第十二章 ルチルは嘘をつく
木曜日の夜、私はルチルに聞いた。
宿題を終えて、机の前でぼんやりしていた時間だった。ルチルは本棚の端に座って、目を閉じていた。眠っているのか考えているのか、いつも分からない。
「ルチル」
「なんだ」
眠っていなかった。
「晴澄先輩のことを、何か知っているよね」
「どういう意味だ」
「さっきまで言えると思ってたことが、全部言いにくくなった」
正確に言うと、そういうことだった。晴澄さんの見舞いから帰ってきて、部屋の空白のことを考えていたら、ルチルに聞きたいことが増えていた。でも何を聞けばいいのか、どこから聞けばいいのかが、整理できなかった。
「知っていることは多くない」
「嘘っぽい」
「嘘ではない」
「でも全部話してはいない」
「それは認める」
「なんで」
「言える順番がある、と言っただろう」
「言いました。でも今日、先輩の部屋を見て、もう少し知りたくなった」
ルチルが目を開けた。本棚の端から、私を見た。
「何を知りたい」
「写真から消えていた子のこと。先輩の部屋の空白を作っている子のこと。ルチルが知っていることの、言える範囲で」
ルチルは少し黙った。
「言える範囲と言えない範囲の境が、自分でも曖昧になっている部分がある」
「それはどういうこと?」
「……あたし自身のことと、その子のことが、切り離せない部分があるからだ」
「切り離せない?」
「関係している、ということだ。詳しくは今は言えない」
「ルチル自身のこととつながっている」
「そうだ」
私はルチルを見た。本棚の端で、小さな体が少し緊張していた。尻尾の動き方がいつもと違った。ゆったり揺れていなくて、少し固かった。
「ルチル、その子のことを考えると、しんどい?」
「しんどい、という感覚があたしにあるかどうか分からない」
「あるかどうか分からない?」
「あたしは少し、構造が普通の生き物と違う。感情があるのかどうかも、正確には分からない」
「でも偉そうにするし、私に怒るし、甘いものをねだる」
「……それが感情かどうか、あたし自身には判断できない」
「私は感情だと思います」
「おまえがそう思っても、あたしには分からない」
「ルチル」
「なんだ」
「その子を思うとき、何かが動きますか。胸のあたりとか、頭の中とか」
ルチルは長い間黙った。
「……動く、かもしれない」
「それが感情だと思う」
「証明できない」
「証明しなくていいです」
ルチルが目を伏せた。
「……聞くな。今は」
「分かりました」
「本当に分かったのか」
「分かりました。今は聞かない」
ルチルが少し、尻尾の力を抜いた。固かった尻尾が、ゆっくりと揺れ始めた。
翌日の放課後、保管局に行った。
依子さんが書類を整理していた。真壁さんはいなかった。出張か何かと聞いたら「上との連絡で出てる」と言った。
「先日の写真の件、報告した?」と私は聞いた。
「した」依子さんの表情が少し変わった。「真壁さんに全部話した」
「どうなりましたか」
「詳細を確認中、という返答だった。詳細、というのは、保管局の過去の処理記録のことだと思う。その案件がいつ、誰によって処理されたのかを確認している」
「記録があるんですか」
「あるはずなんだけど、古い案件の記録は支部に全部あるわけじゃなくて、上の管理区域にある分もある。それを確認してる」
「時間がかかりますか」
「分からない。早ければ来週くらいに何か分かるかもしれないし、もっとかかるかもしれない」
「文化祭まで二週間くらいしかない」
「そうなんだよね」
依子さんが棒付きキャンディを口に入れた。今日はレモンあじだった。
「ましろちゃん、一個聞いていい?」
「どうぞ」
「今の状況で、どこまで動く気がある?」
「どういう意味ですか」
「真壁さんから待機指示が出る可能性がある。記録の確認が終わるまで、新しい動きをしないようにという指示。その場合、従う?」
私は少し考えた。
「場合による、というのが正直なところです」
「どういう場合に従わない?」
「先輩に何か起きたとき」
「そうだよね」依子さんが頷いた。「私もそう思う。ただ、それを真壁さんに言えるかどうかは別の話で」
「依子さんはどうするつもりですか」
「私は」依子さんが少し笑った。「まあ、なるようになると思ってる。建前上は指示に従って、でも何かあったら動く。そういう大人のやり方もある」
