第十一章 晴澄先輩の空白
月曜日、晴澄さんが学校を休んだ。
木乃葉から「生徒会長、今日来てないみたい」と昼休みに聞いて、知った。志季さんが午前中の生徒会の仕事を一人でこなしていると、廊下で見かけたという話も聞いた。
気になったけれど、どうしようもなかった。
火曜日も休んだ。
水曜日の朝、私はルチルに「先輩のところに行きたい」と言った。
「見舞いに行くということか」
「具合が悪いなら」
「志季が拒否する可能性がある」
「志季さんに頼まなくても行けるよね」
「住所が分からないだろう」
「調べる方法がある」
「何の方法だ」
「透子に聞く」
ルチルが尻尾を立てた。
「あの新聞部の後輩に何でも聞くのはどうかと思うが」
「情報交換の関係だから」
「……そういう関係を作るのが早い」
「よく動く人間でいたい」
「動きすぎる人間でいてほしくはない」
「心配してくれてるの?」
「言い方を選べ」
透子に連絡したら、五分で返事が来た。「榊先輩の家は東久瀬の住宅地です。駅から十分くらい。詳しい住所は調べますね」
三分後にまた返事が来て、住所が届いた。
「早い」
「情報収集が好きな子はこういうとき頼りになる」
ルチルが言った。褒めているのか呆れているのか分からない言い方だった。
依子さんに連絡したら「行っておいで、ただし長居はしないこと。あと志季ちゃんが許可しなかったら引くこと」と返ってきた。真壁さんには連絡しなかった。しない方がいいと思った。
放課後、東久瀬の住宅地に行った。
静かな住宅地だった。道が整然としていて、植え込みがきれいに刈られていた。晴澄さんが住んでいる場所だ、と思ったら少し納得した。こういう場所が似合う人だと思った。
インターホンを押したら、志季さんの声がした。
「……高槻さんですか」
「はい。少し顔を見に来ました」
沈黙が長かった。
「先輩が望まれますか」
「聞いてみていただけますか」
また沈黙があった。
しばらくして「少しだけ」と言って、玄関が開いた。
志季さんが立っていた。いつもの制服ではなく、私服だった。少し意外だった。制服を着ていない志季さんは、少し違って見えた。雰囲気は変わらないのに、年相応に見えた。
「長居しないでください」
「します」
「先輩は今、あまり体調がよくないので」
「心配しているから来ました」
「心配なら来ないでほしいと思うことも、あります」
「それはそうですが」
「……理解した上で来てるんですね」
「はい」
志季さんは少し考えた。
「上がってください」
晴澄さんの家は、外観から想像した通り、整った内装だった。でも生活感がないわけではなかった。本棚があって、本が詰まっていた。テーブルの上に飲みかけのお茶があった。
志季さんに案内されたのは、廊下の奥の部屋だった。
「少し待ってください」
志季さんが先に入って、戻ってきた。
「どうぞ」
部屋に入った。
晴澄さんはベッドの上ではなく、窓際の椅子に座っていた。ブランケットをかけていた。顔色は悪くはなかったけれど、疲れていた。
「来たんですね」
「来てよかったですか」
「……来てしまったんでしょう、どうせ」
「はい」
晴澄さんが少し笑った。
「座って」
部屋の椅子が一つあったので、そこに座った。志季さんは入り口のところに立っていた。監視、というわけではないだろうけれど、そこから動かなかった。
部屋を少し見た。
本棚があった。学校の教科書や参考書が整然と並んでいた。その隣に、小説が何冊か。机の上は整理されていた。
ただ一つだけ、気になったものがあった。
机の上に、写真立てが一つあった。
中身が入っていなかった。
ガラスがあって、フレームがあって、でも写真がなかった。空の写真立てが、机の上に置いてあった。
「空ですね」
思わず言った。
晴澄さんが写真立てを見た。
「……そうね」
「以前は何か入っていたんですか」
「覚えていない」
「覚えていない?」
「何を入れていたかが、思い出せない。でも置いてある。ということは、何かを入れていたと思う」
「それも、記憶の空白ですか」
「そうだと思う。他にも、いくつか」
晴澄さんはブランケットの端を少し引いた。
