第四章 生徒会長は落としものをしない
木曜日の午後、旧校舎が立入禁止になった。
理由は「老朽化による安全確認のため」と放送が入ったけれど、木乃葉は昼休みに「違うと思う」と言った。
「昨日の放課後、旧校舎の近くで気分が悪くなった子が三人いたらしくて。全員、気づいたら旧校舎の前に立ってたって」
「気づいたら?」
「移動した記憶がないって言ってたみたい。廊下を歩いてたら、次の瞬間外にいたとか」
木乃葉の話を聞いて、私は黙った。
「怖くない? なんか、旧校舎って昔から噂があるじゃない。ピアノの音がするとか」
「ピアノ?」
「誰もいないのに音楽室からって。まあ、風の音だろうっていう話なんだけど」
その日の放課後、私はルチルに呼び止められた。正確には鞄の上にいつの間にか乗っていて、「今夜、旧校舎に行く」と言われた。
「立入禁止だけど」
「そんなことは関係ない」
「立入禁止は関係ある」
「保管局の案件だ。通常の制限は無視していい」
「それは依子さんが言ったの?」
「あたしが判断した」
「依子さんに確認してから行く」
ルチルが尻尾をぱっと立てた。
「おまえは本当に杓子定規だな」
「ルールはルール」
「くだらない」
「大事なことだよ」
結果的に依子さんに連絡したら「ああ、その件ね。私も行くつもりだった。六時に旧校舎の裏で合流しよう」という返事が来たので、ルチルは何も言わなかった。
六時の旧校舎は、夕暮れを過ぎて薄暗かった。
正面は鎖で閉じられているので、裏手の非常口に回った。依子さんはもう来ていて、棒付きキャンディをくわえながら外壁にもたれていた。今日はぶどうあじだった。
「お疲れ様。制服のままで来るんだね」
「着替える時間がなくて」
「まあいいか。中に入る前に確認だけど、今日は深追いしないこと。まず状況を把握するだけ」
「はい」
「ましろちゃんは感応を使う必要が出たときだけ使う。それ以外はなるべく触らない」
「分かりました」
ルチルが私の肩から依子さんの方を見た。
「遺失物の位置は旧校舎三階と推測される。正確には絞れていない」
「感知できる?」
「近づけば分かる」
「じゃあ行こうか」
非常口の鍵は、依子さんが持っていた。保管局から支給されたものらしい。さらりと開けて、中に入った。
旧校舎の中は、現役の校舎と雰囲気が違った。廊下に埃が積もっていて、電気は非常灯だけが薄く灯っている。窓ガラスが汚れていて、外の光がほとんど入らない。足音が響いた。
「寒い」
「気温じゃなくて感応が反応してる。怪異の近くは少し寒く感じることがある。ましろちゃんの場合は特に」
「どのくらい近い? ルチル、どう?」
「三階。教室ではなく、廊下の端の方だ」
階段を上った。二階を通り過ぎる時、廊下の突き当たりに音楽室のプレートが見えた。ここか、と思った。木乃葉が言っていたピアノの音。今は静かだった。
三階に出たとき、ルチルが「止まれ」と言った。
廊下の端、一番奥のロッカーの前に、何かが落ちていた。
近づいて見ると、片方だけの上靴だった。白いバレーシューズ。学校指定のやつ。
「これが怪異の核?」
依子さんが尋ねた。
「ちがう。これはただの落とし物だ。ただし、核に近い。周囲に感情が滲んでいる」
ルチルが説明した。
「核は?」
「もっと奥だ。ただ」
私が尋ねると、ルチルが廊下の先を見た。
「人がいる」
私も見た。廊下の突き当たり、窓の近くに、人影があった。
近づくにつれて、輪郭が分かった。
生徒だった。制服を着ている。背が高くて、髪をきっちりまとめている。
「……榊先輩?」
声をかけると、人影が振り返った。
榊晴澄が、旧校舎の三階にいた。
表情は平静だった。驚いた様子もなく、ただこちらを見ていた。腕に書類は持っていない。手ぶらだった。