「ずるい気がしますが」
「ずるいよ。でも完全に指示に従っても、完全に無視しても、どっちも正しくない気がして。その間を歩くのが仕事のうち、みたいなところがある」
「私には難しいやり方です」
「おまえはまだ見習いだからね。難しくて当然」
そのとき、保管局の扉が開いた。
入ってきたのは、今まで見たことのない人物だった。
子どもに見えた。外見は十二歳くらいの少女で、人形みたいに整った顔立ちをしていた。感情の薄い目だった。感情がないのではなく、表に出ていない感じ。
制服ではなかった。シンプルな格好をしていた。
依子さんが「あら」と言った。驚いていたけれど、怖がってはいなかった。
「久しぶりですね、雨宮さん」
「冬月さん」
少女が言った。声が思ったより落ち着いていた。外見と声が一致していなかった。
「久瀬支部に来るのは珍しいですね」
「少し確認したいことがあって」
雨宮と呼ばれた少女は、部屋を見回して、私を見た。
「こちらが遺失感応の」
「高槻ましろです」
「雨宮玻璃」
名乗った。それだけだった。
「特級回収者の方ですか」
「そう聞いているなら、そうです」
玻璃さんはルチルを見た。
ルチルは私の肩の上にいた。
二人が向き合った瞬間、空気が変わった。
「まだ残っていたんだ」
玻璃さんが言う。穏やかな声だった。
ルチルは黙った。
「残っていた、というのは」
玻璃さんはルチルを見たまま、答えた。
「その子が、まだここにいるということ」
「その子?」
「そのマスコット。ルチルという名前で動いているそれ」
「ルチルは保管局の補助霊獣では?」
「補助霊獣として登録はされています。でも、それだけじゃない」
玻璃さんが私を見た。
「知らないんですか」
「何を」
「あなたの相棒が何から生まれたのか」
依子さんがキャンディを口から出した。それだけで、場の空気が変わった気がした。
「玻璃さん、少し待ってもらえますか」
「いいですけど」
「ルチル」
依子さんがルチルを見た。ルチルは私の肩の上で、動かなかった。
「言いますか、自分で」
「……」
「言わないなら、私が話すことになります。ましろちゃんには、知る権利があると思うので」
「分かっている」
ルチルが短く言った。
「分かっている、なら」
「今は言えない、と今まで言ってきた。それは変わらない。ただ」
ルチルが玻璃さんを見た。
「おまえが来て言うのは、余計なことだ」
「余計かどうかは、私には判断できません。ただ確認したいことがあった」
「確認とは」
「封印の状態。この案件がどこまで進んでいるかを見に来た」
「特級回収者として動いているのか」
「個人的に」
玻璃さんが部屋の奥に入ってきた。棚を少し見た。保管局の棚を確認するように。
「案件が動いているのは知っています。久瀬支部の遺失感応が動いて、封印に触れた。上にも情報が届いている」
「真壁さんから?」
「そうではなく、別の経路で。保管局内にも、この案件を知っている人間は複数いる」 「どういう立場の人間ですか」
「様々です。ただ」玻璃さんが私を見た。「この案件に関わる人間は、この案件が表面化することを好まない人間と、表面化してほしいと思っている人間がいます。私はどちらでもない」
「どちらでもない?」
「ただ、正確に把握したいだけです。感情的な動機がない」
「感情的な動機がない人間が、個人的に動く理由は何ですか」
玻璃さんが少し止まった。
「……珍しいことを聞きますね」
「変ですか」
「変ではない。ただ、多くの人間はその質問を私にしない」
「なんで」
「私が答えると思っていないから、だと思います」
「答えてもらえますか」
玻璃さんは私をしばらく見た。感情の薄い目だったけれど、何かを測っているような感じがあった。
「把握したい、というのが全部ではないかもしれない」
「それ以外には?」
「……このままでは正しくないと思っている、という部分があります」
「正しくないというのは?」
「消されたまま、どこかに残り続けることが。それは、何かの解決ではないと思っているので」
私は玻璃さんを見た。
感情が薄いと思っていたけれど、そうではなかった。感情はあるけれど、表に出す方法を持っていない、あるいは持つ必要がないと思っている人の顔だった。
「玻璃さんは、ルチルが何なのか知っていますか」
「知っています」
「教えてもらえますか」
