第十四章 忘却指定案件
翌朝、真壁さんから連絡が来た。
私宛てではなく、依子さん宛てだった。依子さんからその内容を転送されたのは、登校中のことだった。
「今日の放課後、支部に来るように。高槻も連れてくること」
それだけだった。
短い文章だったけれど、読んで、何かが来る、と思った。
「ルチル」
「読んだ」
「上に報告した結果が出た?」
「そうだろう。覚悟しておけ」
「何の覚悟ですか」
「止められる可能性がある」
「止められても動きますよ」
「おまえがそう言うのは知っている。ただ、話を聞いてから判断しろ。真壁は合理的な人間だ。感情で動かない。それは、話が聞ける相手だということでもある」
「珍しくフォローしてますね、真壁さんのことを」
「フォローではない。事実を言っている」
「でも珍しい」
「うるさい。学校に遅れるぞ」
一日、授業が終わらない気がした。
実際にはいつも通りの時間だったけれど、体感が違った。木乃葉に「今日なんかぼんやりしてる」と言われた。「少し考えごとがあって」と答えたら、「また言えないやつ?」と聞かれた。
「少しだけ言えます。今日、大事な話し合いがあって」
「大人と?」
「上司みたいな人と」
「お疲れ様」
木乃葉は余計なことを言わなかった。「うまくいくといいね」とだけ言って、弁当の話に戻った。
この友達で、本当によかったと思った。
放課後、依子さんと合流して保管局に行った。
真壁さんは机に座っていた。いつものように書類が積まれていたけれど、今日はそれを脇に寄せていた。机の上を整理してから話す、という意図が見えた。
「座れ」
私と依子さんが座った。ルチルは私の膝の上に来た。真壁さんはルチルを見たけれど、何も言わなかった。
「記録の確認が終わった」
真壁さんが言った。いつもの無表情だったけれど、今日は何か別のものがその下にある気がした。疲労、ではないかもしれない。でも、いつもより重い何かがあった。
「結論から言う。今回の案件は、四年前に処理された忘却指定案件だ」
「四年前」
「当時、久瀬ヶ丘中学校で大規模な怪異が発生した。正確には、当時中学棟として使われていた旧校舎棟で起きた案件だ」
私は黙って聞いた。
「現在、あの棟は学区再編と校舎統合を経て、久瀬ヶ丘高校の旧校舎として扱われている。だから今回の怪異も、同じ場所を根にして再活性化している」
「同じ場所……」
「規模は三級相当。複数の生徒が影響を受け、一人が怪異の核に取り込まれかけた」
「対処した結果、怪異は収束した。ただし、一部の記憶と存在の痕跡を封印する処理が行われた。それが今も有効な忘却指定案件として記録されている」
「封印されたのは、誰の記憶ですか」
「複数名。ただし主要な対象は、榊晴澄の記憶だ」
「先輩の記憶が、四年前に封印された」
「正確には、特定の人物に関わる記憶が封印された。その人物の名前、顔、関わった出来事の詳細が対象だ」
「その人物というのは」
「記録には、仮名として“消失個体A”という表記がある」
消失個体、という言葉が、部屋の中で重く落ちた。
「消失、というのは」
「怪異に取り込まれた。完全にではないが、存在の大部分が怪異の根として封じられた」
「大部分が、ということは」
「残っている部分がある。どこに、どのような形で、というのは記録に明記されていない」
「記録に明記されていない、というのは意図的ですか」
真壁さんが少し間を置いた。
「処理した担当者の判断による。当時の担当者の記録には、"詳細を残すことが封印の弱体化につながる恐れがあるため、省略する"とある」
「つまり、名前を書くことが封印を壊す可能性があったから、書かなかった」
「そういう解釈になる」
「名前が怪異の足場になる性質だから。以前も同じ話が出てた」
依子さんが言う。
「はい。名前を奪う怪異の案件のときに、ルチルが言っていました」
「その解釈は正しい。名前を呼ばれることが怪異の活性化につながる性質の怪異だった。だから名前を封印した。名前を知る者を減らした。記憶から消した」
真壁さんが言った。
「守るため、という名目で」
「守るため、という判断だった。当時の担当者が、最善と考えた処理だ」
「今も最善だと思いますか」
私が質問すると、真壁さんが私を見た。
「私の個人的な判断を聞いているのか」
「はい」
「……最善ではなかったかもしれない、と今は思っている」
それは、意外な答えだった。
真壁さんが感情的な判断を口にするとは思っていなかった。
「なぜ今そう思うんですか」
「封印が有効な間は、最善だった。しかし四年経って、封印が弱体化し始めている。怪異が再活性化している。これは処理が不完全だったことを意味する」
「不完全だったのはなぜですか」
「完全な封印のためには、存在を完全に消す必要があった。しかしそれが行われなかった」
「なぜ行われなかったんですか」
「当時の担当者の記録に、一行だけ理由が書いてある」
真壁さんが書類を一枚取り出した。
「"消失個体Aの意志が残存しており、完全消去は不可能と判断した"」
意志が残存していた。