「あなたたち、ここに何の用?」
「立入禁止では」
私は言った。
「生徒会は安全確認の権限がある」
「そうなんですか」
「そう。あなたこそ何?」
依子さんが一歩前に出た。
「こんにちは、榊さん。私、久瀬支部の冬月というものです。一応、この生徒のサポートをしていて」
「サポート?」
「まあ、課外活動みたいなものです」
依子さんはにこっとした。
「詳しく言えなくて申し訳ないけど、旧校舎で起きていることの調査をしていて」
「老朽化じゃないんですね」
「老朽化も含みますが、それだけでもない、という感じです」
晴澄さんはしばらく依子さんを見た。それから私を見て、ルチルを見た。
「その動物は?」
「霊獣だ」
ルチルが主張する。
晴澄さんは一秒だけ目を見張った。それからすぐ元に戻った。
「しゃべった」
「しゃべる」
「そう」
動揺しているのかしていないのかが分からない顔だった。でも依子さんが「驚きましたか?」と聞いたら、「少し」と正直に答えた。それだけで少し、距離が近くなった気がした。
ルチルが私の耳元で小声で言った。
「感応が揺れている。この人間の近くだ」
「怪異の核が?」
「違う。おまえの感応が揺れている。この人の近くで、少し前から」
「……それは」
「訓練が足りない、と言おうとしたが、この場合は違うかもしれない」
「どういうこと?」
返事がなかった。ルチルが急に黙った。
「ルチル?」
「なんでもない。気にするな」
気にするな、と言われると気になる。でも今は確認する時間がなかった。
「三階で何かを感じましたか?」
依子さんが晴澄さんに聞いていた。
「寒い、とは思いました。ここは別の校舎より明らかに気温が低い」
「他には?」
晴澄さんは少し考えた。
「昨日、放課後にここを通りかかった後輩の様子がおかしかった。放課後に旧校舎の前に来ていた生徒たちのことを確認しに来た」
「一人で?」
「他の生徒会役員を巻き込みたくなかった。もし何もなければ気のせいで終わらせられる」
「責任感が強いんですね」
「そういうわけではないけれど」
晴澄さんは窓の外を少し見た。校庭が見えるはずだけれど、もうほとんど暗かった。
「放っておけなかった、というだけです」
私と同じ言葉だった。
思わず見てしまった。晴澄さんはこちらを見ていなかった。窓の外を向いたまま、表情が少しだけ変わっていた。整えている顔のはずなのに、窓の外を見るときだけ、なんか違う気がした。
「榊さん、この旧校舎で起きている怪異は、まだ規模は小さいですが、放置すると悪化する可能性があります。今日のところは一緒に状況を確認してもいいですか? 生徒会の権限で正式に入っているなら、一人で残るより安全だと思いますし」
依子さんは言う。
晴澄さんが依子さんを見た。少し測るような目をした。でも「分かりました」と言った。
四人で廊下を歩いた。
正確には三人と一匹だけれど、ルチルは気配を薄くしていたので、実質三人に見えたと思う。依子さんが先頭で、晴澄さんがその横、私が少し後ろ。
各教室を確認しながら進んだ。どの教室も薄暗く、机と椅子が残されていた。黒板に字の跡があった。消したのに残った跡。
廊下の中ほどまで来たとき、晴澄さんが少し速度を落とした。私がそれに気づいたのは、隣を歩いていたからではなく、急に感応がざわついたからだった。
「先輩、大丈夫ですか」
「大丈夫」
「顔色が」
「大丈夫と言っている」
でも壁に手をついていた。気づかせたくなかったのかもしれないけれど、私には見えていた。
「ここ。この辺りに核がある」
ルチルが耳元で言った。
「どのくらいの強さ?」