「本棚も、一段だけ空いているところがある。前は何かが置いてあったはずなのに、何が置いてあったか思い出せない。引き出しの中にも、何かが入っていた形跡があるのに、何があったか分からないものがある」
「まるで、誰かの存在が消えているみたいだ」
「……そういう感じがする」
晴澄さんは窓の外を見た。今日は晴れていた。住宅地の静かな景色が見えた。
「火曜日に、夢を見た」
「夢?」
「女の子が出てきた。顔がはっきり見えなかった。でも一緒にいた。学校で、ここで、いろんな場所で一緒にいた。その子が笑っていた。私も笑っていた」
「夢の中で」
「目が覚めたら、誰だったか思い出せなかった。顔も名前も消えていた。でも一緒にいた感覚だけが残っていた」
「感覚だけ」
「感情だけ残って、出来事が見えない、と言っていたでしょう。先日」
「言いました」
「あれがずっと続いている。夢を見るたびに、目が覚めるたびに。誰かがいた感覚だけがある。でも誰かが分からない」
晴澄さんは写真立てを見た。
「思い出そうとすると、頭痛がひどくなる。吐き気がする。だから思い出せない。思い出そうとするたびに、体が拒否する」
「先輩」
「なに」
「思い出すことが怖いですか」
「怖い。でも」
「でも?」
「思い出せないままでいることの方が、最近は怖くなってきた」
バス停で言っていた言葉と同じだった。知らないままでいる方が怖い、という。
「忘れさせられたとしたら」
「え?」
「先輩が自分で忘れたんじゃなくて、誰かに忘れさせられたとしたら。先輩のせいじゃなくて、外から何かがされたとしたら」
晴澄さんは黙った。
長い沈黙だった。志季さんが入り口で少し動いた気がした。
「それは、怪異のことを言っているんですか」
「かもしれないし、もっと別のことかもしれない。まだ分かっていないことの方が多くて」
「でも可能性として、言ってくれた」
「はい」
「なんで」
「先輩が自分を責めているような顔をするから。でも先輩のせいじゃないと思うから」
晴澄さんが私を見た。
整えていた顔が、少しずつ解けていった。ゆっくりと、布が解けるように。
「そう言ってもらっても」
「信じなくていいです。ただ言いたかった」
「なんで言いたかったの」
「思っていることは言った方がいいと、最近強く思うので」
晴澄さんはしばらく私を見た。
それから、目を伏せた。
泣きそうな、というのでもなかった。でも今まで見た中で一番、整えていない顔だった。ブランケットの中で、手が少し動いていた。
「あなたがいてくれると、思い出しそうになる気がする」
「思い出しそうに?」
「何かを。何かが近づいてくる感じがする、あなたがいると。でも届かない」
「届かない理由が、封印なのかもしれないです」
「封印」
「詳しくは調査中です。でも、誰かが先輩の記憶に触れて、何かをした可能性がある」
「保管局が?」
「分からないです。でも、そういう可能性を調べています」
晴澄さんはまた黙った。
「それを調べて、どうするつもりですか」
「先輩が思い出せる状態にしたい。思い出すかどうかは先輩が決めることだけど、思い出せる状態にはしたい」
「思い出したら、苦しいかもしれない」
「そうかもしれません」
「苦しくても、思い出せる方がいいと、あなたは思う?」
「私が思うだけで、先輩がどう思うかの方が大事です」
「私は」
晴澄さんが窓の外を見た。
「さっき、忘れさせられたとしたら先輩のせいじゃないと言ってくれた。もしそれが本当なら」
「はい」
「思い出したい。誰かがいたなら。大切な誰かがいたなら。忘れたままでいるのは、その人に失礼な気がする」
「失礼」
「大切にしていた相手を忘れたまま、何も知らないふりでいることが。その人に対して」
私は晴澄さんを見た。
今のこの人は、泣きそうではなかった。静かだった。でも静かさの中に、何か決まったものがある顔だった。
「失礼にはならないと思います」
「なぜ」
「先輩は忘れたかったんじゃない。忘れさせられた。本人の意志じゃなかった、というのは、その人にも伝わると思うから」
「伝わる、というのは」
「先輩が思い出そうとしているとき、その人に届く気がします。感情は、消えないから」