玻璃さんはルチルを見た。ルチルは黙っていた。
「本人が話すなら、聞いてください。本人が話さないなら、私からは言えない」
「本人の権利を守る、ということですか」
「そういう考え方があるとすれば、そうです」
私はルチルを見た。
「ルチル」
「……なんだ」
「言える?」
「今すぐは無理だ」
「今すぐでなくていいです。でも、いつか」
「いつかは言う。それは約束した」
「うん」
「ただ、今夜は無理だ」
「分かりました」
玻璃さんが「少し見てもいいですか」と依子さんに言って、保管区域の方に向かった。依子さんが「どうぞ」と言った。
私はルチルと、保管局の窓際にいた。
玻璃さんが保管区域を確認している間、依子さんが私のそばに来た。
「大丈夫?」
「はい」
「さっきの、聞いてどうだった?」 「ルチルが何かを隠しているのは知っていたので。驚きはしたけど、焦りはなかった」
「そう?」
「ルチルが約束してくれているから」
「約束を信じてるんだ」
「ルチルは嘘をつかないと思う」
「根拠は?」
「なんとなく」
依子さんが苦笑した。
「ましろちゃんの"なんとなく"はわりと当たるよね、最近見ていると」
「感応が関係しているかもしれないです」
「そうかもね」
ルチルが私の肩から下りて、窓枠に乗った。外を見た。夕方の久瀬の街が見えた。
「ルチル」
「なんだ」
「玻璃さんのことは知ってたの? 保管局の人だって」
「知っていた」
「会ったことがある?」
「ある。昔」
「昔、というのは」
「あたしが今の形になる前」
「今の形になる前?」
ルチルは外を見たまま、答えた。
「あたしは最初からこういう形ではなかった。今の形になったのは、比較的最近のことだ」
「比較的最近、というのはどのくらい?」
「数年前」
「数年前に、今の形になった」
「そうだ」
「なんで今の形になったの」
ルチルが少し間を置いた。
「必要があったからだ」
「誰の必要が?」
「……あたしが言えることの端にいる。これ以上は、今は言えない」
「うん、分かった」
ルチルが振り返って私を見た。少し、不思議そうな目だった。
「怒らないのか」
「怒らない。言える順番があるって言ってたから、急かしても仕方ない」
「……そうか」
「ただ一個だけ」
「なんだ」
「ルチルが今の形になる前に存在していたものは、今もどこかにある?」
ルチルが長い間黙った。
窓の外で、夕暮れの鳥が飛んでいった。
「……ある」
「今もある」
「ある。形は変わっているが」
「どこに」
「おまえが向かっている方向に」
「学校の怪異の根っこに?」
「そうだ」
私はしばらく黙った。
「じゃあ、ルチルと私が向かっている先は、同じところだ」
「……そうかもしれない」
「ルチルにとっては、それは怖いこと?」
「怖い、という感覚があるとすれば」
ルチルが窓枠の上で、小さく体を縮めた。
「怖いかもしれない。でも、向かわなければならない」
「なんで」
「おまえが向かうから」
「それだけ?」
「……それだけではない。あたし自身にも、向かわなければならない理由がある」
「言える?」
「今は言えない」
「今は言えない、って、今日六回目では」
「数えているのか」
「なんとなく」
「……数えるな」
ルチルが尻尾を軽く揺らした。怒っているのか、照れているのか、今日は判断できなかった。
玻璃さんが保管区域から戻ってきた。
「確認しました。封印の状態は想定より進行しています。文化祭前後に、何かが起きる可能性が高い」
依子さんが伝えた。
「文化祭前後、というのは根拠がありますか」
「封印が解ける条件は、感情の核が直接触れられることです。文化祭は、感情が集中するイベントです。過去に大規模な怪異が発生したのも文化祭の時期だと記録にある」
「記録を見たんですか」
「見ました」
「保管区域の記録を?」
「そこにある分だけ。詳細な記録は上の管理区域にある」
「真壁さんが確認中の記録」
「そうです。その記録の内容によっては、動けない状況になる可能性があります」
「動けない、というのは?」
「案件が忘却指定になっていた場合、関与者は関与を禁じられます。保管局の規則として」
「忘却指定」
「一度処理した案件を、再処理しない。関与者を増やさない。それが忘却指定案件の扱いです」
「この案件がそれに当たる可能性がある?」
「高い、と私は判断しています」
依子さんが私を見た。私も依子さんを見た。
