第三章 片方だけのイヤリング
月曜日の朝のホームルームが終わって少しした頃、同じクラスの女子が保健室に行った。
それだけなら気にならなかった。でも木乃葉が昼休みに「ねえ、聞いた? 三組の子、鏡が見られなくなったって」と言ってきたので、私は箸を止めた。
「鏡が?」
「なんか、鏡の中にもう一人いるみたいな気がするって。最初は気のせいだと思ってたらしいんだけど、だんだんはっきり見えてきて」
「それって」
「怖くない?」
怖い話として話しているのか、心配しているのか、木乃葉は混じり合った顔をしていた。
「保健室の先生は気のせいだって言ったらしいんだけど、本人は真剣に怯えてて」
私は弁当の蓋を閉めた。
「その子、名前は?」
「え? 確か、北沢さん。三年生の。なんで?」
「ちょっと気になって」
木乃葉は私の顔を見て、少しだけ首を傾げた。でも「そっか」と言って、それ以上聞かなかった。
昼休みの残り時間を使って保健室まで行くと、ベッドのカーテンが一枚閉まっていた。養護教諭の田中先生に話しかけようとしたら、先に耳元でルチルの声がした。
「北側の窓際に座っている。カーテンの外だ」
振り返ると、窓際の椅子に制服姿の女子生徒が一人いた。膝に手を置いて、下を向いている。三年生と聞いていたから、榊先輩と同い年くらいだろうか。地味だけれど整った顔立ちで、今は青ざめていた。
「あの、北沢さん、ですか」
声をかけると、顔を上げた。警戒した目だった。
「そうだけど……あなた、二年?」
「はい。高槻といいます。少し話を聞かせてもらえますか、鏡のこと」
「なんで知ってるの」
「噂で聞いて」
北沢さんは少し黙って、それから「気のせいって言わない?」と言った。
「言いません」
「先生はそう言った」
「先生には見えないものが見える人もいると思います」
北沢さんはもう一度私を見た。何かを測るような目だった。それから、ゆっくり話し始めた。
事の発端は、金曜日の帰り際だったという。
下駄箱でイヤリングを拾った。片方だけのイヤリング、小さな青いガラスのやつ。誰かが落としたんだろうと思って、拾って、とりあえずポケットに入れた。
落とし忘れでもして帰ったら、夜に洗面台で歯を磨いていて、鏡を見たときに気づいた。
鏡の中の自分が、少しだけ遅れて動いていた。
最初はそれだけだった。でも土曜日になると、鏡の中の自分の顔が、なんか違う気がしてきた。髪型が少し違う。表情が違う。目が細くて、なんというか、自分じゃない誰かが自分の顔で映っている感じ。
日曜日には、もうまともに鏡を見られなくなった。
「ポケットにイヤリングが入ったままだったんですよね」
「そう。今朝になってようやく気づいて、捨てようとしたんだけど」
北沢さんは上着のポケットを示した。
「なんか捨てられなくて。手放したら、何か悪いことが起きる気がして」
「捨てなくてよかったです」
「え?」
「そのイヤリング、見てもいいですか」
北沢さんは少し迷って、ポケットから取り出した。片方だけの、青いガラスのイヤリング。小さくて、安いものに見えたけれど、光の角度によってきれいに透けた。
「触っていいですか」
「いいけど……」
「ありがとうございます」
私は受け取って、指先でそっと持った。
流れ込んできた。
女の子だった。鮮明ではないけれど、輪郭が分かった。
鏡の前に立っている。このイヤリングをつけて、自分の顔を見ている。笑顔を作ってみる。ちゃんと笑えているか確認するように。
でも感情の底にあるのは、笑顔への不安ではなかった。
もっと深いところに、くっきりとした感情があった。
――あの子みたいになりたかった。
嫉妬、というのでもない。それより複雑だった。誰かへの憧れと、自分への失望が、ぐるぐると混ざり合っていた。あの子はすごい、あの子はきれい、あの子のほうが、あの子のほうが。でもそれは憎しみじゃなかった。むしろ逆で、好きで、大事で、だからこそ並べないことが苦しかった。
親友、という言葉が浮かんだ。
卒業。離れること。「またね」と言いながら、本当の気持ちは言えないまま別れてしまったこと。
イヤリングは片方だけだった。もう片方は、もうここにはない。
「高槻さん」
北沢さんの声で戻ってきた。手の中のイヤリングが、少し重く感じた。
「大丈夫? 顔色悪い」
「大丈夫です、すみません」
深呼吸した。ルチルが昨日言っていた、選ぶこと、というのを思い出した。全部飲み込まないで、受け取るものを意識する。
「これ、誰かと一緒に買いましたか」
