第十三章 旧校舎の七番目の教室
十一月の第一週、文化祭まで一週間を切った。
学校中が浮き足立っていた。廊下に飾り付けが増えて、教室から歌声が聞こえてくるようになって、昼休みも準備で残る生徒が増えた。普段より声が大きく、普段より笑顔が多かった。
そういう空気の中で、噂が広まった。
旧校舎に、存在しない教室がある、という噂だった。
透子から聞いた。
「先輩、七番目の教室って聞いたことありますか」
「ない」
「旧校舎の二階に、教室が六つあるじゃないですか。でも最近、七番目があるって話が出てて」
「地図にない教室が?」
「ドアだけがある、みたいな話で。普段は見えないのに、気が向いたときだけ現れるって。そのドアを開けると、自分が失くしたものが見えるって言われてて」
「自分が失くしたものが」
「怖くないですか? 私は怖いと思うけど、行ってみたいとも思う。でも先輩がいないと行けないので」
「自己保存本能は?」
「機能してます。だから先輩が一緒じゃないと行けない」
ルチルが耳元で「本末転倒だ」と言った。私も同意した。
でも、噂を聞いてすぐ、感応が揺れた。
七番目の教室。自分が失くしたものが見える場所。
それはただの噂ではない、という確信があった。
依子さんに連絡したら「今夜行こう。ただし、真壁さんには今日まだ話していないから、正式な出動ではない。自分たちの判断で動くことになる」と言った。
「問題ありますか」
「問題はある。でも文化祭前にこれ以上待てない気がする」
「私も同じ気がしてます」
「ルチルはどう言ってる?」
ルチルに聞いたら「行く。ただし人数を絞れ」と言った。
最終的に、私、依子さん、ルチル、そして晴澄さんと志季さんが加わることになった。
晴澄さんに声をかけるべきかどうか迷ったけれど、ルチルが「榊晴澄には知る権利がある」と言ったので、連絡した。
返事は即答だった。
「行きます」
志季さんからも連絡が来た。
「先輩が行くなら私も行きます。止めても無駄だと思うので」
夜の旧校舎に、五人と一匹が集まった。
正確には四人と一匹で、透子は「情報提供まで」と言って外で待機することになった。自己保存本能が正常に機能していた。
旧校舎の非常口から入った。依子さんが鍵を開けた。
「確認します。七番目の教室の怪異については、まだ状況が不明です。感応が強く反応するものが出てきても、深追いしない。引き返すタイミングは私が判断します」
「はい」
私は答えた。
「先輩はいつも危険な場面で冷静なので助かりますが、今日は特に」
志季さんが晴澄さんに言った。
「分かっている」
「行くぞ」
ルチルが私の肩に乗っかって言った。
みんなで二階に上がった。
二階の廊下は、今まで来たときより暗かった。
非常灯の光だけが、廊下の端を薄く照らしていた。足音が響いた。
教室を数えながら進んだ。一番目、二番目、三番目。
「感応は?」
ルチル質問に、私が答えた。
「揺れてます。全体的に、弱く」
「どこかが特に強い?」
「まだ分からない」
四番目、五番目、六番目。
六番目の教室の前で止まった。
廊下の突き当たりだった。六番目の先は、壁のはずだった。旧校舎の間取り上、そこで廊下が終わる。
でも。
「ドアがある」
志季さんが伝えた。
あった。
廊下の突き当たりに、ドアがあった。古いドアだった。他の教室のドアと同じデザインだけれど、番号プレートがなかった。ドアの下の隙間から、薄い光が漏れていた。
「開けますか」
私は依子さんに聞いた。
「開ける前に確認」
依子さんは封縫の糸を手に出していた。
「何かあったら即座に動く。中に入ったら、各自が見えたものを言語化しながら動く。感応が暴走しそうになったら、すぐ言うこと」
「はい」
「ルチル」
「分かっている。あたしが見張る」
「じゃあ行こう」
依子さんがドアを開けた。
中は教室だった。
机と椅子が並んでいた。黒板があった。窓があって、外の景色が見えるはずだったけれど、窓の外が白かった。光でも霧でもない、ただ白い。
全員が中に入った。
最初は何も起きなかった。
「感応は?」と依子さんが聞いた。
「全体的に強い。ただ、特定の方向に引っ張られる感じはなくて、部屋全体から来ている」
「怪異の核がどこかにあるというより、部屋そのものが核になっている」
「そう感じます」
「志季さん、何か感じますか?」
「分かりません。ただ、部屋が重い気がします」
「晴澄さんは?」
晴澄さんが部屋を見回した。
「……懐かしい」
「懐かしい?」
「この感じが。このサイズの教室、この天井の高さ、この黒板の位置。見たことがある気がする。でも、この旧校舎の教室じゃない気がする」
「別の場所で見た?」
「別の学校かもしれない。でもはっきりしない」
そのとき、変化が起きた。