完全に消えることを、拒否した。
「それが、今も怪異として残っている理由ですか」
「そうだ。消えることを拒否した意志が、根として残った。その根が四年かけて怪異を引き起こし続けている」
「消えることを拒否した理由は記録にありますか」
「ない。ただ」
真壁さんが少し間を置いた。
「処理の最後に、一つだけ言葉を残したという記録がある」
「何と言ったんですか」
「"忘れないでいてほしい"」
部屋が静かになった。
依子さんが、棒付きキャンディを机の上に置いた。くわえていられない、という感じだった。
「忘れないでいてほしい、と言った?」
「そうだ。その言葉が、封印をかけた記録の最後に書いてある」
「矛盾していますね」
「そうだ。忘れないでほしいと言いながら、記憶を封印した。担当者も矛盾を認識していたらしく、"本人の意志と処理の方針が相反しているが、安全を優先して処理を続行した"という記録がある」
私はしばらく黙っていた。
ルチルが膝の上で、動かなかった。尻尾が止まっていた。
「真壁さん」
「なんだ」
「忘却指定案件の処理について、確認させてください。関与禁止になりますか、私たちは」
「原則として、そうなる」
「原則として、ということは例外がある」
「例外の適用には、上位機関の承認が必要だ。申請から承認まで最短でも一週間かかる」
「文化祭まで一週間もない」
「そうだ」
私は真壁さんを見た。
「申請していただけますか」
「申請自体は可能だ。ただし承認が下りる保証はない」
「承認が下りなくても申請してください」
「理由は」
「申請の記録が残るから。この案件に対して、誰かが再処理を求めた記録が残る。それだけでも意味がある」
真壁さんが私をしばらく見た。
「……申請する」
「ありがとうございます」
「礼は要らない。ただ、承認が下りない場合は」
「関与禁止の指示に従うとは、今は約束できません」
「そうだろうな」
真壁さんが書類を戻した。
「高槻」
「はい」
「一つだけ言っておく」
「どうぞ」
「この案件に深く関わるほど、おまえ自身の過去にも触れることになる可能性がある」
「私自身の?」
「四年前の怪異は、久瀬ヶ丘中学校で起きた。当時、その学校に在籍していたか確認したいんだが」
私は少し止まった。
「私が当時、久瀬ヶ丘中学校にいた、と言うんですか」
「記録に、影響を受けた可能性がある人物のリストがある。氏名が並んでいる。その中に、高槻という名前がある」
「私の名前が」
「高槻という姓は、珍しくない。同一人物かどうかは確認できていない。ただ、可能性として言っておく」
私は黙った。
感情が、ざわついた。感応ではなく、自分自身の感情が。
「それは、私も記憶を封印されているということですか」
「可能性がある。リストにある高槻が同一人物なら」
「感情だけ残って、出来事が見えない、ということは」
「封印の影響で記憶が抜けている可能性がある」
私は手を見た。
感応で他人の感情は受け取れるのに、自分の過去だけは霧の中にある。
それが封印の影響だとしたら。
「ルチル」
膝の上のルチルを見た。
ルチルは私を見た。
「知っていた?」
「……可能性は考えていた」
「可能性、というのは?」
「確信はなかった。ただ、おまえが"失くした記憶がある"と言ったとき、関係があるかもしれないとは思った」
「なんで言わなかったの」
「確信がなかったから。あと、おまえが自分の過去に触れることを、準備なしに強いたくなかった」
「準備のために、感応の訓練をつけてくれていた?」
「……それだけではないが、それも含む」
私は少し黙った。
怒る気にはなれなかった。ルチルなりの、ルチルにできる範囲の、守り方だったと思ったから。
「私の記憶の封印を解くことはできますか」
真壁さんに聞いた。
「技術的には可能だ。ただし、感応持ちの封印は通常より複雑な場合がある。慎重に進める必要がある」
「先輩の封印は?」
「榊晴澄の封印は、より深い。本人の同意が必要だ」
「本人が望んでいます。先日、話を聞きました」
「聞いたのか」
「はい。先輩は、忘れさせられたとしても、思い出したいと言っていました」
真壁さんが依子さんを見た。
「接触を許可したのか」
「厳密には、接触を止めなかった」
依子さんが言った。悪びれていなかった。
「止めても止まらないと判断したので」
「冬月」
「はい」
「次からは報告しろ」
「します」
「今後の動きについては、申請の結果が出るまで待機が原則だ。だが」
真壁さんが書類を一枚、机の上に置いた。
「文化祭当日の警戒配置については、独自に動いていい。あくまで警戒であり、封印への直接干渉は承認後とする」
「警戒の範囲で、できることがあれば?」
「その判断は冬月に一任する」
依子さんが「ありがとうございます」と言った。
私も「ありがとうございます」と言った。
真壁さんは「礼は要らない」と言った。それから少し、視線を下げた。書類を見ているわけではなかった。
「高槻」
「はい」
「四年前の処理は、間違いではなかったと、今も思っている。当時の状況で、あれ以外の選択肢はなかった」