私が尋ねると、北沢さんが目を見張った。
「……なんで知ってるの」
「なんとなく、そんな気がして」
「……親友と。二人でペアで買ったやつ」
北沢さんは、しばらく黙ってから言った。
「春の卒業式で、あの子、別の大学に行ったんです」
声は落ち着いていたけれど、その言い方だけで、今もまだ終わっていない話なのだと分かった。
「仲が良かったんですか」
「はい。ずっと一緒にいました」
少し笑って、でもその笑みはすぐに薄れた。
「私、あの子みたいになりたかったんです」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「明るくて、誰とでも仲良くなれて、ちゃんと前に進める子で」
北沢さんは、自分の耳たぶに触れた。イヤリングのない方だった。
「私はずっと、隣にいただけだったから」
「卒業式の日、最後にちゃんと話そうと思ってたんです。でも、結局言えなくて」
教室を出る前に外して、そのまま片方だけなくしました。
「それで……」
「たぶん、置いてきたんです。イヤリングだけじゃなくて、言えなかった気持ちも」
私はイヤリングを両手で包むようにして、目を閉じた。
北沢さんが置いていかれた感覚は、まだイヤリングの中にあった。
「あの子みたいになりたかった」という感情は、本当はもっと別のことを言いたかったのかもしれない。
あなたが好きだった、一緒にいたかった、うらやましいというよりはただ、側にいたかった。それをうまく言えないまま、感情だけが残った。
受け取った、と思った。
あなたがそこにいたこと、感じていたこと、言えなかったこと、全部ここに残っていた。誰かが拾った。
目を開けた。
「北沢さん」
「……うん」
「本音、伝えてみませんか。メッセージでもいいから」
「でももう卒業して」
「でも連絡は取れるんですよね」
北沢さんは膝の上の手を、ぎゅっと握った。
「……バカにされそうで」
「しない人だと思います、きっと」
「なんで分かるの」
「分かりません。でも、あなたが大事にしてた人だから」
北沢さんはしばらく黙った。窓の外で、昼休みの声がうるさいくらい聞こえていた。
「……考えてみる」
「はい」
「それで、鏡は」
「たぶん、今夜あたり大丈夫になると思います」
「たぶん?」
「たぶん」
根拠を説明する方法がなかったので、そのままにした。
保健室を出たあと、渡り廊下でルチルが現れた。音もなく、私の肩口に乗った。
「聞いてた?」
「全部」
「どうだった」
「悪くはなかった」
褒め言葉として受け取ることにした。
「あのイヤリング、北沢さんに返してきた。持ち主のもとにある方がいいと思って」
「判断は間違っていない。怪異の核が受け取られた今、物自体はそれほど問題にならない」
「また怪異化することは?」
「しない。感情の根っこに触れたからだ、おまえが。おまえは今日、何を感じた」
「え?」
「北沢のイヤリングから、何を受け取った」
「"あの子みたいになりたかった"っていう感情。でも本当は、ただ側にいたかっただけで」
「それだけか」
私は少し考えた。
「刺さった、という感じはあった」
「おまえ自身に、か」
「うん。誰かに、自分と同じものを見てしまうことがある。なりたかった誰かとか、言えなかったこととか」
「遺失感応持ちにはよくあることだ。他人の感情が自分のものと混線する」
「混線していたわけじゃないけど……でも、人ごとではなかった」
ルチルは少し間を置いた。
「そういうときは、どちらがどちらか確認しろ。他人の感情と自分の感情を、切り離して持て。混線したまま動くと判断が歪む」
「分かった」
「感情を受け取ることと、感情に飲まれることは違う。おまえにはその区別が最も重要だ」
「なんで私に特に言うの」
「おまえは感じやすすぎるからだ」
「それって弱点?」
「強みでもある。どちらでもある」
そう言って、ルチルは黙った。尻尾が秋の日差しの中でゆっくり揺れた。
「失くしものは物じゃなく、選ばなかった自分を連れてくる」
ぽつりと言った。
「え?」
「おまえが今日受け取ったものも、そうだろう。北沢は、イヤリングを失くしたんじゃない。選ばなかった言葉を失くした。選ばなかった距離を失くした」
私はしばらく考えた。
「じゃあ、全ての遺失物にそういう面がある?」
「全てではない。でも感情の濃い遺失物には、たいていある。物に未練が宿るとき、それは物への執着じゃなく、その物が象徴していた選択への執着だ」
選ばなかった自分。