教室の空気が揺れた。物理的な揺れではなかった。でも確かに何かが変化した。
「来る」
ルチルが言った。幻が、始まった。
最初に幻を見たのは、私だった。
教室の隅に、人影が現れた。
女の子だった。私と同じくらいの年齢に見えた。私の方を向いて、立っていた。
その子が、笑った。
「もう拾わなくていいよ」
声が聞こえた。
優しい声だった。責めていない声だった。
「疲れたでしょ。もう休んでいいよ」
私は動かなかった。
幻だと分かっていた。感応が暴走しているのではなく、怪異が生み出した幻だと、ルチルに教わっていたので分かった。でも声が、心地よかった。
拾わなくていい。休んでいい。
その言葉が、疲れていた部分に染み込もうとした。
「違う」
私は声に出して言った。
「私は休みたくない。まだ、拾わないといけないものがある」
幻の女の子が、少し驚いたような顔をした。それから、消えた。
同時に、部屋の別の場所で声がした。
志季さんの声だった。
「……嘘だ」
低い声だった。志季さんらしくない声だった。
志季さんの方を見ると、志季さんが部屋の中央で立ちつくしていた。何かを見ていた。
私には見えなかった。でも志季さんには見えていた。
「志季さん」
「先輩が、いなくなる」
小さな声だった。
「先輩が私を捨てる。いなくなる。別の誰かの方に行く」
「それは幻です。志季さんが怖いと思っていることを、怪異が見せている」
私は意見した。
「分かっている」
「分かっていても?」
「分かっていても、怖い」
志季さんが目を閉じて、拳を握った。
「……分かっている。私が今見ているものは、怪異が作ったものだ。先輩は捨てない。先輩はそういう人じゃない」
志季さんが目を開けた。
幻が消えたらしかった。志季さんが一度深く息を吐いた。
「大丈夫ですか」と依子さんが聞いた。
「大丈夫です」
「よく自分で打ち消せた」
「情けないところを見せた」
「情けなくない。怖いものが見えたら怖い。それは当然です」
私がそう言うと、志季さんが私を見た。
「……あなたに言われると、素直に受け取れない」
「なんでですか」
「あなたは怖いものを見て動じなかったじゃないですか」
「私も怖かった。ただ、違うと言えたから」
「どうして言えたんですか」
「まだやることがあるから」
志季さんは少し黙った。
「……そうですね」
次に変化が起きたのは、部屋の奥だった。
晴澄さんのそばで。
「先輩」
珍しいことに、ルチルが直接、晴澄さんに向かって言った。
「今、何が見えますか」
晴澄さんは、答えなかった。
見ていた。部屋の奥の方を、じっと見ていた。
「晴澄さん」
私は近づいた。晴澄さんの顔が、今まで見たことのない顔をしていた。整えていない。整えようとしていない。ただ、見ていた。
「誰かいる」
小さな声で言った。
「どんな人が見えますか」
「……女の子。顔が見えない。でも、赤いリボンをしている」
私は動きを止めた。
「赤いリボン」
「うん。笑っている。でも顔が見えない。顔だけが、霧みたいに白くなっていて」
晴澄さんが一歩踏み出した。
「待ってください。近づかない方がいいです」
「でも、あの子が」
晴澄さんの声は怯えていたのに、それ以上に、置いていかれた人の声に聞こえた。
怖いから近づくんじゃない。忘れたくないから、離れられないのだと思った。
「先輩」
「あの子が、何か言っている」
「何て?」
「……どうして忘れたの」
部屋の空気が変わった。
重くなった。感応が激しく揺れた。私の頭の中で、何かが大きな音を立てた。
「先輩、こちらへ」
「でも」
「今は離れてください」
私は晴澄さんの腕を掴んだ。晴澄さんの体が、固くなっていた。離れたくない、ということではなく、体が動かなくなっているような感じだった。
「先輩」
「……ましろ」
初めて、名前を呼ばれた。
苗字ではなく、名前を。
晴澄さんが私の方を向いた。
「どうして忘れたの、って言われた」
「はい」
「私が忘れたのは、私のせいじゃないんですよね」
「……はい」
「なのに、どうして忘れたの、って」
晴澄さんの声が、震えていた。今まで聞いたことのない震え方だった。整えようとしているのに、整えられない声だった。
「ごめんなさい」
晴澄さんが言った。
幻に向かって。
「分からなかった。でも、ごめんなさい」
幻が消えた。
怪異の圧力が、少し和らいだ。
晴澄さんが、私の腕を掴んだ。逆に。
掴んで、そのまま、私の胸元に顔を寄せた。
「先輩」
「少し、このまま」
「はい」
依子さんが私を見た。何も言わなかった。ルチルも何も言わなかった。志季さんも、黙っていた。
晴澄さんが、震えていた。
声は出さなかった。泣いているわけでもなかった。ただ、震えていた。
私は、掴まれた腕をそのまま、静かにしていた。
少しして、晴澄さんが離れた。
