていた。
こちらには気づいていなかった。
でも私はなんとなく、足が止まった。
昨夜、言葉にしなかった感情の話をしながら、頭の片隅に浮かんでいたことがあった。
晴澄さんに対して、自分が何かを言葉にしていないような、そういう感覚。
怪異の話でも、感応の話でもない。もっと別の、単純な何か。
「行くぞ」
ルチルが耳元で言った。
「うん」
私は歩き出した。
晴澄さんは、渡り廊下の途中で立ち止まって、窓の外を少し見た。何かを考えているような顔だった。
その顔を見て、また言えない何かが胸のあたりに溜まった。
言えなかった気持ちは、消えない。
昨日自分で言ったことが、今朝自分に向かって返ってきた。
私は目を逸らして、教室への廊下を歩いた。それが正しいのかどうかは、まだ分からなかった。
振り返らなかったのに、晴澄さんがそこで立ち止まっていたことだけは分かった。
あの人もまた、誰にも言えないまま持ち続けている気持ちがあるのだと、妙にはっきり思えた。
ただ一つだけ分かった。最近この学校で起きる“失くしもの”は、ばらばらに見えて、どこか同じ場所を向いている。