その言葉が、変な場所に引っかかった。自分のことじゃないのに、自分のことみたいな気がした。
そのとき、渡り廊下の向こうで、誰かの笑い声がして、すぐに途切れた。
理由もないのに、胸の奥がざわついた。学校のどこかに、まだ拾われていない感情がある気がした。
「どうした」
「なんでもない」
「嘘だ」
「……少し、考えてた」
「何を」
「自分が選ばなかったことって、何があるかな、と思って」
ルチルは答えなかった。でも肩の上で、尻尾が一度大きく揺れた。
その日の放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、背後で声がした。
「昨日、保健室に行ったんですって?」
振り返ると、晴澄さんが立っていた。
また一人だった。副会長の久我さんがいつも隣にいる印象があるのに、今日はいない。腕に書類を抱えていて、下駄箱の前を通りかかった、という感じだった。
「はい、ちょっと」
「北沢の件」
言い方が断定だったので、否定しにくかった。
「……知ってたんですか」
「生徒会長だから、生徒の状況は把握している」
晴澄さんは私を見た。視線が真っ直ぐで、少し圧があった。
「あなたが話を聞いて、落ち着いたと言っていたわ」
「たまたま、上手くいっただけで」
「北沢は今日の午後から授業に出ていた。顔色もよかった」
そうだったのか、と思った。教えてくれようとして声をかけてきたのだろうか。でもなんでわざわざ、と少し不思議だった。
「よかったです」
「あなたは、放っておけない性格なの?」
「……よく言われます」
「いいことだとは思うけれど」
何か続くかと思ったけれど、続かなかった。晴澄さんは少し目を伏せて、下駄箱の方を見た。
「落としものは嫌い」
突然言った。
「え?」
「失くした時点でもう戻らないから。落とした方も、見つけた方も、関係が変わってしまう。最初から落とさなければいいと思う」
「でも、落とした側がまだそこにいる間は」
「戻らない」
穏やかに、でも確信のある声で言った。
「何か一つ失くすたびに、何かが変わる。拾ってもらっても、元通りにはならない。それが嫌」
私は晴澄さんの顔を見た。完璧な表情のはずなのに、今は少しだけ違う気がした。整えているのは分かる。でも整えようとしている分、何か滲んでいる。
「でも、失くした側が、誰にも見つけてもらえないままでいる方が、嫌じゃないですか」
私が問いかけると、晴澄さんが私を睨むように見た。
「見つけてもらっても戻らない、って言ったばかりでしょう」
「戻らなくても、受け取ってもらえたことは本人に届く気がします。完全じゃなくても」
晴澄さんはしばらく黙った。表情が、ほんのかすかに動いた。何の感情かは分からなかった。でもなにか、触れてはいけないものに触れてしまったような気がして、私は少し身構えた。
でも感応は来なかった。触れてもいないのだから当然だ。
「変なことを言うのね」
晴澄さんの言葉は、批判ではなかった。
「そうですか」
「あなたのクラスは何組?」
「二組です」
「名前は」
「高槻ましろ、です」
晴澄さんはそれを、一度だけ繰り返した。確認するように。声が小さくて聞き取れなかったけれど、口の動きでそう分かった。
「また何かあれば声をかけなさい」
それだけ言って、歩いていった。
今度は私が、後ろ姿を見送る形になった。
「……また何かあれば、って」
なんのことだろう、と思いながら、胸のあたりに今日何度目かの引っかかりを感じた。
「見ていると気づかれる」
ルチルの声が耳元でした。
「別に見てない」
「嘘だ」
「……少し見てた」
「正直すぎる」
「正直にしかなれないので」
「それが一番の問題だ、おまえの場合は」
ルチルの声が、呆れているのか、それとも別の何かを含んでいるのか、今日もよく分からなかった。
夕暮れが校舎を染めていた。私は上靴を鞄にしまって、校門に向かった。
今日の怪異は、上手くいった。北沢さんの鏡は、たぶん今夜からちゃんと映るはずだ。
でも帰り道の間、ずっと、晴澄さんの言葉が引っかかっていた。
失くした時点でもう戻らないから、という言葉。
確信があった。個人的な話をしているときの人の声を、私は聞き分けられる気がする。遺失感応のせいかどうかは分からないけれど、あの確信は、誰かに教えてもらったものじゃなかった。自分で感じた、骨まで染みた確信だった。
晴澄さんは何かを失くしている。
それがどんなものかは、まだ分からない。
でも放っておけない、という気持ちが、今日はもう少しだけはっきりしていた。