「つまり、真壁さんが記録を確認した結果、私たちに関与禁止が出るかもしれない」
「その可能性を伝えに来ました」
「玻璃さんが、なんでそれを教えてくれるんですか」
玻璃さんは私を見た。
「さっき、正しくないと思っているから動いている、と言いました」
「言いました」
「その続きです。忘却指定のまま封印し直されることも、私は正しくないと思っている。ただ、規則として動ける立場にないので、情報を渡すことしかできない」
「情報を渡して、私たちが動くことを期待している?」
「期待、とは言いません。ただ、知っておくべきことは知っておいた方がいいと思った」
玻璃さんは部屋を出ようとした。
「待ってください」
「なんですか」
「ルチルのことを、知っているとおっしゃっていた。ルチルが何なのか」
「本人が話すべきことです」
「玻璃さんから見て、ルチルは敵ですか、味方ですか」
玻璃さんが少し止まった。
「そういう分類を私はしません」
「では、どういう見方をしますか」
「……」
玻璃さんは私を見た。
「気の毒だと思っています」
「ルチルが?」
「そういう形で存在し続けなければならないことが。終われないでいることが」
「終われない?」
「本来であれば、もう終わっていたはずの存在です。でも終わることができなかった。それで今の形になっている」
「終わることができなかったのはなんで?」
「残したいものがあったから。残っていたいものがあったから」
玻璃さんはそれだけ言って、部屋を出た。
扉が閉まった。
私はルチルを見た。ルチルは窓枠の上で、扉の方を見ていた。
「ルチル」
「……なんだ」
「終われないでいる、って言われた」
「そうだな」
「本当のこと?」
「……だいたいは」
「だいたい、というのは?」
「完全に同意はしない。ただ」
ルチルが窓枠から降りて、私の膝に乗ってきた。いつもは肩に乗るのに、今日は膝だった。
「終わりたくない、と思っているのは本当のことだ」
「なんで終わりたくないの」
「おまえのそばにいたい」
「私の?」
「それが全部ではないが、それが一番言いやすい理由だ」
ルチルが膝の上で、丸くなった。大きな尻尾が私の足を覆った。
「怒るな」
「怒らない」
「……そうか」
「ルチル」
「なんだ」
「嘘をつかないでいてくれてありがとう」
「嘘をついているかもしれない」
「つかないと思う」
「根拠は」
「なんとなく」
ルチルが短く鼻を鳴らした。呆れている音だった。でも膝から離れなかった。
「おまえは本当に、なんとなく、ばかりだ」
「でも当たってる?」
「……今は言えない」
「それ何回目?」
「数えていない」
「私は数えてる」
「数えるな」
「嫌です」
ルチルがまた鼻を鳴らした。
夜の保管局に、静かな時間が流れた。
依子さんが奥で書類を整理していた。
私はルチルを膝に乗せたまま、窓の外を見た。
久瀬の夜景が見えた。小さな街の、小さな光が並んでいた。
どこかに、消えることができなかった誰かがいる。
どこかに、忘れさせられた記憶が眠っている。
どこかに、封印された感情が怪異として根を張っている。
そしてルチルは、終われないでいる。
それが全部、同じ場所に向かっている。
文化祭まで、あと二週間を切っていた。
「ルチル」
「なんだ」
「準備する時間は、ある?」
ルチルが膝の上で、目を開けた。
「ある。短いが、ある」
「じゃあ準備する」
「何を準備するつもりだ」
「向かうための準備。受け取るための準備。失くされたものを、なかったことにしないための準備」
ルチルが少し動いた。
「……具体的に言え」
「先輩のそばにいる。怪異が起きたとき、先輩が一人でいないようにする。感応をもっと使えるようになる」
「感応の訓練は、あたしがつける」
「お願いします」
「礼はいらない」
「言いたいので言います」
「……勝手にしろ」
ルチルが目を閉じた。
眠るらしかった。
膝の上で、小さくなったルチルは、今夜だけは偉そうでも毒舌でもなかった。
ただ、そこにいた。
終われないでいる、と言われた存在が、私の膝の上で眠っていた。
私はそれを見ながら、思った。
終わらせてあげたい。正しい形で。
でも終わらせることと、いなくなることは、同じじゃないかもしれない。
その「かもしれない」を信じたかった。
信じる根拠は、なんとなく、だけだったけれど。