「初期の上限に近い。封縫が必要になるかもしれない」
依子さんの方を見た。目が合って、依子さんが小さく頷いた。分かっている、という目だった。
廊下の突き当たりに、古いロッカーが並んでいた。一番端のロッカーだけ、扉が少し開いていた。中は暗くて、最初は何も見えなかった。でも近づくにつれて、奥に何かが置いてあることが分かった。
小さな手鏡だった。
柄が欠けていて、ガラスに細かい傷がある。でもまだ映る。私が覗き込んだら、自分の顔が見えた。
「触れる?」
依子さんが小声で言った。
「やってみます」
手鏡を手に取った。
強かった。
さっきのイヤリングとは段違いに、感情が濃かった。誰かが毎日この鏡を使っていた。毎朝、毎晩。自分の顔を確認して、それで自分に何かを言い聞かせていた。
ちゃんとしなければ。
乱れていてはいけない。
見せてはいけない。
それは虚栄心ではなかった。誰かを守るための、ずっと続けてきた習慣だった。乱れた自分を見せてしまったら、誰かが心配する。心配させてしまったら、迷惑だ。だから整えていた。笑顔の作り方を、ちゃんと鏡で確認していた。
でもある日から、整えることができなくなった。
何かを失くしたからだ。
何を失くしたか、鏡の感情の中にはっきりとは残っていなかった。大事な何か、としか分からなかった。でもその輪郭が、酷く晴澄さんに似ていた。
目を開けた。
「大丈夫?」
依子さんが尋ねた。
「はい」
「無理しないで」
「大丈夫です。ただ」
私は晴澄さんの方を見た。晴澄さんは手鏡を見ていなかった。見ていないというより、意図的に見ないようにしている気がした。ロッカーの方に背を向けて、廊下の奥を向いていた。
「先輩」
「なに」
「この鏡、誰かが毎日使っていた。ここで、ずっと」
「……そう」
「顔を整えていた。誰かのために、乱れを見せないように」
「関係ない話ね」
「先輩に似てるな、と思って」
晴澄さんが振り返った。
表情が一瞬だけ崩れた。何の感情か分からなかったけれど、整えきれなかったものが、目の端に出た気がした。でもすぐ戻った。
「関係ない」
「はい、すみません」
「……あなたは」
晴澄さんの声がわずかに低かった。
「なんでそういうことを、当然みたいに言うの」
「当然だとは思っていないけど」
「踏み込みすぎよ」
「すみません」
「謝らなくていい」
矛盾したことを言っているのは本人も分かっているのだろう、晴澄さんは目を伏せた。廊下の床を見た。
依子さんが手鏡を受け取って、封縫の準備を始めた。白い糸みたいなものが手の間に現れた。それを手鏡に巻き付けるように動かすと、廊下の寒さが少し和らいだ。
「収まった。あとは保管局に持ち帰る」
ルチルは伝える。
「お疲れ様。今日のところはこれで終わり。榊さんも、ありがとうございました」
依子さんは礼を言った。
「別に何もしていないけれど」
「一緒にいてくれるだけで助かります」
晴澄さんは特に返事をしなかった。帰り支度をして、先に階段の方へ歩いた。
私は鞄を持ち直して、そのあとを追いかけた。
旧校舎の外に出たとき、もう完全に夜だった。
空気が冷えていた。十月の初めはまだ暖かいと思っていたのに、この二週間でずいぶん変わった。
依子さんは手鏡を慎重に袋に入れながら、「先に戻るね」と言って先に行った。ルチルも気配を消した。
私と晴澄さんが、旧校舎の裏手に二人残った。
「送っていこうか」
「私は寮じゃないので大丈夫です」
「知ってる。でも遅い時間だから」
「先輩こそ」
「私は平気」
そう言って、でも帰らなかった。校舎の壁にもたれて、少しだけ空を見た。私もそうした。
「落としものは嫌い、と言ったでしょう」
唐突に晴澄さんが言った。
「先日も聞きました」