晴澄さんはしばらく黙って、「なかったことにならない」と言った。
「はい」
「あなたが言っていた言葉ね」
「そうです」
「……そうだといい」
晴澄さんはブランケットを少し引き上げた。疲れていた。でも、少し前より顔が柔らかかった気がした。
「今日は来てくれてよかった」
「よかったですか」
「思っていたより、話せた」
「長居しましたか」
「少しだけ。でもまあ」
「まあ?」
「悪くなかった」
入り口で、志季さんが小さく息を吐いた。安堵、とまではいかないけれど、緊張が少し解けた音だった。
玄関を出るとき、志季さんが一緒に出てきた。
「少しいいですか」
「はい」
玄関の外で、志季さんが私を見た。
「先輩が、笑っていました」
「え?」
「さっき、部屋の中で。久しぶりに見た気がして」
「志季さんが来ていたのに?」
「私の前では笑わない。笑う必要がないと思っているんでしょう。私には弱いところを見せていいと思っているから、逆に笑わない」
「それは」
「あなたの前では、強くいようとする。だから笑う。そういう仕組みだと思います」
「複雑な人ですね、先輩は」
「そうですね」
志季さんは少し目を伏せた。
「あなたのことを、まだ完全には信用していない」
「知っています」
「でも、先輩に必要なのかもしれないとは思っています。今の先輩に」
「志季さんでは、届かないところがある?」
「私は先輩を支えることが得意ですが、先輩が自分で立つことを引き出すのは苦手です。あなたは逆らしい」
「逆、というのは」
「先輩が自分で何かを言いたくなるように、なっている気がします、あなたといると」
私はしばらく黙った。
「それは、怪異の影響じゃないかもしれない」
「何の影響ですか」
「先輩が、もともとそういう部分を持っているんじゃないかと思って。言いたいことを、言える場所を探している人なのかもしれない」
志季さんが私を見た。
「……そうかもしれません」
「志季さんは、先輩のことを大切に思っているのが伝わります」
「それは」
「言っておきたかったです」
志季さんが少し目を逸らした。珍しいことだった。いつも真っ直ぐに人を見る人が、目を逸らした。
「……余計なことを言わないでください」
「はい」
「ただ」
「ただ?」
「先輩を、よろしくお願いします」
志季さんらしくない言い方だった。自分でも分かっているのか、言い終わってすぐ「こんなことを言うつもりじゃなかった」と言った。
「よろしくお願いします。志季さんも一緒に」
「一緒に?」
「一人でやるつもりはないので」
志季さんはしばらく黙った。
「……変な人ですね、あなたは」
「よく言われます」
「今日で四回目か五回目ですよ、それ」
「数えてたんですか」
「数えていません。なんとなく」
志季さんが玄関の方に向いた。帰るように促している、ということだと思った。
「また来ていいですか」
「先輩が望む限りは」
「先輩が望まなくても、来るかもしれないですが」
「知っていました」
志季さんが、また小さく苦笑した。今日で何回目かの。
「その場合は、また話し合いましょう」
「はい」
帰り道、ルチルが肩の上に乗ってきた。
「話は聞いていた」
「いつもそう言うね」
「いつも聞いているので」
「空の写真立てが気になった」
「そうか」
「本棚の空いた一段も。誰かの存在が、部屋から消えているみたいだった」
「……そうだな」
「ルチル」
「なんだ」
「晴澄さんの部屋から、誰かの存在が消えているのは、意図的なものだと思う?」
ルチルは少し間を置いた。
「意図的なものと、怪異による浸食の、両方がある可能性がある」
「両方?」
「最初に意図的に処理された。その後、怪異化した根が広がって、物理的な痕跡まで侵食し始めている。そういう経緯があるかもしれない」
「意図的に処理した、というのは保管局が?」
「……可能性がある」
「なんのために」
「守るため、という建前の可能性がある」
「建前、というのは、本当は違う理由があるということですか」
「守る、という動機自体は本物だったかもしれない。でも方法が正しかったかどうかは別の話だ」
「誰かの存在を消して守る、ということがありうるんですか」