「はい」
「しかし、正しくもなかった、という可能性は認める」
「分かりました」
「その上で言う。今回の動きが、より良い結末につながることを、私は否定しない」
「それは」
「期待する、とは言わない。ただ、否定しない」
真壁さんらしい言い方だった。
でも私には、それで十分だった。
旧校舎は、ずっと高校のものだと思っていた。けれどあの場所は、名前と所属だけを変えながら、四年前からそこにあり続けていたのだ。
保管局を出てから、依子さんと並んで歩いた。
夜の久瀬の街だった。ルチルが肩に乗っていた。
「真壁さん、思っていたより話してくれた」
「そうだね。あの人、感情を出さないけど、正しくないことが嫌いな人なんだよ。だから今回の案件が正しくない可能性があると気づいたら、自分の中で整理せざるを得なかったんだと思う」
依子さんが言う。
「整理した結果が、今日の話し合いですか」
「そうじゃないかな。あの人なりの、謝罪と協力の表明だったと思う」
「謝罪、というのは?」
「四年前の処理に対して。組織として関わったことに対して。直接言えない人だから、こういう形になる」
私はそれを聞いて、少し、真壁さんへの見方が変わった。
「依子さん」
「なに」
「私の記憶の封印、解いてもらえますか」
「技術的には私でもできるけど、ましろちゃんの感応があるから慎重にやりたい。時間を取って、安全な状況で」
「文化祭の前に?」
「……できるだけ。ただ、封印を解いたら何が見えるか分からない。それに耐えられる準備が必要」
「どのくらいかかりますか」
「一日か二日あれば。ただし」
「ただし?」
「見えた後、どう動くかを考えておくこと。封印が解けたら、あなたは今より多くのことを知ることになる。その上で判断が必要になる」
「判断とは」
「先輩をどう守るか。るりという名前の人を、どう回収するか。自分自身の記憶をどう受け取るか。全部、見えてから判断しなければならない」
「準備してきたこと、役に立てたい」
「役立つよ、絶対に」
依子さんが微笑んだ。棒付きキャンディをまた口に入れながら。
「ましろちゃんは、本当に成長したね。最初の定期入れの案件から比べると」
「まだ足りないことばかりですが」
「足りないことが分かることも、成長だよ」
「依子さんはいつもそういう言い方をしますね」
「本当のことだから」
帰り道、ルチルがずっと静かだった。
黙っていた。私も黙っていた。
しばらくして、ルチルが言った。
「今日の話、受け取れたか」
「受け取りました」
「重かっただろう」
「重かった。でも知らないよりよかった」
「そうか」
「ルチル」
「なんだ」
「四年前の怪異に、私もいたかもしれない」
「そうかもしれない」
「るりさんと、会ったことがあるかもしれない」
「……そうかもしれない」
「記憶が解けたら、分かりますか」
「分かることもある。分からないことも残るかもしれない」
「それでいいです」
「いいのか」
「全部が分からなくても、今より多く分かれば、できることが増える」
ルチルが尻尾を揺らした。
「……強くなったな」
「褒めてますか」
「事実を言っている」
「ありがとう」
「礼は要らない」
「言いたいので言います」
ルチルが短く鼻を鳴らした。
「一個だけ聞いていいですか」
「なんだ」
「ルチルは、るりさんのことを、どう思っていますか」
長い沈黙があった。
「……大切に思っている」
「それは感情ですか」
「感情かどうかは分からない。でも、大切に思っている、と言える」
「るりさんが消えることを拒否したのは、ルチルのことも関係していますか」
「……あたしだけのためではないだろう。でも、あたしも含まれているかもしれない」
「ルチルが今の形で存在しているのは、るりさんと関係していますか」
「……今は言えない」
「今は言えない、は今日で何回目ですか」
「数えていない」
「私は数えてます。今日だけで五回」
「……やめろ」
「やめません」
ルチルが「うるさい」と言った。でも声に力がなかった。
「ルチル」
「なんだ」
「るりさんが正しい形で終われるように、私が手伝います」
「……おまえに言われるまでもない」
「でも言いたかった。約束みたいに」
ルチルが静かになった。
長い沈黙の後。
「……受け取った」
小さく言った。
「ありがとう」
「礼は要らない、と言った」
「言いたいので言います」
「……勝手にしろ」
夜道を歩いた。街灯の光の中を。
文化祭まで、六日だった。
忘却指定案件。消失個体A。忘れないでいてほしい。
それが全部、一人の、るりという名前の女の子のことだった。
そしてその子は、四年間、消えることができないまま、学校の怪異として残り続けていた。
忘れないでほしい、と言いながら。
「なかったことにはしない」
私は歩きながら言った。
誰に向かって言ったのかは、自分でも分からなかった。でも言葉にしたかった。
「必ず、拾いに行く」
ルチルが肩の上で、一度だけ、深く息を吐いた。
それが答えだと思った。