「あれは本当のこと。失くした時点で戻らないって、本当にそう思ってる」
「はい」
「でも」
少し間があった。
「今日の鏡の話を聞いて、少し違うかもしれないと思った」
「何が?」
「戻らなくても、受け取ってもらえたことは届く、とあなたは言った。先日」
「言いました」
「……鏡の感情を、あなたはちゃんと受け取っていた」
「はい」
「誰にも見つけてもらえないよりは、受け取ってもらえた方がいい」
確認するように言っていた。私に問いかけているんじゃなくて、自分に言い聞かせているような言い方だった。
「そう思います。なかったことにはならない方が、いいと思います」
晴澄さんはしばらく黙った。
「あの鏡の持ち主は」
「はい」
「何かを失くしていた。大事な何かを」
「そう見えました」
「なんだったの」
「はっきりとは分からなかった。でも大切な誰か、とは思いました」
晴澄さんの手が、制服のスカートのあたりで、少しだけ動いた。握ろうとして、止めたような動き。
「そう」
「先輩」
「なに」
「あの鏡に残っていた感情、先輩に似てると言ったことは、撤回しません」
晴澄さんがこちらを見た。今度は表情が崩れなかった。整えたまま、ただ目だけが少し違った。
「踏み込みすぎと言ったはずだけど」
「言われました。でも放っておけなかった」
「なぜ」
「分からない」
正直に言った。嘘をつく必要がなかった。
「あなたは、いつもそんなふうに踏み込むの」
「たいてい」
「危なっかしい」
「よく言われます」
晴澄さんは少し、息を吐いた。呆れているのか、笑いかけているのか、どちらにも見えた。
「一つだけ聞いていい?」
「どうぞ」
「落としものをして、拾ってもらったことがある?」
「あります」
「どう思った」
私は少し考えた。
「嬉しかったです。でも、拾ってもらえなくても、落とした側の気持ちはそこにあった。拾ってもらえると、それを見てもらえた、みたいな感じがして」
「見てもらえた」
「うまく言えないけど」
晴澄さんはまた黙った。
長い沈黙だった。
私は何も言わなかった。
「高槻ましろ、だったわね」
「はい」
「覚えておくわ」
そう言って、歩き出した。
私はしばらく、その後ろ姿を見ていた。ルチルが気配を戻して、また肩のあたりに現れた。
「見ていると気づかれる」
「もう行ったから大丈夫」
「……そうか」
ルチルが珍しく、すぐにうるさいと言わなかった。尻尾だけが暗い中でゆっくり揺れていた。
「ルチル」
「なんだ」
「さっき、感応が揺れてるって言ってたよね。晴澄さんの近くで」
「言った」
「あれ、どういうこと?」
ルチルはしばらく黙った。
「落としものが近くにある感覚に、似ている」
「でも、晴澄さんは何も落としてないよね、今日は」
「そうだな」
「じゃあ」
「本人が落としていなくても、遺失物が近くにある場合がある。本人自身が、失くされた何かと深く結びついている場合に」
「どういうこと?」
ルチルは答えなかった。
「ルチル」
「今日は疲れた。帰れ」
「ごまかしてる」
「帰れ、と言っている」
帰った。でも歩きながらずっと、ルチルの言葉が頭の中に残っていた。
本人自身が、失くされた何かと深く結びついている場合。
晴澄さんは何かを失くしている。もしかしたら、自分では気づいていない何かを。
そしてその何かが、久瀬ヶ丘高校の旧校舎に集まる怪異たちと、どこかで繋がっている。
放っておけない、という気持ちが、今夜は少しだけ違う温度を持っていた。
何が違うのかは、まだうまく言えなかった。ただ、晴澄さんのことを考えると、胸のあたりが少し騒いで、それが怪異の気配とは全然違うものだということだけは、分かった。