「おまえたちが言う"なかったことにする"というのが、最も強力な封印になる場合がある。名前を消す、記憶を消す、写真から消す。それが怪異の拡大を防ぐために行われることがある」
「でも、消された側は」
「消えたまま、どこかにいることになる」
「それは」
「残酷だ、とあたしも思う」
ルチルが穏やかな声で言った。
「だから、今も怪異化している。消されたまま、消えることができなかったから」
「消えることができなかった」
「完全に消えるためには、誰かに覚えていてもらう必要がある。逆説的だが、そういうものだ。完全に忘れられた存在は消えるが、誰かが少しでも覚えていれば、消え切れない。怪異として残り続ける」
「先輩が覚えていたから」
「記憶を消されても、感情は完全には消えなかった。待っていた感覚、一緒にいた感覚。それが残っていた。だから消えきれなかった」
「その子は、怪異として残っているんですか、今も」
「正確には違う。怪異として残っている、というより、怪異を引き起こす根として残っている。その子自身の意志ではなく、感情の残滓が根になっている」
「その子の意志は?」
ルチルが黙った。
「……消えているかもしれない。あるいは、残っているかもしれない。それはまだ分からない」
「分からないの?」
「本当に分からない部分がある。あたしにも」
それは珍しい言い方だった。今まで「言えない」か「関係ない」かどちらかだったのに、「分からない」と言った。
「ルチルが分からないことがあるんですね」
「当然あります。あたしは全知じゃない」
「知ってます。でも、なんか少し安心した」
「なぜ安心するんだ」
「ルチルが全部知ってたら、全部隠されてる感じで怖かったから。知らないことがあるなら、一緒に探せる」
ルチルが尻尾を揺らした。
「……そういう考え方をするのか」
「いけませんか」
「いけなくはない」
「じゃあいい」
「単純だな」
「そうかも」
夕方の住宅地を歩いた。街灯が灯り始めていた。
「ルチル、一個だけ聞いていいですか」
「なんだ」
「その子、今も苦しいですか」
ルチルが長い間、黙った。
返事がないのかと思ったとき、言った。
「苦しいかどうかより、寂しいのだと思う」
「寂しい」
「忘れられていることが。消されていることが。でもそれを誰かに言えないことが」
「言えないのはなんで」
「言える形がないから。怪異の根としてしか、残っていないから。言葉を持っていない」
「それは」
「だから、おまえが拾う必要がある。おまえの感応だけが、その子の感情に触れられる。怪異として処理するのではなく、感情として受け取れるのは、おまえだけだ」
「だから私をスカウトしたんですか」
「……それだけの理由ではない。でもそれも、理由の一つだ」
「じゃあ私は、その子を拾いに行くために、ここにいるんですか」
「それが全部ではない。ただ」
「ただ?」
「おまえが一番向いている、ということは確かだ」
「向いている、というのは」
「失くされたものを、なかったことにしたくない、と思う人間が、一番向いている」
私は歩きながら、少し空を見た。夕焼けが残っていた。
「その子を拾えたとして、どうなりますか」
「それはまだ分からない」
「分からない?」
「あたしにも、その先が見えていない。おまえが拾ったとき、初めて分かることがある。そういう案件だ」
「怖いですね」
「そうだな」
「でも」
「でも?」
「やらない、という選択はないです。私には」
ルチルが短く言った。
「知っていた」
「じゃあ最初から心配しなくてよかったでは」
「心配することと、知っていることは別だ」
「そうですね」
私は笑った。ルチルは「笑うな」と言った。でも怒っていない声だった。
夕焼けの中を歩きながら、晴澄さんの部屋にあった空の写真立てを思った。
空の写真立てに、いつか写真が戻る日が来るかもしれない。
来ない可能性もある。
でも空のまま置いてあるということは、晴澄さんの中で、まだそこに何かを入れようとしている気持ちがある、ということだと思った。
無意識に、それでも。
空白は、空白のままでは終わらないかもしれない。
そう思って、家の方向に歩き続けた。