「みっともないところを見せた」
「見せてくれてよかったです」
「なんでそう言えるの」
「私に見せてくれたから」
晴澄さんが私を見た。目が少し赤かった。泣いていないのに、目だけが赤かった。
「ましろ」
「はい」
「あの子は誰なの」
「まだ全部は言えません。でも」
「でも?」
「先輩が大切にしていた人だと思います。先輩のことを、大切にしていた人だと思います」
晴澄さんが目を閉じた。
「どうして忘れたの、って言われた。怒っていたわけじゃなくて、悲しそうで」
「悲しかったと思います。忘れられていたことが」
「でも忘れたくて忘れたわけじゃない」
「そうです」
「あの子には、伝わっているんですか」
「……伝わっていると思います。先輩が覚えていようとしていることは、届いていると思います」
「覚えていようとしていた、か」
晴澄さんが目を開けた。
「覚えていようとする気持ちすら、なかった気がしていた。忘れていたから。でも感情は残っていた、と言ってくれた。感情が残っていたなら、覚えていようとしていたということかもしれない」
「そうだと思います」
「……そうだといい」
依子さんが「そろそろ出ましょう」と言った。「今日はここまでにする。怪異の圧力が一時的に弱まっているうちに」
「収束はしていませんか」と私は聞いた。
「していない。弱まっただけ。根はまだある。でも今日はここまでが限界」
「分かりました」
ドアの方に向かって、全員が動いた。
そのとき。
黒板に、何かが現れた。
音もなく、チョークで書いたような字が、黒板の真ん中に現れた。
名前だった。
二文字だった。
私は読もうとした。
「出るぞ。今すぐ」
「でも黒板に」
「見るな。今は見るな」
「なんで」
「今は駄目だ。後で説明する。今は出ろ」
ルチルの声が、今まで聞いたことのない声だった。怒っているのでも、焦っているのでも、命令しているのでもなかった。
怖い声だった。
ルチルが怖い声を出した。
私は黒板から目を離した。
全員が廊下に出た。
ドアが閉まった。
廊下に出てから、七番目のドアを振り返ると、もうなかった。
壁だった。突き当たりの、ただの壁だった。
誰も何も言わなかった。
しばらくして、志季さんが「大丈夫ですか」と晴澄さんに問いかけた。
「大丈夫」
晴澄さんはいつもの声に近かった。でも、少し違った。
「先輩が大丈夫と言うときは信用できないと言いました」
「……今日は、大丈夫」
「根拠は?」
「ましろが、います」
志季さんが私を見た。私はルチルを見た。
ルチルは前を向いていた。尻尾が固かった。
「ルチル」
「後で話す。今は出よう」
旧校舎を出た。
外は冷えていた。
十一月の夜の空気が、頬に当たった。
透子が入り口のそばで待っていた。全員が出てきたのを見て「お疲れ様です」と言った。そして空気を読んで、それ以上何も聞かなかった。
「先輩たちは先に帰ってください。私はましろちゃんとルチルと少し残る」
依子さんがそう伝えると、「分かりました」と志季さんが返事した。
晴澄さんが、帰ろうとして、止まった。
振り返って、私を見た。
「ましろ」
「はい」
「また名前で呼んでもいいですか」
「……はい」
「よかった」
晴澄さんが笑った。今夜初めての、柔らかい笑い方だった。
「ありがとう、今日も」
「先輩こそ」
「私は何もしていない」
「隣にいてくれました」
晴澄さんが少し間を置いた。
「それはお互い様ね」
それだけ言って、志季さんと歩いていった。
遠くなる後ろ姿を見ながら、胸のあたりが温かかった。
でも。
「ルチル」
「……分かっている」
「黒板の字」
「見えた。一部だけだが」
「私も見えた。二文字のうち、一文字だけ」
「何が見えた」
「"り"という字が見えた。ひらがなで」
ルチルが静かになった。
「ルチル、見えた?」
「……見えた」
「どちらの字が見えた」
ルチルは答えなかった。
「私も見えた。一文字だけ。でも読み方が分かった」
「依子さん、どんな名前ですか」
依子さんが私を見て、ルチルを見た。
ルチルが小さく、頷いた。
依子さんが口を開いた。
「……るり、という名前だと思う」
ルチルの尻尾が、止まった。
完全に止まった。
「ルチル」
「……」
「ルチルって、もしかして」
「今は」
「言えない、って言う?」
ルチルが私を見た。
今まで見たことのない顔だった。偉そうでも毒舌でもなかった。小さな体で、ただ、こちらを見ていた。
「……もう少し、待て」
「うん」
「もう少しだけ」
「分かった」
ルチルが目を伏せた。
夜の旧校舎の前で、三人と一匹が立っていた。
るり、という名前が、夜の空気の中に残っていた。
私の中で、何かがゆっくりと形を持ち始めていた。
まだ言葉にはならなかった。
でも、もう少しだと思った。




